園田くんみたいに二階からぶちまけてみたい
どうもこんにちは。
雨の休日に家にいることほどもったいないことはないと思う。
雨の日にちょっと濡れながら、普段とは違う感覚の街を歩くのは楽しい。そして、何よりもどこに行っても空いている。
この間の雨は、ちょっと大きなショッピングセンターに出掛けた。
本屋を回ったり、文房具をみて、当てもなくふらふらしていた。帰ろうかと思ってた出口に向かうと、さっきよりも大降りになっている。
雨宿りのつもりで、目的なくショッピングセンターを歩く。すると、普段なら気にも止めないゲームセンターの騒々しい明かりが気にかかった。
ちょっと前に読んだ芥川賞受賞作の「この世の喜びよ」のことが頭にあったのか、それとも、ダウ90000の舞台(観劇ノート「また点滅に戻るだけ」 - AM1:00-3:00)がゲーセンを舞台にしていたからなのか。
普段だったら入ることもないゲーセンに入って、しかもずいぶん長い間、やってこなかったメダルゲームをやってみる気になった。
500円で100枚くらいのメダルを買って、桃鉄のゲーム機に座った。
どうせ雨宿りだし、30分の暇潰しになればいいと思っていたのだが、20分後には当たりに当たって倍以上の1200になった。
使いきるには時間がかかるだろうし、しかし、もう帰りたい。仕方なしにメダルバンクを作った。この歳になって、新しいメタルバンクを作るとは思わなかった。
最後にメダルゲームをやったのは小学生の頃。
ヨーカドーの一番上に小さいゲーセンがあり、狭いスペースにメダルゲームコーナーがあった。
前後にスライドする台にメダルを落とすタイプの花形のゲーム機にみんなが集まる中、私はじゃんけんをするだけのゲーム機をひたすらやっていた。
グー、チョキ、パーのどれかのボタンを押して、粗いドットの画面に映るグー、チョキ、パーに勝つかどうかというごく単純なものだった。
私は飽きることなくひたすらじゃんけんをしていた。しかし、じゃんけんそのものが楽しかったわけではなかった。
じゃんけんの結果を毎回毎回、ノートに付けて、ゲーム機が出す手の法則性を見いだそうとするのに一生懸命だったのだ。
3つしか無いものの法則を見つけ出すのは簡単なように見えて、難しい。
学校から帰ると毎日のように踏み切り向こうのヨーカドーに行き、門限ギリギリまでじゃんけんしていた。
しかし、長いことやっても法則は見つからなかった。
今、調べれば、必勝法や法則性などがネット上にあるのだろうけど、それはしない。
あんなに一生懸命じゃんけんしてはノートに記して、と繰り返していた私に、なんだか申し訳ない。
それに、今の私には、そんな必勝法など無くても、1200枚という、およそ使いきれるかわからない量のメダルがあるのだ。
そんな必要はもうない。
では、こりゃまた失礼いたしました。
観劇ノート「また点滅に戻るだけ」
どうもこんにちは。
ダウ90000の本公演「また点滅に戻るだけ」を観てきました。
私もよく飽きずに彼らを追いかけている。
観れる配信はほとんど観て、舞台は本公演、単独ライヴは会場へおもむき、挙げ句にラジオとレギュラー番組、特番と全部観ている。
本当に追いかけすぎてる。
私が蓮見くんを見つけてから、彼は書くたびに必ず前作を越えてくる。
「ずっと正月」や「10000」そして、「夜衝2」をユーロライブで観たときに、これ以上の作品は出てこないだろう、と毎回思っている。それでもやっぱり「あの子の自転車vo.9」の最後の20分ネタを観たとき、越えちゃったよ、と驚愕してきた。
今回はもうさすがに越えないでしょ、と思っていたら、案の定、恐ろしい上がり幅で前作を越えてきた。
持ち味だった共感を武器としていたワードセンスは、さらに強化されていて、世代を越えたパワーワード化していた。カップヌードルミュージアムのくだりとか最高だった…
何よりも構成がすごかった。
前半のクスクス笑いのさざ波が、後半、うねりになって物語をひっくり返す。
ばらまいた笑いはもれなく回収されて、無駄なものが一切ない。どうやって書いてんの?と、もうわけが分からない。
