鑑賞ノート「劇場版センキョナンデス」
どうもこんにちは。
毎週土曜日の深夜に聞いているTBSラジオ「東京ポッド許可局」でお馴染みのプチ鹿島さんとラッパーのダースレーダーさんがYouTubeでやっている配信番組「ヒルカラナンデス(仮)」のスピンオフ、「劇場版センキョナンデス」(映画『劇場版 センキョナンデス』公式サイト| 全国順次ロードショー)を黄金町はジャック&ベティで観てきた。
許可局員の私は、プチ鹿島さんの「なんでも面白がってやろう」「さぁてどこか面白がれそうな切り口はないかな」と探して回る姿勢が大好きだ。そして、面白がれるところを見つけると、そこから、深く考え、行間を深く読んでいく。そんな鹿島さんが大好きだ。
まず、2時間通して鹿島さんの好奇心に対する探求がすごいのなんの。知りたいことに正直で、執拗なまでに答えを求めて方々歩き回る姿は気持ちがいい。
そして、鹿島さんが知りたいと思うことに対して、冷静にその答えまでの道のりを示すのがダースレイダーさんだ。先日の東京ポッド許可局でダースレイダーさんとの相性の良さを語っていたプチ鹿島さんだが、これを観ていると、それがよくわかる。
特に香川1区を追った際の四国新聞に対する取材の様子は凄まじい執念を見せる。
しかし、鹿島さんが不思議に思い、本当のことを知ろうとするのは当たり前のことだ。声を上げないだけで、私だって不可解に思う。しかし、同じことに疑問符がついても、知ろうと実際に動くかどうかは雲泥の差だ。知ろうと歩き回る二人の姿をみていると、思う止まりだった私がいかに政治に対して、傍観者として、我関せずでいたかがわかる。
全体は二部構成で、その前半が2021年の衆議院選挙での香川1区を追いかけたものだ。
「なぜ君は〜」で話題になった立憲民主党の小川淳也氏と、初代デジタル大臣で自民党の平井卓也氏を中心とする大激戦の選挙区だった。
鹿島さんとダースレイダーさんは、3人の候補者の街頭演説の予定を調べ、3人全員に会いにいく。
町を行く街宣カーに耳をすませ、SNSに目を見張らせ、3人の候補者が現れそうな場所を探して、あーだこーだと駆け回る二人の姿は、まるで劇場で出待ちするファンの姿そのものだ。
各候補者に偏ることなく、声を聞きに行く。各候補者がどんな主張をしているのか、という政治家としてのイデオロギーはもちろんのこと、二人の興味の赴くままに選挙戦への姿勢や手応えなどを聞いていく。それに答える候補者たちの姿は、政治家の仮面を脱いで、だんだんと生身の人間に見えてくる。
主義主張が違っても、それを唱えているのも私たちと同じ人間だ。その人間味が垣間見れてくると、たとえ違う意見を持っていても、真っ向から否定しないで、話だけでも聞いてみようじゃないか、という気になってくる。
政治家のことを私とは違う人種だと思いがちだが、ちょっと話を聞いてみれば、可愛げのある人間の姿に共感が持ててくる。
お二人が候補者を追いかけ、候補者から引き出す話には、そんな人間味が溢れている。
そして、前半の醍醐味はなんといっても前述の四国新聞だ。
小川淳也氏を批判した記事が小川氏当人への取材がなされずに書かれたことについて、鹿島さんの執拗なまでの取材が面白い。しまいには四国新聞社まで乗り込んでいく。
直接対決の末に待っていたオチには、声を出して笑ってしまった。下手な与太郎噺よりも可笑しい。
後半は、2022年の参院選を大阪を中心に追いかけている。
「戦うリベラル宣言」を発表し、対維新の姿勢を強固に見せた菅直人氏や比例代表で出馬した辻元清美氏はもちろん、今回も全候補の街宣を回っている。やはりここでも、選挙カーの上からスピーカーを通して聞く、それぞれの公約よりも、選挙カーを降りて、生で聞く声から覗かれる生の人間味が面白い。
そして、一番の山場は選挙中に起きた民主主義を揺るがす大事件、安倍元総理の銃撃事件だ。
この時、各候補が何を考え、どう発信し、どう動いたか、が記録されていた。
