本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

考察することを考察すると 〜東京ポッド許可局を聞いて〜

 

どうもこんにちは。

 

私は外野の人間として、興味のあることについて、色々考えてしまうタイプのたちの悪い人間だ。

それを考えるだけで飽き足らず、こうして文章に書き起こして、誰が読むともしれない空間に垂れ流している、たちの悪い中でもたちの悪い人間なのだ。

 

そんな外野の人間が語ることに関して、TBSラジオ「東京ポッド許可局」で話題に上がっていた。

この番組は芸人のマキタスポーツさん、プチ鹿島さん、サンキュータツオさんがそれぞれ持ち寄った論を取り止めもなく語っている番組だ。日常のなんでもないような些細なことを一つの論点として取り上げて、少し深めに掘り下げて語り合う。

 

その回は「お笑い当事者論」と題して、かつてプロレスが歩んだ「マニアがジャンルを潰す」という現象をお笑いもなぞりつつある、というケンドーコバヤシさんが警鐘を鳴らしたインタビューを皮切りに話は始まる。

ケンコバ「お笑い界は破滅する」 雨上がり決死隊の解散翌日に語った危機とは? (1) | マイナビニュース

 

私にしてみれば、これは身をつまされるような話である。なんせ私はこの場合、明らかにジャンルを潰すマニアに属しているわけである。私が考えれば考えるほど、私は大好きなものを破滅させているのだろうか。

 

なぜ、私が観たもの聞いたもの読んだものについて考えているのか、3人の話を聞いた後でそんなことを考えた。

作品を考察して、創り手よりも優位に立ってやろうなんてつもりは、さらさらない。そもそも私の発言にそんな力はない。おこがましい。

そんなことよりも私がしたいのは、私は本当にその作品の醍醐味を味わえたのかどうかである。作品を観た、読んだという達成感で終わっていないか、創り手はもっと表現したいことがあったんじゃないのか、私はそれをちゃんと享受できたのだろうか、大切なことを見落としていないか、そんなことを考えたいのである。

 

確かにケンコバさんが記事で語るように創り手がその裏側や手の内を語る機会は増えたように思う。特にコロナの関係で、観客を入れてのライブやイベントが出来なくなった代わりに無観客の配信が増えて、私達が享受するエンタメは、私たちと創り手との閉密さを保ったまま拡大されるようになった。聴き逃し配信が可能なラジオのアプリやトーク番組も増えた。その閉密さは創り手が手の内を語って聴かせるにはちょうどいい空間なのだ。

考察中毒の私からすれば、それは考察する際の参考資料が手軽に入手できる良い機会だった。私の目には私の好きな世界が広がっているように見えていた。

 

しかし、ケンコバさんがいうように、創り手からの「手の内明かし」は本当にプロレスの後を追う破滅の道なのだろうか。

だとすれば、創り手はなぜ「手の内明かし」を始めるのか。

 

それは当然、その本人達から手の内を聞きたい人間がいるわけだ。そして、それはおそらく私のような創り手に親近感を持つ考察中毒者なのだと思う。考察中毒者にとって、配信のトークイベントやラジオで聞かれる本人達の手の内明かしは「答え」となるからだ。

作品を観たり、読んだりした後、あれこれと考えると答えが欲しくなる。自分の考えを整理して、公に公開して反響が欲しくなる。

欲している最たるものが本人による「手の内明かし」つまり、「答え」である。

 

そして、その答えを得ると、私はもっとその先を考えたくなる。

他の媒体と繋げたり、他の出演作品を引き合いに出したり、考察はどんどんと広がっていく。考察が広がれば、その分だけ欲しくなる答えも増えていく。際限がない。私が欲しい答えはどこまで続くのか頭が痛くなる。

 

しかし、その答えを私は放送中のサンキュータツオさんの発言で見つけた。

それが次の発言だ。

語っている当事者もいち評論家に過ぎないわけ。傾聴に値する意見かもしれないけど、それが全てではないし。

あくまで「表現されたもの」っていうのを分けて考えなくてはいけないんだけども、当事者が言ってるからってみんな「イコール」で見過ぎちゃう。

私は考察するということの本質的な部分を見落としていたのである。

つまり、私がする考察の答えなど得られないということである。その答えとは「ありそうでない、でもやっぱりあるらしい」くらいに不確かで曖昧な存在なのだ。あるにはあるが、曖昧すぎて得られようがないものだったのだ。