作品の軸もよかった。
前に蓮見くんが「あちこちオードリー」に出演した際に、「『手放しに誉めてくる大人には気を付けろ』とメンバーに言っている」という旨のことを話していた。
芸能界で認知され、メディア出演も急激に増え、SNSでも話題に上がることが多くなった今のダウ90000から見た「芸能界」という世界はいびつなところも多い世界なんだろうと思う。
そんな芸能界をちょっと毒をもって笑いに変えて、しかも誰かのセリフではなく蓮見くんのセリフとして、かなりはっきりと言語化されていた。
現状のダウがかなり色濃く反映されていてよかった。
そして、メンバー全員の演技力が格段にあがっていた。
知名度が上がってきて、ドラマや他の公演への出演が増え、蓮見作品以外も演じるスキルがダウに還元されて、8人全体が圧倒的にパワーアップしている。
あの台詞量で、あの笑いの量をしっかり笑い待ちしているのに、一人一人の台詞がちゃんと聞こえる技量は圧巻だと思う。
キャラクターに関しても、完全な当て書きから、少しづつキャラクターが色付けされているような気もした。そのキャラクターをかなりの精度で演じきっていた。
前作では一人、スーツを着ることのなかった園田くんが、今作では、唯一スーツ役だったのは蓮見くんの遊びだったのだろうか。
最後に、この公演は蓮見くんの芯の強さを感じる舞台であったと思う。
本多劇場という大きな舞台まで駆け上がり、人気とそれに伴うだけの実力を実感する一方、明らかな大人の力、お金の力を感じる。
「旅館じゃないんだから」では小道具として自費でUFOキャッチャーを購入していた彼ら。
二年後にはメンバーの顔を大きくプリントしたプリクラ機の大道具を作るまでになった。
しかし、今までとは違った規模のお金のかかったセットも、ただ立派な装飾のセットでは終わらない。
このプリクラ機だからこそ生まれた「自分製造機」というワード、そして、それが物語を大きく展開させる重要なワードになっている。
ちゃんと大人の、お金の力を作品を面白いものにするために使おうという信念のようなものが感じられて、やっぱり蓮見翔は芯が強いな、と思う。
これに少し関連して、製作サイドのミスでTシャツにプリントされなかった件をラジオで、もちろん笑いにしてだが、言い続けるのもすごいと思う。大人のミスに堂々と忖度なしに立ち向かえるところは彼らしいと思いながら、もちろん、買った。
ダウ90000が広く認知されるようになってから、方々のラジオパーソナリティが話をするようになってくれたので、回想ができて、これもいい。
これからまた配信を観て、一から楽しもうと思う。
では、こりゃまた失礼いたしました。
途中反省 シナリオ執筆中の覚え書き
どうもこんにちは。
別に前から高頻度で書いていたと言うわけでもないのだが、それにしても、最近は駄文を書いていない。
というのも、前にチラリと言ったが、公募用のドラマシナリオを書いていて、なるべく時間をそこに注いたいと思ってしまうからだ。
シナリオだけをこん詰めて書いたからといって、いいものになるわけではないし、無関係な文章を書くことがシナリオに無関係なこともないと思っている。
ちょっと前にようやくプロットを書き終え、ちょっとづつそれを修正をしながら、シナリオになるシーンはシナリオにしていく作業を繰り返している。
完成したプロットを何人かに読んでもらって、意見をもらった。
書いていると全く見えないことが読んでいる人には見えていて、それを言葉にして伝えてもらうことは大変ありがたい。
「つまらない、読むに値しない、時間を返せ、×」でも構わないと強引に送りつけたものに、ちゃんと感想をいただいた。送った人全員がちゃんと読んでくれたのだ。ちょっとすごいと思ってしまった。いや、これはもう、私がすごいのか。そういう人が周りにいる私の人徳なのか。
そんなことはないので、真面目には取り合わないでほしい。
中でも、一番気付かされたのは、書きたいことを書こうと思いすぎて、結局書きたいことだけを無理くり書いてしまう、というトラップと、書きたいことが本当は自分でも解決してないのに、書き出してしまっている、というトラップだ。
