本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

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茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

鑑賞ノート「怪物」

どうもこんにちは。

いつか必ず観るのだから、今日じゃなくてもいいか、と「リトルマーメイド」に越され、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」にも越されて、ついぞほとんどの映画館で一日の上映回数が一回になってきた映画「怪物」をようやく観てきた。

坂元裕二作品はほとんど観てきた。出版されているシナリオはほとんど本棚に収まっている。

少し前に「花束みたいな恋をした」が大ヒットしたが、麦くんと絹ちゃんは坂元裕二作品の核から少し離れたところにいる気がなんとなくしていた。坂元裕二という人は、社会の隅にいる人たちを、決して弱者としては描かずに、寄り添った物語を書く人だ。

映画自体は大きく三部に分かれている。

一つの事件を当事者の児童、湊の母親、湊の担任である保利、湊本人、と三つの視点で写して進む。 前段パートと中段パートでは、事件の真相も人物の見え方も不穏に揺れて、大きく異なる印象を与える。 そして、最後のパートで不穏に異なっていた点を見事に回収していく。 回収されながら、私たちはこの物語が伏線回収の手際の良さをひけらかすだけの物語ではないことに気付く。

これは大人に罰を与える映画ではないか。

最後、湊と依里が嵐の去った草原を走り、消え去ったガードレールを抜けていく時、私はそう思った。

大人たちの言動を追いかけて、大人の事情だけを物語の中心に、前段パートと中段パートを観ていて私は全く湊と依里に寄り添っていなかった。 後段パートを湊目線で観ながら、自分が今まで何を観てきたのか、愕然とした。

そして、二人に寄り添わなかった罰のように、私は物語の最後に二人を失った。

田中裕子さん演じる校長に憤りを覚えるのも、永山瑛太さん演じる保利の失望に胸を痛めるのも、安藤サクラさん演じる湊の母親のことを思うのも、全部全部大人の都合だった。 もっと下で、見ようとしなくては見えないところで、もっと寄り添うべき湊と依里がいたのだ。

時々、金管セクションの音にすらなっていない不協和音に違和感があった。まるで初めて金管楽器を吹いたような音。 後段パートで湊が校長に促されて、トロンボーンを吹いた時、その音が、自分がついた嘘で自分を苦しめた音だと気付いた時、心底震えた。

どうして、この音に違和感を持った時にこの子の苦しみに寄り添えなかったのか。

キャスティングは坂元裕二作品の常連が揃い、素晴らしい座組だった。 特に坂元作品で欠かせない田中裕子さんが、私はたまらなく好きだ。どんな物語もこの人に救われる。

「誰でも手に入るものを幸せという」という印象的なセリフはこの人でしか言えない。孫を轢き、嘘をつく大人が、子供を子供扱いせずに現実を教えた言葉のように思った。

最後に、坂元裕二がこの作で世界から評価されたのはファンとして、すごく嬉しい。 しかし、その評価された作品が映画であるということが少し寂しくもある。テレビドラマでは評価され得ないのか。 テレビドラマがまだ映画に比べて、娯楽の域を脱し得ないことがなんだかもどかしいのだ。

この映画は必ずもう一度観る。

では、こりゃまた失礼いたしました。