本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

桜桃忌2022

 

どうもこんにちは。

 

毎年の恒例となった小説家、太宰治の命日である桜桃忌のお参りに三鷹禅林寺まで行ってきました。

桜桃忌2021 - AM1:00-3:00

 

三鷹で傘をさした。それは初めての日傘だった。

もうかれこれ8度目になる三鷹の駅前。いつもは雨だったのに、今日に限っては珍しく陽が高く登っている。

大学生に入ったばかりの頃。有名な作家の命日に名前がついて、毎年その作家の愛好家たちによって弔われていることを知ったとき、急いで太宰治の命日を調べた。

玉川上水に身投げしたのが6月13日、その6日後に死体が見つかった。そのことにちなんで19日が桜桃忌と名付けられているらしい。8年も前のことになるとこれを調べたのがいつだったのか、これを知ったときが桜桃忌の近辺だったのか、よく覚えていないが、次の桜桃忌から毎年、墓にいくことにしている。

墓前でテレビのインタビューを受けたこともあったし、太宰を主演にした映画が公開された頃には例年以上に人が溢れていることもあった。生前の太宰と話したことがあると自称する人にも会ったこともある。

 

8回目にもなれば、禅林寺までの道のりも勝って知ったるもの。下連雀という街の名前にも親しみしら湧いてくる。

一年の間に新しくできたラーメン屋があり、無くなっているパン屋があり、三鷹の街は少しづつ様変わりしている。

昼下がりの住宅地、日傘では遮れない、アスファルトからの照り返しの熱線に辟易しながら、いつもは小雨の三鷹を懐かしんだ。太宰が土左衛門になったのが梅雨だったおかげで、8年もの間、こんなに暑い三鷹を知らずにいられたのだ。

木造の古いアパートの隣には、高級外車の停められた大きな家が並んでいる。蔦が生え、ところどころヒビが入り、欠けている塗りの外壁の隣には、人が育てた花が咲いたプランターが掛けられた鮮やかな淡い緑がキレイに塗られた外壁が少し隙間を空けて並んでいる。

 

f:id:sascoca:20220627161332j:image

禅林寺に入ると立派な山門が構えている。山門を抜けると直線的な聖観音のおいでたちが美しい。軽く手を合わせて後にする。本堂にも手を合わせて、地下道をくぐる。迷うことなく、真っ直ぐ太宰のお墓へ。

19日の当日には溢れんばかりのカップ酒とタバコ、それからさくらんぼが墓前に備えられているのだが、仕事の関係で一日遅れた今年はがらんとし墓前だった。

毎年、太宰のお墓を前にして思う。ここにきても対してやることなんかないのだ。手を合わせて、線香を上げて、少しぼぅーっとして、それからすることは何もない。タバコも酒もやらない私が、赤の他人の墓前に備えるのもなんだか変な気がするので、毎年、やらないことにしている。さくらんぼを持っていく人も多いのだが、食べ物は墓の管理人さんの片付けが大変だ。

 

死んだ人間よりも生きた人間が大事、と思いたい。

 

f:id:sascoca:20220627161352j:image

振り返って、ついで程度の会釈を一応、森鴎外にもしておく。

太宰の墓石は「太宰治」とあって、森鴎外の墓跡には「森林太郎」としてある。太宰も「津島修二」として欲しかったのではなかろうか。二人の墓を後にしながら、そんなことを思った。

 

禅林寺を出てから左手へ太宰が入水した玉川上水の方へ向かう。

玉川上水を沿うように井の頭公園まで、ほとんど意味をなさなくなってきた日傘を差しながら歩いた。

 

どうして、太宰は死んだのか。そんなことを毎年考えて、毎年検討もつかなくて、毎年同じところを繰り返している。

その入水自殺のせいで、暗くて重い、今でいえばメンヘラ文豪の代表格にされてしまったが、もっと色々読めば、いかにユーモアに溢れて、楽しい人なのだ。実際はどうだか知らない。少なくても、私が読んで私の中の太宰はそういう人なのだ。

 

井の頭公園から毎年いく喫茶店でアイスコーヒーを飲んで、吉祥寺界隈の古本屋や古レコード屋を巡ったり、なんだかんだをしながら、平日休みの後半を過ごしたのだが、それはもう太宰さんが関係ないので、この日の話はここまでにしておく。

そんなことはないとは思うのだが、万が一にも太宰さんがこれを読んでいて、自分の話が途中で終わっていると、なんだかヘソを曲げそうだからである。太宰さんとはそんなようなかわいらしい人なんじゃないかと思う。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

ひとまずの雑記

 

どうもこんにちは。

 

先々週はなんだか書かなくて、先週は圏外の海の上にいたので書かなくて、なんだかんだニ週間、間が空いてしまいました。

別にこれを待っている人もいないので、ただ過ぎたニ週間はただ過ぎたニ週間でしかないわけです。誰かの何かが変わることなんか一切ない、それぞれの二週間だったことでしょう。

そんな二週間は皆さんにとっていかがでしたか?