書きたいことを書くためには、つまり、言いたいことを登場人物に言わせるためには、登場人物がそれを言わなくてはいけない状況を作らないといけないのだ。言いたいことを書きたいがあまり、その状況作りを怠ってしまったのだ。
こんなことを指摘するなんて、真面目に私のプロット読みすぎじゃないか。
それから、書いたいことがうやむやでも、ある意味で筆を置けてしまうのが、シナリオなのではないかと思っている。
何かを主張するために、論文やそこまで大袈裟でない随筆のていをとるならば、当たり前だが、必ず主張の結論がいるし、そこまでの筋道がいる。それは直接的な形で、書いた人間の言葉としてしか、表に出てこない。
一方、シナリオなどの創作では、主張したいことを正面から言葉にすることが必ずしも作品にとってプラスになるとは限らない。むしろ、そういった主張は物語の裏側に隠された方がいいという風潮すらある。
そうなると、言いたいことを直接的に言語化しないせいで、主張がうやむやでも、物語が幕を閉じれば、その良し悪しは置いておいても、作品も完成ということになる。
まさに今私が書いているシナリオがそれなのだ。
登場人物のセリフに説得力がないことも、言いたいことが形になり切っていないことも指摘された。
みんな、ちゃんと読みすぎて、手厳しいよ、と嘆いてすらしまった。
と、ここまで、ダラダラ書きながら、今現在の私のシナリオ執筆がどの過程にあるのか自己反省をしてみた。おかげで、あと1ヶ月半、私がシナリオのために考えなくてはいけないことが見えてきた。
シナリオを離れて、無関係な駄文を書くつもりだったのに、いつの間にかシナリオのための駄文を書いていた。
なんかせっかくだし、関係ないことも言っておこう。
爆笑問題の太田さん著の「笑って人類」を読み始めた。
恐ろしい文章量で少しひるんでしまっている。500ページ以上、しかも二段組という文章量。
ただ、わかりやすいキャラクターたちがドタバタ繰り広げるコメディの中に、普段、太田さんがラジオで語ることの本質が見え隠れしているの。なんか太田さんらしい。
なんて言っても、まだ200ページくらいしか読んでいない。
では、こりゃまた失礼いたしました。
29歳言
どうもこんにちは。
というのも束の間、29歳になった。
ここ数年、年を取ったからと言って特別に思うことはなかったのだが、20代が最後ともなると、少しは考える。
30歳になったからどう、とか言うことでもないので、20代が最後だろうが関係ないような気がする。考えるようなこともないと思うのだが、しかし、やっぱり20代最後かぁ…と思っている。
曖昧な感覚の節目を、これから30代に入るぞ、という未来志向よりも、そういえばこの9年はどうだったろうか、と回顧しながら、迎えている。
というのも、最近、通勤中、とある本を読んで考えるところがあるからだ。
ニッポン放送のオールナイトニッポンのチーフディレクターだった石井玄さんの「アフタートーク」を読んでいる。
この本で再三、石井さんはラジオに救われた、ラジオしか居場所がない、と語る。
ラジオに救われた青年が、ラジオを盛り上げ、恩返しをしていくまでが、普段語られないラジオの裏側を折り込みながら、綴られている。
もちろん、裏方が語るパーソナリティーの裏側など面白い。しかし、それよりも何よりも石井さんがチーフになってから手掛けたイベント、特に私も配信を見ていた、コロナ禍でのイベントの裏側はかなり読み応えがあった。
あの頃にイベントを開催するというのは、世の中の雰囲気に抗うようなものだった。その開催までの苦労は並大抵のものではなかったはずだ。
そんなイベントにかける石井さんの原動力は、番組を聞いているリスナーのために番組を終わらせない、という思いだ。
そして、そのリスナーの中にはいつもあの頃の石井さん自身がいる。
放送作家の寺坂さんとの対談の中でも、
きっといつも一人のリスナーの顔を思い浮かべていて。