 

私が何かを観たり読んだりし、感想を持ち、それについて考える。これは答えの得られない作業なのである。いくら欲しても答えはないのである。

そのことに耐えられるなくなった私は、創り手の言葉を答えであるかのように仕立て上げる。そうすることで、答えを得たという既成事実に満たされることになる。

 

しかし、その本人による言葉は本当に答えなのか。

許可局の放送中にも述べられているように、当事者たちによる「演出」があったのではないか。内輪の話で終わってしまっているのではないか。そして、創り手だって、作品の全てを知っているわけではない。作り手の意図しない作用が受け手によって見つかることもある。だとするならば、創り手の言葉を答えとして受け止めてしまうのはあまりに安易すぎやしないか。

 

それで、話は逸れるが思い出したエピソードがある。

クドカンが朝ドラ「あまちゃん」を書いていた時のこと。

宮本信子さん演じる夏ばっぱの横に積まれた箱に注目が集まったことがあった。その箱には「マルサ」と書かれていたからだ。というのも、宮本信子さんの代表作に伊丹十三監督の「マルサの女」というものがあったからだ。

役者の代表作をオマージュしたり、パロディにするクドカンならやりかねない演出だった。

しかし、それはのちのクドカン本人の話で偶然だったことが明かされる。視聴者の深読みが過ぎた結果に過ぎなかったのだ。

 

こんな風に、時には創り手よりも受け手の方が作品に対する気付きがあったりする。創り手が必ず答えだということはない。

何度もいうが、答えはないのだ。

 

お笑いがプロレスの後を追わないために、破滅の一途を辿らぬために、私たちがすべきことは何か。

 

それは考察や深読みを自分を楽しませるための行為だという認識を今一度することである。

答え合わせをして正解だ不正解だと一喜一憂したり、他人に対してマウントを取ったりする行為ではないとここで再認識する必要に迫られているのではないだろうか。

 

作品を考察することに答えなんかない。解釈や深読みに絶対的な心理などないのだ。そして、創り手だって答えを知り得ないのだ。だとしたら、考察したり、深読みしたりすることに意味はないではないか、ということになる。

 

先にも述べた通り、曖昧で不確かな考察の答えは創り手にも得られないものなのである。

しかし、創り手が答えを知っているかのように語り、私たちは待っていましたと言わんばかりにそれを拝聴する。この一方通行の答えの授受には、創り手の語りがいつでも真実であるという幻想的な前提が当たり前のように存在している。

このことは私たちは常に疑ってかかる必要がある。創り手のいいように話が改竄されていることだってあるのだ。

 

答えがないのに、あたかも答えのように語るその姿勢こそが作り手による改竄に違いない。ありもしない答えが存在するかのように改竄されることは、私たちの自由な考察、深読みが侵害されるということだ。答えがないということは、私たちの考察はどこまでも自由が広がっているということなのだ。

 

ここからは余談。

プロレスに明るくない私はプロレスがどんな轍を歩んだのか知らない。それはケンコバさんの発言の内容から推測するしかない。

憶測するにプロレスマニアは考察した矛先をプロレスそのものに向けてしまったのではないだろうか。つまり、試合を見て、感想をもち、考えて、その結果をプロレスを批評することでまとめてしまった。味方であるはずのマニアに受け入れられなければ、当然、その世界は衰退してしまう。それがケンコバさんが見てきたプロレスの轍なのではないだろうか。

 

だとすると、私は作品を観て、感想をもち、考えて、その結果としての矛先を観客としての自分に向けたい。それが私の考察の目的である。その作品やその世界に対してではなく、観客としての私、それは作品を享受する立場にある人間として、創り手や作品に敬意を持って、表現されたものを出来うる限り理解することができたのか。これは感想とはまた違った次元である。自分の好みや趣向を超えて、作品そのものの理解に努めることができたのか、それは作品に対する批評ではなく、それを享受する観客としての私に向けられるものである。

私は自分を満足させるために作品と向き合い、考察や深読みをしていきたい。常にその矛先は破滅していったプロレスとは違うところに矛先を向けていたい。

 