 

少しだけ先週の話をしましょう。

先週は会社の研修という名目で、福岡から対馬まで船で旅していました。

五日間、本当に一度も陸に上がることなく、釣った魚だけを食べて海を漂っていました。

幸い天候も良く、気候も気持ち良く、風に当たると清々しい、気持ちいい旅でした。

対馬についてからも海原にアンカリングをして停泊させて、一面、人工物のない自然の中でゆっくりしてました。

あの期間も給料が発生したなんて思うと贅沢なものです。

 

漢委奴国王

f:id:sascoca:20220608143710j:image

福岡を朝5時に出航して、7時ごろに見えてきた島です。これだけで日本史好きにはたまらないものです。

いい仕事でした。

 

帰りに高校時代の友人のコンビニへお土産を送りました。

どこか出かけると毎度やるのですが、お土産代980円に対して、対馬から東京までの送料が1500円くらい。実に割の合わない、くだらない遊びだもんです。

 

話は代わって、コーラです。

値上がりするらしいじゃないですか。

一日に1.5本飲むとして七日で10.5本、四週で42本、飲んでいるわけです。

一本20円も上がると月にコーラ出費が840円も上がるのです。

とんでもない出費です。これではとてもじゃないけどやってはいけない。コーラが贅沢品になるような世界でどうやって生きていけというのか。

 

もうじき桜桃忌こと、敬愛する作家の太宰治の命日が来ます。

去年は高校時代からの友人カップルの結婚式があったので、早朝に小雨の降る中、家を出て、お墓のある三鷹禅林寺へ向かいました。

今思えば、結婚式の前に、しかも証人の署名という大役を仰せつかっている式の前に、お墓参りなんてちょっと縁起が悪い気がしますね。しかも、愛人と心中した太宰というところがなおのこと良くないな。

今更だけど、あの時の新郎新婦、ごめんなさい。もうじき、お父さんとお母さんになるという信じられない2人です。

毎年、桜桃忌に合わせて太宰作品を一作読むことにしているのですが、今年は大河ドラマに寄せて「右大臣実朝」を読んでいます。

実朝を尊び、それに最上の敬意を込めた文体がなんとも太宰らしい気がします。

私が勝手に思う太宰文学の根幹には「怯え」があるように思います。特に、ユーモラスな作品ほど、内在する「怯え」が顕著ではないかと思うのです。

この作品はその「怯え」が翻った形で「敬意」となって、実朝をびっくりするくらい立てて書いてあります。

実に太宰らしい文体の作品です。

 

19日の日曜日は仕事なので、1日遅れて20日にお参りに行こうと思っています。

 

特に書きたいことがないなら、別に無理して書くこともないのに。

ただ、2週間も間が空いてしまったことに、誰から何を言われるわけでもない後ろめたさを感じたので、目についたことを書きましたが、書き終わって私が、びっくりするくらい興味がないので、誰も読んでないでしょう。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

日曜劇場憂譚

 

どうもこんにちは。

 

今クールはどうにも、私好みのドラマが少なく、何本かをダラダラと観てはいるものの、これだ!という良作は無いような気がしてます。

 

そんな中でここ最近、気になっているのが、日曜劇場の作品が紋切り型の量産的になってしまっているという危惧です。

半沢直樹」を当てて以降、この枠で放送するドラマの作りや演出がどんどん凝り固まっていってしまっているような気がしてならないのです。

展開のどんでん返しがどんどん雑になっていやしないか、という危惧があるのです。

 

まぁ、一素人の私が危惧したところで、局にも制作陣にもスポンサーにも、なんら影響はないので、勝手に言ってろ的なところはあるでしょう。それに甘えていつも通り、勝手に言わせていただきます。

 

半沢直樹」がヒットした一番の要因は、スパイ映画さながらのギリギリのピンチとそれを切り抜けた爽快な安堵感という緊張と緩和に寄るものだったと思います。

そして、そのピンチを切り抜けるの決定的な要因が半沢直樹という人間の真っ直ぐな人間性だったように思います。

 