学校行けなくて、友達もいなくて、それこそ「明日、死のうかな」って思っているような人が、暗闇の中でラジオをつけて膝小僧を抱えながら聴いている。そんなかつての自分と同じようなリスナーに届けと思いながら、番組を作っているんだと思います。「アフタートーク」(石井玄、2021、p204)
という寺坂さんの言葉にうなづいている。
大学にも行かなくなり、バイトも続かない石井さんを救ったラジオを通して、自分と同じような人が救われているかもしれない、という思いが常に原動力となって石井さんを突き動かしていた。
そんな話を読んでいると、私は自分に思うことがある。
私は何かに救われるほど、絶望したことがあるだろうか。
この問いが20代最後のラストスパートを走り始めた自分の回顧と重なる。
自分のいうのもなんではあるのだが、大抵のことはそつなくこなしてきた。
アルバイトを始めても大抵の研修は同期の人よりも早く終わる。1を聞いて10を知るは難しくとも、3くらいにことを教えて貰えば、9くらいは考えられる。
ある程度自分で納得できる理由とともに自分の道は自分で決められてきた。そして、その中でうまいこと人間関係を作り上げ、立ち回ることも苦ではなかった。
好奇心は結構、旺盛な方で、それを満たすのに必要な体力もそこそこあったので、充実した時間を過ごすこともできた。
特に自分で稼いで、自分で生活を面倒見てきたこの9年間は特に自由だった。
こうなると、何かに特化するわけでないが、何かが特別に劣ることもなかった。
絶望の淵にあった過去の自分を原動力に全力でいる石井さんを見ていると、その放送を聞いているとワクワクする。
それと同時に思うこともある。
私にはそんな原動力を過去に見つけられるだろうか。この29年、何かの原動力となる絶望をしてこなかったのじゃないか。もしくは、その絶望に何か言い訳を足して、目を背けて来たのではないか。
人間は絶望しなければ、何か出来ないのだろうか。しかし、そんなことはない。
絶望してないことを言い訳にして、また絶望から逃れようとしていないだろうか。
30代最後の一年を迎えて、考えたこととしてはあまり元気がよくなかったかもしれない。
あと、今さら「アフタートーク」かよと言うことは言わないで欲しい。
ちゃんとこの後、「ラジオじゃないと届かない」も読みますから。
では、こりゃまた失礼いたしました。
4月の雑記
どうもこんにちは。
取り留めのないことなのに、どこかに情緒があったり、笑えたり、読んでいる人の記憶の片隅と重なったり、いいエッセイとはそんなものだと思う。
最初は私もそんなものを書きたいと思っていたのだけれど、どうにもそんなものは書けないらしい。結構序盤に諦めた。
その諦念を「駄文」という言い方で誤魔化して、ちょっとした量を書いてきた。
毎度思うけど、この時間コンビニのレジ打ちをしていたら、新聞を配達してたら、今一番欲しいものが買えたような気がする。
ちなみに今一番欲しいものは、越前箪笥のキャリーバッグだ。
タンスキャリーバッグ(引き出しタイプ) – a.department store
そこそこいいお値段するが、おそらく、本当にこれを書いている時間と時給で計算すれば、これくらいは費やしている。
別にだから、どうしたということもないし、じゃあ、時間を無駄にしたという後悔があるわけでもない。なら、わざわざこんなこと書かなくてもいいのに。
気軽に書こうと思っているのだが、ついついいつの間にか、長々と駄文が続いていく。
今もナイロン100℃の「Don't freak out」とダウ90000の「あの子の自転車」について書き途中なのだが、どちらも書ききる前に配信期間が終わってしまいそうだ。
まぁ、私が言葉にしておきたいために書いているので、多分いつかは完成させるのだろうけど。
カーボーイを聞いていたら、シティボーイズがラジオを始めたという。しかも、コントとトークの両A面で。
私が存在を知って憧れるようになってから、拝見する機会のなかったシティボーイズのコント、何でもないことを話しているのにコントになっていて、クスクス笑ってしまう。