もし、あなたがこれを読んだタイミングが良ければ、聞けるかもしれません。

‎東京ポッド許可局:Apple Podcast内の第437回「お笑い当事者論論」

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

観劇ノート「愛が世界を救います(ただし、屁が出ます)」と、いうよりも私にとって「のん」という人は的な話

 

どうもこんにちは。

 

諦めていた舞台のリリースが運良く買えたので、期限が迫っている教習所の予定を変えて、渋谷はPARCO劇場へ久しぶりの炎天下の坂を登った。

仕事中に隙を見てメールのチェックをしておいてよかった。外部との連絡を取る機会が一番多い仕事を請け負っている私が仕事中に携帯をチェックしていても怪しいということはない。

それでも、舞台のチケットのためにスマホを覗いている私の方は、少し緊張感が走っている。

 

宮藤官九郎さんの作演出、主演にのんさんと村上虹郎さん。周りは「いつもの」と言っていい大人計画をはじめとするお馴染みのキャスティングでPARCO公演「愛が世界を救います(ただし、屁が出ます)」を観劇。

f:id:sascoca:20210819174118j:image

大パルコ人④マジロックオペラ「愛が世界を救います(ただし屁が出ます)」ティザーmovie - YouTube

 

なによりもクドカン×のんというのが観にいかなくてはという衝動に駆られる。

2013年の連続テレビ小説あまちゃん」は未だに私の中の名作ドラマランキング上位を揺るがない不動の名作だ。

 

出演者が総出で揃ったオープニング。ギターを抱えたのんさんがセットの中央で歌っているのを観た時に、私は涙が溢れそうになるのを堪えるのがやっとだった。涙を誘うような歌詞なんか一言もない。大の大人が寄ってたかって「屁が出ます」と叫んでいる場面で泣きそうにあった。

目の前で、のんさんが歌っている。舞台の上で輝いている。それが私の心の何かのスイッチを入れたのだ。

これと同じ涙を流した経験を私はサザンのライブでしかしていない。憧れて大好きな人が目の前で歌ってくれている、そのことが私を感極まらせ、心のスイッチを入れてくれるのだ。熱くしてくれるのだ。

私はサザンほどの熱量をのんさんの活動に対して、持っている自覚がなかった。それなのになぜのんさんのギター姿が私の心のスイッチを入れたのか。

涙を堪えているときに、初めて私の中ののんさんがそこまで大きな存在だったのだと気づいた。

 

のんさんは本名の能年玲奈として、前出のドラマ「あまちゃん」で世に知られるようになった。世の人同様、私もこのドラマで初めて能年玲奈という女優を知ることとなる。クドカン×キョンキョンという「マンハッタンラブストーリー」を彷彿とさせる組み合わせを目当てに観ていたのが、いつのまにか能年玲奈演じるアキの純粋さと奔放さ、そして真っ直ぐさに心を打たれて見入るようになっていた。

おそらく、あのドラマがここまで私たちの記憶に留まり続け、魅了し続けるのは、クドカンの本の面白さもあるが、主演の能年玲奈という人間と役の相性の良さ、「ニン」がマッチしていたことが大きいのではないかと思う。

そして、ドラマが終わって、次の作品に注目が集まる能年玲奈が事務所とのトラブルで表舞台からしばらく姿を消し、彼女のドラマディスコグラフィーが更新されなかったことも大きな要因なのだろう。

 

最近になって、「この世界の片隅に」や「私を食い止めて」など、少しづつその名前を見る機会が増えてきた。

 

独立後の活動を私はそれなりに追っかけていて、渋谷で開催された個展に足を運んだり、(現代アートに向いた牙が突き刺さる 〜のん「女の子は牙をむく」〜 - AM1:00-3:00)自身のレーベルを立ち上げて作品を発表したものも聞いてみたり、(創作あーちすと のんさんニューシングル「スーパーヒーローになりたい」 - AM1:00-3:00)しているのだ。

YouTubeで公開されていた自主制作映画も観たりなんかした。

 

彼女の何にそんなに惹かれて、のんさんの日の当たらない創作活動を追いかけていたのだろうか。

 