ピンチのシーンは本当にハラハラさせられる演出で、しかも半沢直樹という人間性が動かないと思っていた人を動かして、どんでん返しをみせる、非常に爽快なドラマでした。

 

この作品がヒットしてから、この日曜劇場の枠では、「半沢直樹」の原作者である池井戸潤作品を中心に、どんでん返しで勧善懲悪的爽快ドラマが圧倒的に増えたように思います。

2000年代のラインナップを見てみると、「パパと娘の7日間」(2007年7月クール)のような王道ホームコメディから「太陽の季節」(2002年7月クール)「砂の器」(2004年1月クール)「華麗なる一族」(2007年1月クール)のような文学作品のリメイク版、「JIN〜仁〜」(2009年10月クール)のように人気漫画を原作とするものまでそのバラエティは実に豊富でした。

 

しかし、2013年7月クールに「半沢直樹」が流行語にもなる大ヒットを収めると、2010年代後半は池井戸潤作品のオンパレードでした。

早くも翌年の4月クールに「ルーズウェルトゲーム」を、まるで主演を堺雅人さんから唐沢寿明さんに置き換えただけのようなキャスト・スタッフで放送。それからも2015年10月クールには「下町ロケット」、2017年10月クールには「陸王」がほぼ毎年のように制作されていきます。

池井戸作品の多用を問題視してるわけではありません。私はドラマがオリジナルでも原作でも、その作品の本質的な面白さに影響はないと考えています。

むしろ大切なのは展開を納得させる説得力のある脚本とそれを最大限効果的に魅せる演出、そして、その意図を汲んだ役者陣の演技、という三位一体が一番大切だと思っているのです。

原作に池井戸潤さんが多かろうが、黒岩勉さんのオリジナル脚本が多かろうが、そこはさほどの問題でもないのです。

 

そんなことよりも、私がいかがなものかと思うのは池井戸潤作品でどんでん返しに味を占めた製作陣が、とかくどんでん返しをしすぎではないかという点です。

 

それが一番顕著に出たのは2021年4月クールで放送された「ドラゴン桜シーズン2」です。

平出友梨奈さん演じる岩崎楓がバントミントン部のコーチ(イキウメの盛隆二さん)に嵌められている証拠を桜木が突きつけ、まさにどんで返しな展開で楓からの信頼を得るシーン。桜木が楓から信頼を得て、東大専科に参加するきっかけになった重要なエピソードです。しかし、嵌められたことを暴いたどんでん返しと東大専科に決めるのは話が違うような気がして、ここに説得力の脆さを感じました。

さらに後半、学園を売却するのうんたらという話の運びに。もう落ちこぼれが前を向いて懸命に東大を目指す物語はどこへやら。

ここでも味方の顔をしていた高原先生(及川光博さん)が実はスパイだった。そして、敵のような立ち振る舞いだった坂本(林遣都)らが桜木らについていたことで、学園売却派優勢からどんでん返しします。

 

前作のドラゴン桜と断絶を産んでしまった別作品のようでした。前作を期待していた視聴者にはかなりショックな続編だったのではないでしょうか。

 

ドラゴン桜」が一番顕著に現れていますが、日曜劇場がやたらとどんでん返しを多用するようになり、しかもそれが少々雑になってきているような気がするのです。

 

最初にどんでん返しがうまくいった「半沢直樹」は、理不尽さや上司の横暴さによって窮地に立たされた半沢直樹たちに視聴者が共感し、そのピンチにハラハラしたからこそ、そこを切り抜けた安堵感、爽快感があったわけです。

しかも、その展開に半沢直樹という人間味が伴っていた(ここでの堺雅人さんの演技は見事としかいようがありませんでした)ことにより、どんでん返しに説得力があったわけです。

しっかり緊張したから緩和が生まれるし、しかも緩和に展開するきっかけに人間味という説得力もあったから、あそこまでの爽快感もあったわけです。

 

しかし、最近のどんでん返しにはその丁寧な緊張状態と展開の説得力が粗雑に描かれているので、観ていても気持ちが入っていかないことが多くなりました。

 

今クールの日曜劇場「マイファミリー」もしかりです。

第2話で賀来賢人さん演じる三輪は警察側につくような動きを見せていました。そのおかげで物語は警察が目論む通りに進みます。しかし、実は三輪が主人公温人(二宮和也さん)側についていたという展開でどんでん返しを起こします。