あ、当たり前のように言ったカーボーイって、爆笑問題カーボーイってラジオのことですからね
シティボーイズに感動しながら、宮沢章夫さんの舞台を一度は観ておきたいと思っていたのに、叶う前に亡くなってしまったことを思い出した。いとうせいこうさんとかもそのうち参加してくれないものかしら。
アニメ「オッドタクシー」が面白かった。
会話劇としての面白さから物語に引き込まれて、オムニバスのように展開する色んな人物たちの小さなストーリーが、いつの間にか繋がっていき、大きなストーリーに渦巻いていく。
具体的な地名でリアリティのある東京を舞台に、動物のキャラクターたちが人間さながらの生活をする様は鳥獣戯画のようで可愛らしい、なんて微笑ましく観ていたら、とんでもないどんでん返しを食らった。
ここまで書いてみて、読み返して、やっぱり取り留めがないだけの駄文でした。
面白かったものをただ面白いと書いただけで、本当にどうしてこんなことに時間を割いているのだろうか。
では、こりゃまた失礼致しました。
鑑賞ノート「劇場版センキョナンデス」
どうもこんにちは。
毎週土曜日の深夜に聞いているTBSラジオ「東京ポッド許可局」でお馴染みのプチ鹿島さんとラッパーのダースレーダーさんがYouTubeでやっている配信番組「ヒルカラナンデス(仮)」のスピンオフ、「劇場版センキョナンデス」(映画『劇場版 センキョナンデス』公式サイト| 全国順次ロードショー)を黄金町はジャック&ベティで観てきた。
許可局員の私は、プチ鹿島さんの「なんでも面白がってやろう」「さぁてどこか面白がれそうな切り口はないかな」と探して回る姿勢が大好きだ。そして、面白がれるところを見つけると、そこから、深く考え、行間を深く読んでいく。そんな鹿島さんが大好きだ。
まず、2時間通して鹿島さんの好奇心に対する探求がすごいのなんの。知りたいことに正直で、執拗なまでに答えを求めて方々歩き回る姿は気持ちがいい。
そして、鹿島さんが知りたいと思うことに対して、冷静にその答えまでの道のりを示すのがダースレイダーさんだ。先日の東京ポッド許可局でダースレイダーさんとの相性の良さを語っていたプチ鹿島さんだが、これを観ていると、それがよくわかる。
特に香川1区を追った際の四国新聞に対する取材の様子は凄まじい執念を見せる。
しかし、鹿島さんが不思議に思い、本当のことを知ろうとするのは当たり前のことだ。声を上げないだけで、私だって不可解に思う。しかし、同じことに疑問符がついても、知ろうと実際に動くかどうかは雲泥の差だ。知ろうと歩き回る二人の姿をみていると、思う止まりだった私がいかに政治に対して、傍観者として、我関せずでいたかがわかる。
全体は二部構成で、その前半が2021年の衆議院選挙での香川1区を追いかけたものだ。
「なぜ君は〜」で話題になった立憲民主党の小川淳也氏と、初代デジタル大臣で自民党の平井卓也氏を中心とする大激戦の選挙区だった。
鹿島さんとダースレイダーさんは、3人の候補者の街頭演説の予定を調べ、3人全員に会いにいく。
町を行く街宣カーに耳をすませ、SNSに目を見張らせ、3人の候補者が現れそうな場所を探して、あーだこーだと駆け回る二人の姿は、まるで劇場で出待ちするファンの姿そのものだ。
各候補者に偏ることなく、声を聞きに行く。各候補者がどんな主張をしているのか、という政治家としてのイデオロギーはもちろんのこと、二人の興味の赴くままに選挙戦への姿勢や手応えなどを聞いていく。それに答える候補者たちの姿は、政治家の仮面を脱いで、だんだんと生身の人間に見えてくる。
主義主張が違っても、それを唱えているのも私たちと同じ人間だ。その人間味が垣間見れてくると、たとえ違う意見を持っていても、真っ向から否定しないで、話だけでも聞いてみようじゃないか、という気になってくる。
政治家のことを私とは違う人種だと思いがちだが、ちょっと話を聞いてみれば、可愛げのある人間の姿に共感が持ててくる。
お二人が候補者を追いかけ、候補者から引き出す話には、そんな人間味が溢れている。