思うに、彼女が作品を形にする際の物事を推し進める「推進力」とそれに周りの人間を加勢させる「巻き込む力」が見ていて爽快だったのだと思う。面白いくらいにのんさんは事を進めていく。そして、びっくりするくらいのビッグネームが彼女に力を貸しているのだ。彼女が何かを創ろうとする姿勢には物事を大きく前に動かし、人を巻き込んでいく力がある。

私は彼女が創る作品そのもの以上に、彼女の推進力をもって、人を巻き込んでいくその創作力に魅了されて、彼女の活動を追いかけていたような気がする。

 

そうなると、私にとって彼女の創作力とはどんなものなのだろう。

 

私の中で彼女が象徴となるのは当然、衝撃的な登場を果たした「あまちゃん」に違いない。

あの頃、私はなんだか思っていたのとは違う普通のどこにでもいる大学生になっていた。芸術学科という多少変わった学科に所属してはいたが、何か作品を創りたくて、文章を書いてみたり、作曲を勉強したりしてみたが、どれも頭でっかちになってしまう私の悪い癖が出て、結局何も創れずにいた。作品は自分で創るものだと思い込んでいた私は誰かの手を借りたり、誰かを巻き込んだりということを思いつかなかった。若さというよりも思慮が浅かった結果でしかない。

つまるところ、私には推進力も人を巻き込む力も持ち合わせていなかった。それでも、何かをやりたい、創りたいという思いだけが膨れ上がって、行き場がないものをしょうがないの抱えながら、大学の図書館の机で原稿用紙を広げて、必修の授業の始めるを告げるチャイムを聞いていた。

 

あれから大学を辞めたり、全く違う世界に入ったり、一人暮らしを始めたり、いつのまにか開きっぱなしの原稿用紙は風に吹かれて、バラバラと床に舞っていた。

 

あの頃、私が持ち合わせていなかった物をのんという女優は持っている。

開いたまま図書館の机に放置された原稿用紙をのんさんは書き切った。私の隣にはいなかったが、書き上げるのに必要な助けが彼女の隣にいる。

今だって、あの頃の膨れ上がったものを抱えている。でも、それ以上のものを抱えてしまってもう抱えているのかもわからない。

 

私が彼女の活動を追いかけるのは、彼女の作品を創り上げる力に魅了されいているから。そして、それはいつかの私が持っていかった憧れでもあるのだ。

私はなり得なかった私をのんという女優に、創作あーちすとに投影することで、なり得なかった過去を見ないでいるのかもしれない。

 

ちなみに、舞台は全然こんな話じゃなくて、馬鹿馬鹿しいものでした。

あの馬鹿馬鹿しさがまさにクドカン。最高でした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

短絡的に何かを求めないように、自戒を込めて ーメンタリストの炎上から考えたことー

 

どうもこんにちは。

 

「ホームレスの命はどうでもいい」という「メンタリスト」なんて不思議な肩書きの人の発言が炎上している。

発言の内容も不愉快だし、そんなことは言わずもがなだ。こんなことを言えてしまう神経がわからない。

もし仮に、彼があの発言を本心から言うのならば、当然問題がある。しかし、あの発言を一つの手段としたならば、つまり、炎上商法と呼ばれるような手段のための発言であったとしたらば、人の気持ちを推し量れない貧しい想像力の持ち主だと言うことになる。

 

どちらにせよ、どうして、あんなに想像力の貧しい彼が不思議な肩書きを名乗って、多くの人を扇動して、影響力を持つに至ったのか。

問題の発言のあった動画はライブ配信のもので今は見ることが出来ないのだが、好奇心で、不信感を持ちながらこの人の他の動画を見てみた。

 

さすがにアップされている動画の全部は見れないし、動画は途中で会員サイトへ誘導されていたが、さすがにお金を払うほどの興味はないので、無料の範囲で視聴をしてみた。

確かに、サムネやタイトルは聞こえがいいし、短絡的で、動画を見ていない私でも、何をやってもいないのに何かに成功できるような気がしてくるものばかりだ。特に努力もなく、簡単なことで自分を変えて、自己実現が可能な気がしてくる。しかも、サムネの文字には「科学的」だったり、「心理学的」というような説得力のある言葉が添えてあった。

245万人の人間が彼の動画を待ちわびている理由が見えたような気がした。

 