これもかなり雑な印象を受けました。まず、三輪が警察側についている時の緊張感がないのです。それから、三輪が実は温人の側だったと展開するとこにも、温人に付く理由やついていた事を匂わせるような演出もなく、いきなりひっくり返されるので、説得力もないです。

 

観ているこちらとしては、いきなり存在しないちゃぶ台を訳もなくひっくり返された感じで、どう受け止めていいのか分からないのです。

ちゃんと丁寧にちゃぶ台の存在を示してもらい、怒りの感情というちゃぶ台をひっくり返す理由を明かしてもらうから、我々はその行為に納得できる訳です。

 

役者陣の作り出す空気感にすごく引き込まれだけに、説得力のない展開による興醒めが残念でなりません。

 

なんか今回は批判的なことをつらつらと打っちゃいましたが、ああこいつはドラマが好きなんだなと思ってください。その上で、素人が誰も読みもしないのに、こんなに文字数だけ重ねちゃってと思ってください。

好きなドラマだったらこの10倍の量書きますから、本当に。

 

何だかよくわかない嘆願で終わることにします。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

GWの忙しさで朦朧とする雑記

 

どうもこんばんは。

GWは一年で一番の繁忙期だから、忙しいし、休みもなく働いています。

毎日クタクタになって、帰りの電車では本をめくりながらうつらうつらしている。

タイミングが悪いことに今読んでいるのが、「現代思想入門 (講談社現代新書)」という頭を使うタイプの本で、うつらうつらに拍車をかける。

ポスト構造主義を中心に今主流になりつつある思想について考えている。

そんな矢先、社会学者の宮台真司さんと一部のフェミニストとの間でちょっとした論争が起きていた。

宮台さんといえば、共同体主義コミュニタリアニズムの印象があり、どうやってフェミニストと衝突するのか、という点は非常に興味深かったのだが、よくよく読んでみると、フェミニストの主張の綻びがひどく、宮台さんもさほど相手にしていないような物言いだった。

頭の悪いな人間はバカと言っても理解できないので、バカと言わずに悟らせなくてはならない。宮台さんという人は性格が悪いのか、力ずくでバカといって聞かせようとしているようだった。

 

フェミニズムに関して、私がとっている立場は賛同でも否定でもない。

まず、よく理解できていない部分もあるので、勉強させてくれ、というのが私のスタンスだ。

しかし、フェミニストの中にはフェミニズムを掲げれば、何をどう叩いてもいいと思っている人たちがいる。フェミニズムの菊紋旗の前には何人たりとも賊軍だ。

それがどれだけ恐ろしいかは前に少し考えたことがある。

岡村さんの発言への批判は「種族のイドラ」を抜け出せていたのか - AM1:00-3:00

小木さんとSOCIAL ACTIVEST CLUB、バックラッシュを誘発しかねない大きな失敗 - AM1:00-3:00

 

仕事が忙しいという話に戻ろうかと思う。

朝から最後尾から見えなくなるくらいまで、時間にして2時間並ぶ人たちはどんな人たちなんだろう。

もちろん、その人たちのおかげでGWはボーナスの稼ぎ時だし、その人たちのおかげでおまんまを食べているわけだから、とても馬鹿にはできない。

私だったら、何に2時間並ぶだろうか。

 

仕事は好きではないが、職場の居心地はすこぶるいいし、なにより職場で周りに好かれているので、悪い気はしない。

仕事も8割くらい適当にあしらうようにこなしているが、上からの評価は悪くないので、待遇も同世代の飲食勤めと比べれば、いい方だと思う。

こういう忙しい時に、何かに耐えられなくなったように「辞めたい」と思うのだけど、明日、またアルバイトやお客さんと話して忙しくしていると、そんなことが頭の片隅にあったことすらも忘れてしまう。

 

それにしても、あまりにも忙しいのか、仕事中に全く仕事に関係ないことを考えて、逃避している。

自家製ジンジャーハイボール(自家ジンハイ)と烏龍茶のオーダーが入って、「自家ジンハイ、烏龍茶」と言葉にすると語感がよくて、ずっと頭の中に「自家ジンハイ、烏龍茶」と流れている。

なんでこんなに頭に離れないか、なんてどうでもいいことを考えること30分。

結局、リズムが三拍子で揃っていることが心地いいのだと発見する。

私は三拍子の語感が好きらしい、ということを見つけただけで、有意義なGW7連勤になったに違いない。

 