そして、前半の醍醐味はなんといっても前述の四国新聞だ。
小川淳也氏を批判した記事が小川氏当人への取材がなされずに書かれたことについて、鹿島さんの執拗なまでの取材が面白い。しまいには四国新聞社まで乗り込んでいく。
直接対決の末に待っていたオチには、声を出して笑ってしまった。下手な与太郎噺よりも可笑しい。
後半は、2022年の参院選を大阪を中心に追いかけている。
「戦うリベラル宣言」を発表し、対維新の姿勢を強固に見せた菅直人氏や比例代表で出馬した辻元清美氏はもちろん、今回も全候補の街宣を回っている。やはりここでも、選挙カーの上からスピーカーを通して聞く、それぞれの公約よりも、選挙カーを降りて、生で聞く声から覗かれる生の人間味が面白い。
そして、一番の山場は選挙中に起きた民主主義を揺るがす大事件、安倍元総理の銃撃事件だ。
この時、各候補が何を考え、どう発信し、どう動いたか、が記録されていた。
民主主義の根幹たる選挙、そして、その選挙を支える言論が暴力に対して、いかに戦えるか、スクリーンに映る全員が真剣に考えていた。
しかし、本当は選挙権をもつ人間、すなわち、日本国民全員が真剣に考えなくてはいけないはずなのだ。
この日、二人が映し出したのは、言論が暴力に屈さない姿だけではない。
我々が未曾有の事態に直面したときに、どうやって情報を収集し、発信していくのか、その方法にこそ、普段は見せないその人の本当の姿が垣間見られる。そのことを改めて実感する事態だった。
あの時、容疑者の動機がまだ発表されないうちから、選挙中に元総理大臣が襲撃された、という事実だけで犯行の動機をイデオロギーの相違によるものだと断定して、一定の人たちを批判するような言葉がTwitterで飛び交った。
発言に影響力のある人がそんな無責任なツイートをしているのを見つけた時のダースレイダーさんの表情が印象的だった。
こうした混乱の中でもダースレイダーさんは、これから自分達の立ち振る舞いや発言は間違いがあるかも知れない、でも、その間違いも記録しておくべきだとカメラを回し続ける。
このセリフが劇中で一番ハッとさせられる。自分達の間違いも今後の行動の指針になると言うのだ。
間違いでも記録しておく、その間違いを今後の行動指針にする。
口で言うのは簡単だし、失敗から学ぶべきことがあるなんて、誰でも知っている。
しかし、間違いを認めるのはやっぱり気が進まないし、そんなもの無かったことに出来るならそうしたいと思ってしまう。
それを間違えるから前からそのことも視野に入れてカメラを回し続けたダースレイダーさんこそ、真実に対して、本当のことを知るために、ひたむきな姿だった。その姿に、それまでの言葉、その後の言葉、その全てに重みと説得力が増した。
度々言うようだが、二人はこの映画を通して、主義主張をしたり、政権批判したりしているわけではない。もし、主張をしたいなら、候補者全員に突撃する必要はないのだ。
二人はあくまで、選挙を楽しまんがために、街宣を回って、あの人はあんなこと言ってる、この人はちょっと違うぞ、を比べているのだ。違うことを指摘して、その是非を問うこともしない。
むしろ、違った意見にこそ、納得できないことにこそ、力を入れて食らいついて、話を聞こうとしている。
この二人を見ていてあることに気づいた。
この違いを認めて、話を聞こうとする姿勢こそ、まさに近年、声を大にして叫ばれている多様性のあるべき姿じゃないか、と思ったのだ。
プチ鹿島さんとダースレイダーさんの選挙に対する姿勢、つまり、自分と違うという理由だけで批判せず、まず、話を聞きにいこうじゃないか、というの民主主義のあるべき本当の姿は、声を大にして社会に叫ばなくても既に多様性を広く認めているはずなのだ。
じゃあ、多様性を叫ばなくてはいけない社会って、まだ民主主義が機能しきっていない社会のことではないか。そんなことを思った。
今、自分が生きている社会って本当はどんな姿をしているのだろうか。本当を姿を見るにはどうしたらいいのだろうか。知りたいことがどんどん山積して目の前が見えなくなってくる。