民主主義の根幹たる選挙、そして、その選挙を支える言論が暴力に対して、いかに戦えるか、スクリーンに映る全員が真剣に考えていた。
しかし、本当は選挙権をもつ人間、すなわち、日本国民全員が真剣に考えなくてはいけないはずなのだ。
この日、二人が映し出したのは、言論が暴力に屈さない姿だけではない。
我々が未曾有の事態に直面したときに、どうやって情報を収集し、発信していくのか、その方法にこそ、普段は見せないその人の本当の姿が垣間見られる。そのことを改めて実感する事態だった。
あの時、容疑者の動機がまだ発表されないうちから、選挙中に元総理大臣が襲撃された、という事実だけで犯行の動機をイデオロギーの相違によるものだと断定して、一定の人たちを批判するような言葉がTwitterで飛び交った。
発言に影響力のある人がそんな無責任なツイートをしているのを見つけた時のダースレイダーさんの表情が印象的だった。
こうした混乱の中でもダースレイダーさんは、これから自分達の立ち振る舞いや発言は間違いがあるかも知れない、でも、その間違いも記録しておくべきだとカメラを回し続ける。
このセリフが劇中で一番ハッとさせられる。自分達の間違いも今後の行動の指針になると言うのだ。
間違いでも記録しておく、その間違いを今後の行動指針にする。
口で言うのは簡単だし、失敗から学ぶべきことがあるなんて、誰でも知っている。
しかし、間違いを認めるのはやっぱり気が進まないし、そんなもの無かったことに出来るならそうしたいと思ってしまう。
それを間違えるから前からそのことも視野に入れてカメラを回し続けたダースレイダーさんこそ、真実に対して、本当のことを知るために、ひたむきな姿だった。その姿に、それまでの言葉、その後の言葉、その全てに重みと説得力が増した。
度々言うようだが、二人はこの映画を通して、主義主張をしたり、政権批判したりしているわけではない。もし、主張をしたいなら、候補者全員に突撃する必要はないのだ。
二人はあくまで、選挙を楽しまんがために、街宣を回って、あの人はあんなこと言ってる、この人はちょっと違うぞ、を比べているのだ。違うことを指摘して、その是非を問うこともしない。
むしろ、違った意見にこそ、納得できないことにこそ、力を入れて食らいついて、話を聞こうとしている。
この二人を見ていてあることに気づいた。
この違いを認めて、話を聞こうとする姿勢こそ、まさに近年、声を大にして叫ばれている多様性のあるべき姿じゃないか、と思ったのだ。
プチ鹿島さんとダースレイダーさんの選挙に対する姿勢、つまり、自分と違うという理由だけで批判せず、まず、話を聞きにいこうじゃないか、というの民主主義のあるべき本当の姿は、声を大にして社会に叫ばなくても既に多様性を広く認めているはずなのだ。
じゃあ、多様性を叫ばなくてはいけない社会って、まだ民主主義が機能しきっていない社会のことではないか。そんなことを思った。
今、自分が生きている社会って本当はどんな姿をしているのだろうか。本当を姿を見るにはどうしたらいいのだろうか。知りたいことがどんどん山積して目の前が見えなくなってくる。
知りたい、聞きたいという時に本当に社会は教えてくれるのだろうか。
新聞を開けば、どうしてだか納得のいかないことばかりだ。それを納得いかないと言うだけで批判せず、納得できないことが起こっている原因を知りたい、聞きたい。でも、どうしてだか、教えてくれない。話を逸らされ、煙に巻かれる。
この知りたいことがうまく知ることができない状況、なんだか自分も参加しているはずの政治から疎外されてしまっていないか、と言う気がしてくる。劇中、二人が街宣をめぐっている間も、話を遮られたり、妨害されたりしながら、各候補の話を聞いている姿を見ると、そんな気がしてきた。
私がそんなことを知ったって、社会がどうなるわけではない。でも、社会がどうにかなるために知るわけではない。しかし、責任のある一票を投じるために、知ろうとする姿勢をやめてはいけない。
映画館を出る時、そんなふうに思った。
では、こりゃまた失礼いたしました。