ドイツ語日記を残すために運用し始めたインスタ。

 

ドイツ語の日記は毎週書いているのだが、ドイツ語のキーボードで文章をタップするのが億劫で、更新を滞らせてしまっている。

このインスタのライブ機能を使って毎週土曜日の夜、珈琲豆を焙煎する様子をベラベラ喋りながら配信しようかと思っている。

すでに2回、ゲネプロ的にやってみたが、2人とかしか観てなくて、(元々20人しかいないアカウントなんだけど)なんとか規模を広げたいと野暮ったいことを考えていたりする。

日頃からしゃべりたいと思っていても、いきなりしゃべろうと思うと、これがまた難しい。

持ち歩いていふ手帳に1日に一テーマ、何かを書き記して、それに関してしゃべって、広げたり、違う話に飛んだりしようじゃないかと、企画してみている。

まず、10回はどんな形でもやり続けてみよう。

https://www.instagram.com/tv/CdQmTkcpVhc/?igshid=YmMyMTA2M2Y=

聞くに耐えないことは間違いないやね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

「生娘のシャブ漬け」を正しく面白がってみる

 

どうもこんちは。

 

世の中にはおもしろいけど、触れづらいものが結構あるもんです。

最近で言えば、某牛丼チェーン店の「生娘のシャブ漬け」発言でしょう。こんな発言、面白くて仕方ない。

しかし、面白がり方を間違えると、大変なことになります。

あえて、触れづらい「生娘のシャブ漬け」発言に触れてみましょう。さらに、触れるだけではなく、それを面白がってみましょう。正しく考えていることが上手く伝わるでしょうか。

 

最初に断っておきますが、私が面白いと思うのは、この発言の内容ではありません。

このことをちゃんと言っておかないと、私がこれから書きたいことの真意が本当にちゃんと伝わらないと思うので、はっきり言いますが、この発言の内容は面白くないです。とても不愉快でした。

明らかに人を不愉快にする発言が公の場でなされたこと、このコントのような奇跡が面白いのです。

 

この発言は明らかに男尊女卑的で、シャブ漬けというワードが公序良俗的に良くないなんていうのは、こうして今、私が活字にするのが恥ずかしいくらい当たり前のことでしかないわけです。

そんな当たり前に分かりきった間違いが起こるまでには、いくつかの要因が重なり合っていることでしょう。その奇跡的な要因の重なりが面白いのです。それを面白がってみようというのです。

 

まず初めに、この奇跡の始まりに、この発言が面白いと思っている発言者の当人が存在するということがあります。

発言の内容が明らかに不愉快なのに面白いと思ってしまう人がいることがまずもって、奇跡だと思いませんか?この不愉快さを感覚的に持ち合わせていないわけです。

しかも、公の場で発言してしまうということは、当人がなんの陰りもなく面白いと思っている、ということに違いありません。

このコントの始まりは、不愉快という感覚を持たない主人公が誕生する奇跡から始まっています。

 

次の奇跡への軌跡は、この発言ができてしまう環境が整えられていたということです。

よもや主人公が初めて不愉快な発言をしたわけでないでしょう。つまり、この発言をするまでには、程度の差こそあれ、過去にこの類の不愉快発言があったはずです。その発言が世間で公にならなかった為に、周りの人がそれを指摘することがなかった為に、問題視されることのない環境に主人公はずっと身を置いていたわけです。初めは小さかったはずの不愉快発言がここまで大きな不愉快発言になるには、相当な数のスライムを倒してきたはずです。 

ここまで誰に指摘されずに来たことがこのコントの設定を作っているわけです。

 

コントのような主人公とコントのような設定が奇跡的に相まったわけです。

シソンヌやロバートの強いキャラクターに東京03ハナコの設定が相まったようなコントです。

 

最後に話は変わりますが、SNS上でこの発言を批判する声の中に「このご時世にこの発言は良くない」という声が見受けられました。

確かに、今やコンプライアンスジェンダー等マイノリティに対する考慮の必要性が認識され始めた時代です。「その時代において『生娘』とはなんだ『シャブ漬け』はけしからん」というのはもっともなような気がします。

