本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

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茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

途中反省 シナリオ執筆中の覚え書き

 

どうもこんにちは。

 

別に前から高頻度で書いていたと言うわけでもないのだが、それにしても、最近は駄文を書いていない。

というのも、前にチラリと言ったが、公募用のドラマシナリオを書いていて、なるべく時間をそこに注いたいと思ってしまうからだ。

シナリオだけをこん詰めて書いたからといって、いいものになるわけではないし、無関係な文章を書くことがシナリオに無関係なこともないと思っている。

ちょっと前にようやくプロットを書き終え、ちょっとづつそれを修正をしながら、シナリオになるシーンはシナリオにしていく作業を繰り返している。

 

完成したプロットを何人かに読んでもらって、意見をもらった。

書いていると全く見えないことが読んでいる人には見えていて、それを言葉にして伝えてもらうことは大変ありがたい。

「つまらない、読むに値しない、時間を返せ、×」でも構わないと強引に送りつけたものに、ちゃんと感想をいただいた。送った人全員がちゃんと読んでくれたのだ。ちょっとすごいと思ってしまった。いや、これはもう、私がすごいのか。そういう人が周りにいる私の人徳なのか。

そんなことはないので、真面目には取り合わないでほしい。

 

中でも、一番気付かされたのは、書きたいことを書こうと思いすぎて、結局書きたいことだけを無理くり書いてしまう、というトラップと、書きたいことが本当は自分でも解決してないのに、書き出してしまっている、というトラップだ。

 

書きたいことを書くためには、つまり、言いたいことを登場人物に言わせるためには、登場人物がそれを言わなくてはいけない状況を作らないといけないのだ。言いたいことを書きたいがあまり、その状況作りを怠ってしまったのだ。

こんなことを指摘するなんて、真面目に私のプロット読みすぎじゃないか。

 

それから、書いたいことがうやむやでも、ある意味で筆を置けてしまうのが、シナリオなのではないかと思っている。

何かを主張するために、論文やそこまで大袈裟でない随筆のていをとるならば、当たり前だが、必ず主張の結論がいるし、そこまでの筋道がいる。それは直接的な形で、書いた人間の言葉としてしか、表に出てこない。

一方、シナリオなどの創作では、主張したいことを正面から言葉にすることが必ずしも作品にとってプラスになるとは限らない。むしろ、そういった主張は物語の裏側に隠された方がいいという風潮すらある。

そうなると、言いたいことを直接的に言語化しないせいで、主張がうやむやでも、物語が幕を閉じれば、その良し悪しは置いておいても、作品も完成ということになる。

 

まさに今私が書いているシナリオがそれなのだ。

登場人物のセリフに説得力がないことも、言いたいことが形になり切っていないことも指摘された。

みんな、ちゃんと読みすぎて、手厳しいよ、と嘆いてすらしまった。

 

と、ここまで、ダラダラ書きながら、今現在の私のシナリオ執筆がどの過程にあるのか自己反省をしてみた。おかげで、あと1ヶ月半、私がシナリオのために考えなくてはいけないことが見えてきた。

シナリオを離れて、無関係な駄文を書くつもりだったのに、いつの間にかシナリオのための駄文を書いていた。

 

なんかせっかくだし、関係ないことも言っておこう。

 

爆笑問題の太田さん著の「笑って人類」を読み始めた。

恐ろしい文章量で少しひるんでしまっている。500ページ以上、しかも二段組という文章量。

ただ、わかりやすいキャラクターたちがドタバタ繰り広げるコメディの中に、普段、太田さんがラジオで語ることの本質が見え隠れしているの。なんか太田さんらしい。

なんて言っても、まだ200ページくらいしか読んでいない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。