知りたい、聞きたいという時に本当に社会は教えてくれるのだろうか。
新聞を開けば、どうしてだか納得のいかないことばかりだ。それを納得いかないと言うだけで批判せず、納得できないことが起こっている原因を知りたい、聞きたい。でも、どうしてだか、教えてくれない。話を逸らされ、煙に巻かれる。
この知りたいことがうまく知ることができない状況、なんだか自分も参加しているはずの政治から疎外されてしまっていないか、と言う気がしてくる。劇中、二人が街宣をめぐっている間も、話を遮られたり、妨害されたりしながら、各候補の話を聞いている姿を見ると、そんな気がしてきた。
私がそんなことを知ったって、社会がどうなるわけではない。でも、社会がどうにかなるために知るわけではない。しかし、責任のある一票を投じるために、知ろうとする姿勢をやめてはいけない。
映画館を出る時、そんなふうに思った。
では、こりゃまた失礼いたしました。
稼げると言われて、よこしまなかしら
どうもこんにちは。
ダラダラと気が向いた時に書いてきたこの駄文も時間が経つので、それなりの数になる。
本屋をふらふらしてる時に、たまに「ブログで稼ぐ」みたいな本が目に止まるので、よこしまな気持ちでページをパラパラとめくってみる。
別にこれを読んでいる人からお金をせしめようなどとは思わないし、そんなことになったら、それなりの物を書かなくてはならなくなるので、とんでもないことだ。気が滅入る。
それでも、誰かに「稼げる」なんて言われれば、その気にならなくたって、「そうかしら」ぐらいには思ってしまう。
きっとネズミ講の元凶はこの「かしら」にあるのだろうと思う。
そんな「よこしまなかしら」でページをめくると、「ブログで稼げる」と謳っている本には必ず「記事を専門化させることでpvを稼ぐ」と書いてある。
私の中のよこしまなかしらはここで潰える。
記事の専門化ということは、映画のことは映画だけ、読書のことは読書のことだけ書いて、映画が好きな人、読書が好きな人を集めるというのだ。
ちょっと考えればわかると思うのだが、世の中に映画が好きな人、読書が好きな人がどれだけいると思っているのか。
その中で、自分が特化しているということは、相当な数の作品数を観読みしてないといけないことになる。とてつもない専門性がないと内容が軽薄になってしまう。
しかも、そんなに映画のことばかり、読書のことばかり、ずっと書き続けられるだろうか。途中で興味が逸れたり、無理やり書いたりすることがあるんじゃないかと思う。
そんな風に考えてみると、私が何かを専門的に書いていくなんて無理だと思う。
無理ではないが、更新頻度が月1とかのアカウントが10も20もある状態になってしまう。
その結果、やっぱりこんなふうに私の好きなことを好きな時にダラダラと綴ればいいじゃないか、と思うのだ。
これからもこんな駄文を銭に変えようなぞとよこしまなことは考えずに、私の興味だけを書いていればいいじゃないかと改めて思う。
言うなれば、私に関して専門的に書いていけばいいじゃないか、と適当なことを思ったりもするのだ。そういうことにしておけば、何を書いたって、私発信なんだから、なんでも私に専門的ということになる。
読んでいる人には、んなこたぁ知らないよ、と思われるような駄文でも、綴り続け、言語化する作業を介して、生身の私が形成され、専門化されていく。そんなことを繰り返していけば、私自身がちょっとは面白い人間になるんじゃないかと思う。
ここの駄文を超えて、実際に、私に会って、話をして、面白いと思ってもらえれば、書きたいかどうかわからないような専門記事ばかりを書いて小銭を稼ぐよりもよっぽど面白いじゃないか、とそんな気すらしてくる。
どうでもいいが、「よこしま」は「邪」と書くらしい。
こうやって書いて読めた人が何人いただろうか。私は知らなかったので、今回は使わずに、今回で覚えたことにして、次からは使っていいことにする。もし、どこかで私が書いた邪を見つけたら、ここで知ったんだなと、思ってください。
では、こりゃまた失礼いたしました。