しかし、数本の動画を視聴して違和感を持ち始めた。そして、違和感に関して考えて分かったことは、彼はただ見聞きしたことを話しているだけだということだ。

本で読んだのか、論文を読んだのか、どちらにせよ情報源は確かなものなのだろうが、彼の動画は情報の横流しに過ぎない。あたかも自分の言葉のように語っているが、そこにある言葉は彼のものではない。彼は人の思考を我が物顔で語っているに過ぎない。内田百閒ではないが、英語が読める騒がれた子供と同じだ。英語が読める子供がいると話題になって見てみると、その子はただ「エー、ビー、シー」とアルファベットを読み上げただけに過ぎなかった。彼もまたこの子供と同じではないか。彼が本に書いてあることが読めている、つまり、音読が出来ているだけで、内容が読めている、こちらは読解できているかどうかは曖昧である。なぜなら、彼のあげている動画はどれもただの音読に過ぎなかったからだ。私は彼が頭のいい人間には到底思えない。

ただの情報の横流しになぜ、245万人も集まるだろうか。

 

それは情報を求める側に問題があるのではないか。

短絡的に問題を解決したい人間が溢れてるからだろう。簡単に現状を変えたい人間が245万人も彼の動画を待っているのだ。自分で本を読むことですら疎ましく感じている人間が、こんなにも多くいて、なんの思考もなく、あの動画を見て、自身の中の何かを変えた気になっているのだ。何かが変わった気でいるのだ。

あのチャンネルが更新される度にその動画を視聴している人は、一体、人生の何を変えることができたのだろうか。

無思考な人間から無思考な人間へ、ただ横流しされただけの情報がその人に本当に与える影響とはどれくらいのものだろうか。

無料の動画で何かを考えたり、知った気になって、元手無しに効率よく人生を変えた賢い人間だと思っているのだろうか。

 

だとすれば、なんと浅はかなことだろうか。

動画を配信している人間にも、それを視聴している人間にも血の通った経験が存在しない。

一連の情報の横流しの中では、むしろ、この経験は無駄なものとして、省くことが推奨すらされている。しかし、経験という身体的な活動を省いた情報の横流しから本当に得るものはあるのだろうか。あるとして、それは本当にごくわずかの勘が特別鋭い人なのではないだろうか。

 

私はどう考えても自分の経験を通じてしか、答えを得られないと思う。いや、経験をしたとて、その答えを得られるかどうかわからない。

それは私が求める答えがそんな簡単なものではないことが分かっているし、答えを得るための経験のプロセスに答えがあると言うことをメタ的に感じているからだ。

仮に活字で答えを認識してもそれは答えを音読したに過ぎない。答えを理解するための経験をし、失敗をし、無駄を経てこそ、答えを読解出来るのだと思っている。音読で満足しては本当の意味で答えを得ていない。

 

あの動画を待っている245万人の人間の中にそれを理解できている人がいるのだろうか。

おそらく、それを理解できていない人間があまりに多いので、情報の横流しが囃し立てられ、想像力の恐ろしく乏しい人間に多くの人間が踊らされる現状が動画サイト上で広がっているのではないだろうか。

YouTubeには本当に頭のいい人はいないのではないだろうか。なぜなら、頭のいい人は、経験が伴わない動画視聴には答えがないことを知っているのだ。

 

書店に行くと、読むだけで人生を変えられるような文句の啓発本やビジネス本が並んでいる。手にとってパラパラとページをめくると、その筆者が見聞きしただけの内容が書かれている。そこに経験は通っていないのだが、簡単に答えを求める人間にそのことを気づくほどの思考力はきっとない。

動画を見て、本を読むことで自分が答えを知った気になっている。知ったことには違いないだろうが、おそらく理解はないのだろう。

そんな人間が寄ってたかって祭りあげた人間の発言が「ホームレスの命はどうでもいい」だったのだ。

 

自分が何か問題にぶつかった時、どう解決するのか。どこに答えを求めるのか。それを選択する際に、簡単であることも、リスクを背負っていないことも、無駄が省かれていることも、なんの指針にもならない。難しくとも、多少リスクがあっても、無駄をしてでも、自分の経験を介して得られるものであることを私は選べる人間でありたい。少なくとも、音読するだけのYouTuberを選ばない私でありたいと、この発言を考えたときに行き着いた。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