しかし、よくよく考えてみると、これはこれでおかしな批判のような気がします。

この批判の仕方だと、コンプライアンスジェンダーの問題が最近の問題のような言い方です。

しかし、マイノリティの人たちの苦痛は昔からずっとあったものです。女性蔑視に対する苦しみも昔からあったものです。

それを「ジェンダー」だったり「コンプライアンス」と名前をつけて概念化させ、問題意識を顕在化したのがここ最近の話なだけです。

問題意識を顕在化させた時に問題が生まれたわけではありません。はなから問題は潜在的に存在していて、それを閾下から引き上げたから、「このご時世」な訳です。

先に挙げた「このご時世にこの発言は良くない」ということは、「このご時世」とは「問題意識が認識されているご時世に」と換言されるわけです。じゃあ、今もマイノリティの人が苦しむ問題が存在するのに、その問題が取り沙汰されていない世の中ならば、この発言はお咎めなし、と言っているのと同じではないか、と思ってしまうわけです。

 

バレなければいいと言っているような気がして、発言の主人公と同じレベルではないかと思ってしまうのです。

どうでしょうか?

って読んでる人に聞いてみても仕方ないですね。

とにもかくにも、この批判をしている人は、発言を容認しかねない立場にあるのではないかと考えられます。

 

話が変わってしまいましたが、批判すればいいというわけではないのです。

考えて批判しないと、批判しているつもりが批判対象と同じ立場になってしまうことがあるのです。

深淵に覗かれていることを常に意識しないといけないのですね。

 

さて、社会的に問題となった発言を面白がってみたわけですが、正しく面白がれているのか。

この発言を対象にして「面白がる」という行為そのものを問題視する意見があるだろうと思います。

しかし、面白がるとはケラケラ笑うことだけを言うわけではありません。

その対象について考えることを面白がるという面白がり方もあっていいと思うのです。

 

そして、そこから生まれるブラックジョーク、不謹慎な笑いはもっと許容されていいのではないかと思います。

笑いの対象が不愉快なだけで笑いが締め出されるのはどうかと思います。

笑いと不愉快な対象の関係性を考慮されずに当たり前のように良し悪しが言われるのには違和感を覚えます。

 

「生娘のシャブ漬け」と言うワードは不愉快極まりないですが、それを対象にして面白がるには、アプローチさえ間違えなければ、いいのではないかと。

それを今回、こうして書いてみようと思ったのですが、最初に懸念した通り、うまく伝わりますでしょうか。

心配ですね…

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

鑑賞ノート「ちょっと思い出しただけ」〜恋愛映画における感情移入〜

 

どうもこんにちは。

 

ちょっと前に川崎まで足を運んで、映画「ちょっと思い出しただけ」を観てきた。

伊藤沙莉さん演じるタクシードライバーの葉と、池松壮亮さん演じる照明技師の照生、二人の出会いから別れるまでを、ある1日だけを定点観測的に遡るようにして描いた恋愛映画だった。

この少し前に、ヒューマントラスト渋谷で別の映画を観た。あの時にかなり力を入れた宣伝をしていたので、ちょっと疑心暗鬼で観た映画だった。

天邪鬼な私は大きく宣伝を打たれるほど、関心が捻くれてしまう。

ノベライズ ちょっと思い出しただけ


結論だけ言えば、とてもよかった。

とにかく伊藤沙莉さんがかわいい。ことあるごとにかわいい。容姿のことではなく、仕草や人間味のことだ。

主人公とヒロインに感情移入できないことほど、恋愛映画を観ていて退屈なことはない。

 

恋愛映画を観ているときに感情移入すると言うのは、かなり不思議な体験だと思う。

まず、主人公、ヒロインの気持ちには共感できるのに、共感している私たちが主人公たちと同じ体験をしたことはほとんどない。

出会って、恋に落ちて、交際を始めて、気持ちが離れて、別れて、という似たようなプロセスを経て恋愛をしていても、同じ出来事は体験していないことが多い。

 

そこで、次のような手順で恋愛映画に感情移入しているんじゃないかと考えてみた。

まず、劇中で何かアクションがある。(ここでは具体的に、主人公がタクシーの降り際にヒロインに告白して二人の交際が始まる、としてみる)

そのアクションを先に挙げたプロセスに落とし込む。(「交際を始めて」と言うプロセスに落とし込める)

次に、先ほど落とし込んだプロセスから自分の実体験のアクションを具象化する(過去の恋愛において交際が始まったアクションを思い出す)

劇中のアクションからプロセスを経て、全く違う実体験のアクションを想起することで、劇中のアクションも実体験として共感を覚えることができる。

 

このような手順で我々は恋愛映画を共感しながら観ているのだと考えた。そして、その共感部分に感情移入していく。

 

