本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

メキシコ料理を介して分かったこと

どうもこんにちは。

この間、面白い会をやった。 私の好きな人、3人を混ぜこぜにして、ご飯を食べた。 それぞれ、3人に面識はない。よくこんな会にみんな来てくれたと思う。 普段、私と楽しく話をしている人が、私と楽しく話している人と話しているのを聞くのも面白かった。

その中で少し違和感を持ったことがあった。

3人とも私と楽しく話をするくらいだから、根っこにある感覚はみんな、同じなんだと思っていた。 なのに、それぞれの話を聞いていると、なんだか、それぞれが隣の庭の根っこから生えているように聞こえる。 共有していると思っていた考え方の根幹が微妙に違うのだ。

その中で一人、明らかに根本から価値観が違うことに気づいた。

私はその人とも感覚の合う人だと思っていたのに、他の人との会話で、その人が気にしていること、中心に据えていることが、どうも私とは違うらしい。

これは面白いことに気付いたと思う。 私が話している時は同じ感覚に思えていた人が、他の人との会話を聞くと違った感覚の持ち主だと気付かされるたのだ。 帰り道、どうして、私は反対の感覚を持った彼女と楽しく話をしていたのだろう、かと考えていた。

まず一つには、私と彼女の感覚の違いが、私たちがそれぞれ持ち合わせている感覚全体の一部でしか生じていない、ということがあると思う。 考え方全てが正反対というのではなく、おそらく考え方のいろんな要素の中の一部が反対なのだ。 ということは、私が彼女と話している時には触れなかった要素の話を聞いたということになるのだろう。それはそれは新しいから面白い。

次に、いやいや、そもそも話をしていて面白い人だから、考え方が一緒だと思うところが早計なのではないか、と言うことである。 むしろ、こっちの方があるのではないか。

考え方が違うのだから意見が合わなそうものだが、意見が合う時も不思議とある。

そこで、彼女と話している時のことを思い出してみた。

すると、意見が合っているというよりもどちらかがどちらかの意見に納得した、という言い方の方がしっくりくる気がするのだ。 どちらかの意見に対して、聞き手は否定することなく、話を遮ることもなく、おかしな点は忌憚なく質問していたような気がする。 話し手も、反論も質問も気を悪くせず、お茶を濁さずに考える。言語化する手間を惜しまず、頭を回転させる。 こんな苦労をして話をしている時点で、我々の考え方が合っていないことなど分かりそうなものだ。

彼女に納得してもらわんが為の言語化する作業のおかげで、自分の考えていることがより明瞭になる。 つまり、私が彼女と話していて面白いと思っていたことというのは、考え方を共感し合っている同士の会話ではなく、共感のない人間に理解してもらうための苦労のことを面白がっていたのだと思う。

これはTwitterの140字じゃ絶対にできないことではないかだろうか。 140字では何も伝えられない。伝わってないことも伝えられない。伝わってないことが伝わってない、ということも伝えられない。 そうなると、結局、伝わってないことが、話が分からないことと混同して、排除することに繋がっていく。

それと同時に、やっぱり話をする人とは会わなきゃいけないな、と思う。 いろんな人に会いに行きます。暑いけどね。

では、こりゃまた失礼いたしました。