SNSを裁きの場と化した麻痺状態へ、小林賢太郎さんの一件に関して

 

 

どうもこんにちは。

 

少し前の小林賢太郎パフォーマー引退もショックだったが、今回のTwitterでの炎上もショックだ。

私はオリンピックには反対、というか興味がないから騒がないでほしい、という程度の温度での反対だが、それに関わる人間を執拗に追い回して、過去をほじくり返して、さもユースティティアにでもなったと言わんばかりに裁きを下すような行為を私はしない。

 

SNS上で「叩く」と言われる行為は、「裁く」という行為に等しい。本来は法律に則って、所定の審判が行われ、然るべき司法権が行使する行為を、勝手な個人の見解で、たまたま目にした真偽の不確かな情報を鵜呑みにし、なんの権限もなく思慮の浅い人間が行なって、1人の人間を抹消する行為だ。

先の小山田さんの件も然りだ。

それを恐ろしいと思う感覚をSNSによって失ってしまった人で溢れていると思うと、寒気がする。

言葉は私たちが思う以上に鋭利で、深くまで突き刺さる。SNSはそんな鋭さを鈍らせる。

そのことに気づいていない人間の思慮の浅い言葉で溢れかえっていて、吐き気がする。

 

こういうことを言うと、私もいじめを擁護し、ホロコーストを笑いにすることに肯定的だと勘違いする人間がいる。

そんな風に誤読してしまう人間がSNSにはほとんどなのだ。その程度の人間に人を裁かせたら、どれほど身の毛がよだつが起こることだろうか、安易に想像がつく。

 

7月20日TBSラジオ爆笑問題カーボーイ」で太田さんは、そんな麻痺したSNS上の言葉に対して、丁寧に言葉を選び、それはとても誠実で紳士的な態度で、自身の考えを伝えていた。

ここで、私が太田さんの話をするのは、私の考えのために太田さんの発言を援用するためではない。

考えを発信する立場として、あるべき姿がそこにあったと言うことを伝えたいのだ。

受信者の、この場合はリスナーの誤謬を発信者である太田さんが責任を負う覚悟で、言葉を選び、聴衆に紳士的な態度を示したのだ。

 

今回の騒動でTwitterで思い思いを言葉にして、一人の人間を裁いた人たちの中は太田さんと同じ覚悟を背負って、責任を持って言葉を選んだのだろうか。

なんの責任も負わない人間の思慮のない言葉が親指一つの世界に広がっていく。

 

ただ、こんなことを書いている私も今、その責任を負いきれているのか、覚悟を決めきれていのかと、不安になる。

感情だけでものを言っているのではないか、これを読んだ人に私の本当の意図がちゃんと伝わるのか、誤読される可能性があるのではないか、その瑕疵は私の言葉の中にあるのではないか。

その自問は、この騒動を引き起こした麻痺状態に関する私なりの内省の結果だった。

 

この今回の騒動で一番私が思うのは、SNS上が浅はかな人間の言葉が無責任に公人を裁く場と化したこと、そして、そのことに気づかずに人を裁き続ける思慮のない人間の気持ち悪さだった。

 

じゃあ、SNSをやめればいいじゃん、なんて言われるかもしれない。それはごもっともなんだけど、そうなるとそうなるとで、発言する場が欲しくなる。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

雑記、夏を喪くした、知ったことか

 

どうもこんにちは。

 

芥川賞が発表されて、掲載月の文藝春秋を買ってはいるものの読んでいないことを思い出した。ひとまず、一番手前の今年の3月号から宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」を読み始める。純文学と大衆文学の間を探しながら読んでいるような気になる。これが読めたら次は遠野遙さんの「破局」を読む。

 

夜の海なんて青春ぽくて、私だけの煌めいた思い出だと思い込んでいた。そう、思い込んでいたのだ。茅ヶ崎の海岸沿いに暮らして知った。茅ヶ崎の海では毎晩誰かが花火をあげている。毎晩花火をあげている音がする。予算のある人たちがあげる花火は我が家のベランダからも見える。自分だけの思い出だと思っていた夜の海は毎日の風景として溶け込んでいく。私の思い出はどこかへ行ってしまった。

 

