稼げると言われて、よこしまなかしら
どうもこんにちは。
ダラダラと気が向いた時に書いてきたこの駄文も時間が経つので、それなりの数になる。
本屋をふらふらしてる時に、たまに「ブログで稼ぐ」みたいな本が目に止まるので、よこしまな気持ちでページをパラパラとめくってみる。
別にこれを読んでいる人からお金をせしめようなどとは思わないし、そんなことになったら、それなりの物を書かなくてはならなくなるので、とんでもないことだ。気が滅入る。
それでも、誰かに「稼げる」なんて言われれば、その気にならなくたって、「そうかしら」ぐらいには思ってしまう。
きっとネズミ講の元凶はこの「かしら」にあるのだろうと思う。
そんな「よこしまなかしら」でページをめくると、「ブログで稼げる」と謳っている本には必ず「記事を専門化させることでpvを稼ぐ」と書いてある。
私の中のよこしまなかしらはここで潰える。
記事の専門化ということは、映画のことは映画だけ、読書のことは読書のことだけ書いて、映画が好きな人、読書が好きな人を集めるというのだ。
ちょっと考えればわかると思うのだが、世の中に映画が好きな人、読書が好きな人がどれだけいると思っているのか。
その中で、自分が特化しているということは、相当な数の作品数を観読みしてないといけないことになる。とてつもない専門性がないと内容が軽薄になってしまう。
しかも、そんなに映画のことばかり、読書のことばかり、ずっと書き続けられるだろうか。途中で興味が逸れたり、無理やり書いたりすることがあるんじゃないかと思う。
そんな風に考えてみると、私が何かを専門的に書いていくなんて無理だと思う。
無理ではないが、更新頻度が月1とかのアカウントが10も20もある状態になってしまう。
その結果、やっぱりこんなふうに私の好きなことを好きな時にダラダラと綴ればいいじゃないか、と思うのだ。
これからもこんな駄文を銭に変えようなぞとよこしまなことは考えずに、私の興味だけを書いていればいいじゃないかと改めて思う。
言うなれば、私に関して専門的に書いていけばいいじゃないか、と適当なことを思ったりもするのだ。そういうことにしておけば、何を書いたって、私発信なんだから、なんでも私に専門的ということになる。
読んでいる人には、んなこたぁ知らないよ、と思われるような駄文でも、綴り続け、言語化する作業を介して、生身の私が形成され、専門化されていく。そんなことを繰り返していけば、私自身がちょっとは面白い人間になるんじゃないかと思う。
ここの駄文を超えて、実際に、私に会って、話をして、面白いと思ってもらえれば、書きたいかどうかわからないような専門記事ばかりを書いて小銭を稼ぐよりもよっぽど面白いじゃないか、とそんな気すらしてくる。
どうでもいいが、「よこしま」は「邪」と書くらしい。
こうやって書いて読めた人が何人いただろうか。私は知らなかったので、今回は使わずに、今回で覚えたことにして、次からは使っていいことにする。もし、どこかで私が書いた邪を見つけたら、ここで知ったんだなと、思ってください。
では、こりゃまた失礼いたしました。