ここまで考えておいて、思うのは、こんなことは恋愛映画でなくても、もっと言えば映画でなくても、フィクションの世界に浸って、何かを思うときは、こんな手順を踏んで作品に共感しているに決まっている、と言うことだ。

確かに、ここで考えた感情移入までの手順は恋愛映画以外のジャンルにも適応されるものだ。

しかし、恋愛映画が他のジャンルよりも秀でているのは、劇中アクションと実体験をつなぐプロセス部分が持つ普遍性の強さではないだろうか。

プロセスが普遍的であるが故に、劇中アクションを落とし込みやすいし、プロセスが普遍的であるが故に、プロセスから実体験を想起しやすい。

私はこの劇中アクションと実体験をつなぐプロセスのことを「感情移入の表象」と呼ぶことにしている。

恋愛映画における「感情移入の表象」は他のジャンルよりも普遍的で、誰でもアクセスしやすものなのだと思う。

 

伊藤沙莉さんがかわいい、と言うことに話を戻そう。

交際相手をかわいくない、と考えている人は少ない。つまり、伊藤沙莉さんがかわいいと言うことは、交際相手がかわいい、と言う感情移入の表象を経て、実体験の交際相手がかわいい、を想起し、共感する。ここに感情移入をしていく。

 

そういうことで言うと、いささか前時代的な考え方になってしまうかも知れないが、恋愛映画のヒロインはかわいくなくてはいけない。

この映画は葉がかわいい人間であることで絶対的な説得力をもった。やっぱり伊藤沙莉さんは、日頃ツッコミのお兄さんが言う通り、天才女優だ。

 

こうして恋愛映画に欠かせない感情移入をした後に、それに説得力を持たせるのは、二人の関係が一番良好な幸せな時期をどう書くかにあると思う。

二人の幸せのピースを散りばめておく。そして後半、そのピースがチグハグになってしまったことで関係性の雲行きを怪しく描き出し、物語への没入感を高めるのだ。

 

例えば、昨年大ヒットした「花束みたいな恋をした」で言えば、散歩の道すがら二人で食べた焼きそばパンとそのお店の閉店を知った時の温度差、二人でゼルダを進める二人とパズドラしかする気にならなくなった麦くん、今村夏子さんを愛読していた二人と自己啓発本のコーナーで足を止める麦くん。

二人の幸せの時にあったピースが壊れていくことで、切なさをうまいこと誘っている。

ちなみにこの映画は、そのピースの固有名詞のチョイスの妙が観客の共感を強めた。そのことが、ここまでのヒットの要因の一つなのではないかと考えている。

花束みたいな恋をした

 

先にも言ったとおり、この映画は破局して別々の生活を送っている時点から二人の関係の変化を、初めて出会うときまでに順に遡って描いている。

照生が一人で食べるケーキ、一人でするラジオ体操、一人でお地蔵さんに頭下げる朝、なんでもない日常を遡っていくと、それらのピースは全て、葉と楽しく暮らせいていた頃の幸せなピースとして現れてくる。

つまり、「幸せなピースの提示→ピースのすれ違い」の順で描かれていくものが、この作品に関しては「(実は)ピースのすれ違い(だった)→幸せ(だった)ピースの提示」の順で描かれるので、全く意味が変わってきているのだ。

この構成が本当に素晴らしかった。幸せなピースを観ている後半に、前半で観てきたピースのことがよぎってしまうのだ。

二人の交際が始まるタクシーのピースを見ている時、私たちはもう二人が終わりを迎えるタクシーのピースを観てきてしまっている。

二人で食べる幸せなケーキのピース、この時はすでに、照生が一人で寂しく路上で食べるケーキのピースの後なのだ。

 

なんでも“ない“ことが、なんでも“あった“ことに豹変する。

恋愛映画における感情移入の表象は、この豹変をもカバーしている。

恋愛において、なんでもなかったことが、後から形を変えて、思い返され、その豹変に憂う、ということは実体験としても往々にしてある。

この映画は、「ピースの逆ベクテルへの豹変」が感情移入の表象を経て、「実体験の豹変の憂い」を想起させる。

ここは、今までの恋愛映画ではあまり感化されなかった感情のような気がする。

 

今、ふと思いつくのは「百万円と苦虫女」くらいだ。

百万円と苦虫女

 

この感情を感化しただけでも、この作品は大成功だし、もう一度観たさに囚われてしまう。

 

もちろん、多くの人が指摘しているように、ジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラナット」の使われ方、ニューヨークの屋敷さんが突然始める「あちこちオードリー」など面白い余白も多い。