オリンピックが本当に始まるらしい。江ノ島界隈はガヤガヤしている。夜のコンビニをフラフラしている外国人は関係者なのだろうか。関係者は軟禁状態なのではなかったか。

おそらく幼い頃からはじめて、部活や友達と遊ぶことを捨てて人生を一つの競技にかけてきた選手の晴れ舞台が灼熱の江ノ島に軟禁とは、誰もつゆにも考えなかったろう。

コロナがどうのこうのいう前から私はオリンピックに反対だった。厳密に言えば、賛成も反対もない、無関心だった。多数決になった時に一番肩身が狭いのは、多数派や少数派に参加しない、対立しない派閥、無関心だ。関心がないということ自体が批判の的になる。知ったことか。興味のない競技で興味のない国の興味のない選手が興味のない色のメダルを取ったところで、知ったことか。

そんなことを熱弁するくらいなら、そんなに眠そうな目を擦るのやめて、寝たらいい。巻き込まないでくれ。私は寝るから。

 

こんなことをたらたら話すだけのyoutubeでもやろうかと思う。

誰が見るかそんなもん。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

7月クールのドラマ

 

どうもこんばんは。

 

4月クールのドラマはすっかり追いかけるのに夢中で、何かを書いたり、残したりするのができなかった。

手帳にちょいちょい走り書きみたいなものを残してはいるんだが、それを広げるだけの元気はなかった。まあ、元気がないと言うのは都合のいい言い訳だな。今からだってやろうと思えば、やれるんだけどな。

後は、ネット上にはとんでもなく面白い記事が次々と読めるので、それで満足してしまう。と言うよりも、悔しいのかもしれない。自分の言葉にする前に他人の言葉で見事な形になっていると、自分の未熟な言葉で形にするのが情けなくなってしまう。

もっとも未熟なのは、私が私の思考に与えた言葉なのか、言葉を与えようとしている思考そのものなのか、分からない。いや、どっちもだろうか。

 

そんなことを言ってると、7月クールも始まっている。

前クールに楽しみな作品が多かった分だけ、今クールはさほどアンテナを張っていなかったのだが、ドラマ表を作り始まると、意外にそそられる作品が多く今クールも忙しそうな気がする。

f:id:sascoca:20210716223557j:image

これも完成させないと。

 

ひとまず、順不同で思いついたものから、書いていってみよう。

 

「#家族募集します」金曜22:00TBS

タイトルと予告からしてちょっと異質なホームコメディを予想していた。第一話は思っていたほどの異質感を感じなかった。

脚本を担当しているマギーさんといえば、この前に「向かいのバズる家族」を書いていた人だ。これも家族全員がそれぞれの形でSNS上で炎上したり、バズることで、離散したり、再生したりする物語だった。この「向かいの〜」が実際の家族だったのに対して、今作の「#家族」は擬似的な家族を構築していく物語らしい。

第一話で家族を募集した張本人の仲野太賀さん演じる蒼介は「いいこと思いついた。俺がお母さんになってやる」という。ここに何だかちょっと古めかしい家族像を見てしまった。規範的な家族の役割を割り振って、それをシェアするだけの物語だったら、少し落胆してしまうなと思っていた。

しかし、次回予告に出てきた岸井ゆきのさんがそれを杞憂だったと思わせてくれそうだ。夢を追うシングルマザーという役どころが古い家族の枠組みを取っ払った、新しい家族の在り方とそこにある人間ドラマを見せてくれそうだ。

 

「緊急取調室」木曜21:00テレ朝

脚本は井上由美子さん。有名な作品を挙げたらきりがないベテラン脚本家。最近だと平野啓一郎さんの原作を映画化作品「マチネの終わりに」が素晴らしくよかった。

今シーリズでもう4期になる。前作で何だか物足りなさを感じていたら、クレジットを見たところ、井上由美子さんが脚本を降りて、シリーズ監修という肩書きになり、実際に筆を取っていたのが聞いたことのない方だった。何だか犯人の人物像が薄っぺらく、緊取の人たちが暴く事件の真相にも深みがなかった印象だった。今期では井上さんが脚本にも戻ってきていて、少し安心した

第一話もよかった。主演の天海祐希さんVSゲストの桃井かおりさんがとてもよかった。こんなによかったのにまだこのドラマの一番の見どころである取調シーンに入っていないのだ。