特に、永瀬正敏さんの「やっと会えました」というセリフの仕掛けには鳥肌が立つ。

 

公開からもうだいぶ経つので、もう神奈川ではお目にかかれそうもない。

新宿、渋谷あたりで観れるうちに、もう一回観ておきたい。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

読了ノート「ブラックボックス」

 

どうもこんにちは。

 

先日、芥川賞を受賞した砂川文次さんの『ブラックボックス』を読み終える。芥川賞が発表された号だけ買っている文藝春秋もそろそろ棚に入りきらないほどの冊数になってきた。

芥川賞を受賞したものが私にとって必ずしも面白いわけではない。それに私が抱く面白さと作品の良し悪しも必ずしも一致するものではない。

 

この作品が持つ眼前に映像が投影されているかのようなリアリティ、そして、主人公には共感し難い面もあるが、彼が抱く社会からの鬱陶しい拘束、それから逃れる術のないことへの苛立ちの描かれ方は素晴らしかった。

 

主人公は自転車で荷物の配達することを生業とするメッセンジャー業のサクマ。どこか閉塞的で無気力な、それで何かを常に押し殺しているような印象を受ける。自衛官、コンビニ店員と何をやっても長くは続くない。職場で持ちかけられる社員登用の話にも消極的だ。

 

物語はメッセンジャーにとって一番環境の悪い雨の日から始まる。交差点を渡ろうとするサクマは、スピードを落とさずに曲がってくるベンツを避けようとして転倒する。そのまま走り去るベンツ、雨に打たれながれ道に倒れ、壊れた自転車を眺めるサクマ。

このシーン、よく知っている道が思い浮かび、見たことある格好をしたサクマが見たことある自転車で走っている姿が、まるでハリーポッターの「憂いの篩」を覗いているかのように、ありありと私の記憶そのものとして映し出される。

メッセンジャーとして働くサクマ自身、そして、彼を取り巻く環境の描写が、異常なほど克明でかつ読者である私の記憶の中にあるものなのだ。

 

物語はあるところで断絶する。

 

唐突に刑務所で生活を送っているサクマ。

その後の回想、サクマが滞納していた税金の催促に来た役人を刹那的な怒りに任せて殴りつけていたのだ。

刑務所での規律に縛られ、無思考でいられる生活。同じ雑居房で生活する人間関係や刑務官とのやりとりの中でサクマは自分の押さえ難い暴力の正体を考える。

 

働きたい時に働きたいだけ働けるというメッセンジャーの自由な雇用形態とその裏腹にある社会的かつ、経済的不安定さは、常に得体の知れない社会によって天秤にかけられている。そして、その無意味な二項対立の答えはサクマの意思とは関係なく、社会に押し付けられる。

サクマの閉塞感、虚無感は社会からの押し付けに対する逃れようのない怒り、これを鎮める手立てだったのではないかと思う。触らぬ神に祟りなしだ。社会からの抑圧に耐えられないならば、社会と距離を取ればいい。彼を諦めさせたのは、常に答えを押し付けて、拘束を強いる社会そのものだ。

その上で、社会はさらに税金を払えと圧力を強めてくる。その耐え難さが後半の物語へ加速を強く進める。

 

サクマが税務署の人間に振るった暴力は、私自身が今、生きていて楽しくないという現実そのものと同意だ。

私は楽しくもない人生を生きていることに、それをなんとか誤魔化しながら生きていることに気付かされた。忘れていたことを引っ張り出してくる。やめてほしい。それを忘れてさえいれば、なんとかそれなりに生きていけるのだ。少なくとも憂う目にだけは合わないで済むのだ。

サクマの暴力は私が自分自身に対して隠していたこの人生そのものの嫌気を、手で掬えないドロドロとした液状のまま無加工で思い出させる。

 

私は何を書いているのか、泣きそうになっている。

 

冒頭、サクマには共感し難い面があると言ったが、おそらくはそうではないのだ。

私は社会の鬱陶しい拘束にサクマと同じように嫌気を感じている。私はサクマが暴力で抵抗した嫌気から逃げるように、素知らぬ顔でないことにしているのだ。

私が役人を血まみれにしていたかも知れないし、50日も懲罰房に入っていたかも知れない。

自分の人生なのに、その正体をひた隠しにして生きることに意味があったのか。

 

息苦しい作品だったけど、どこか吹っ切れるものがあった。そんな作品でした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。