第一話の60分間で今後につながる展開の鍵がいくつも散りばめられていた。この先が楽しみで仕方ない今クール一押しのドラマだ。

 

「ハコヅメ」水曜22:00日テレ

戸田恵梨香さんと永野芽郁さんが演じる交番勤務の女子警察官の物語。勤務する交番の長を演じるのがムロツヨシさんというのが面白い。過去作で戸田恵梨香さんとは夫婦役を、永野芽郁さんとは親子役でそれぞれ共演している。主役の二人の隣で裏まわし的なポジションにいるムロさんが私としては新鮮だった。

いわゆる「熱血お仕事ドラマ」だろうと思いながら見始めたが、意外にお笑いの要素がしっかりしていて、放送されている第一話でも朝礼のシーンなどはコントしてとてもよくできていた。

戸田恵梨香さん演じる藤は元刑事課のエースで、何か過去があって地域課の交番勤務に移動になったようだが、そこの要素はそこまで重たい感じもない。今後、物語の中心になる伏線なのだろうが、気軽に見れそうな感じがして、好感をもてた。あまり重苦しい感じに仕上げるキャスティングではない。

やりすぎない、でも滑っていないちょうどいい笑いがバランスよく取り込まれていて、興醒めしないドラマで今後を楽しみにしている。

 

今クールは4月クールよりもエンタメ要素が強いドラマが並んでいる。

夏ドラマの代名詞とも言える恋愛ドラマはTBS、フジテレビ、日テレどこも期待が持てるようなものではなさそうだが、2話ぐらいまでみてみようと思う。

ドラマが面白いと忙しくなって困る。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

チャリパンクして、ギターを覚える

 

どうもこんばんは。

 

風が吹けば桶屋が儲かるなんてことをいう。

私はこの言葉を聞くとラーメンズを思い出さずにはいられない。

ラーメンズ『ALICE』より「風と桶に関する幾つかの考察」 - YouTube

 

通勤に自転車を使っていると気持ちいい季節がやってきた。烏帽子岩に背を向けて江ノ島へ、海沿いを走ると潮風が気持ちいい。 

 

ただ、厄介なのはパンクだ。

海岸沿いの道は凹凸が大きく、ただでさえパンクしやすい。そこにきて、時間ギリギリに家を出る私のルーズさと、定期的に空気を入れる手間さえも惜しむ私のズボラさが相まってパンクの用意は整う。

 

先日は江ノ島デニーズの前あたりでパンクした。職場まであと数メートル。自転車だと1分でも、歩くと3分になる。案の定、2分半遅刻した。定刻出勤の計算が合わない。

 

その日は電車で茅ヶ崎まで帰り、パンク修理は次の日に。茅ヶ崎駅から我が家までの20分間、仕事帰りに家路を歩くと、いろんなことを考える。コンビニで安いアイスコーヒーを買う。ラジオも聞かず、頭の中に独り言を並べて、海に向かって歩いて帰った。

 

江ノ島 自転車 修理」で検索して、江ノ電江ノ島駅近くに自転車屋さんがあることを見つけた。

早速、パンクして重たくなった自転車を押しながら向かった。颯爽と漕いでいる時は気持ちいい陽射しが、押している時には贖罪のように苦しい。

 

ガラスの扉を開けて中から出てきたのは30代半ばくらいの男性だった。

事情を説明し、状態を診てもらうと、私が手入れを怠っていることや、前カゴに重たい荷物を乗せることなどを的確に指摘していった。なんだか掴みどころのない、やる気のなさそうな印象が一瞬で翻って、私はすっかりこの人に信頼を寄せてしまった。

 

どういう人を信頼するか。それはどういう人と関係を築くかと言うことと等しい。

私は直感を信じる人を信頼することが多い。直感を信じる人というのは、信じた自分自身に責任を持てる人なのだ。だからこそ、自分の直感で行動を起こすのだ。そこに失敗した場合など想定されていない。失敗したとしても、その責任を自分でリカバリーする能力を自負しているのだ。

 

先に順番待ちをしている自転車があって、私は自転車が直るまでの1時間ほどの時間を近くのタリーズでコーヒーを飲みながら待った。

 

きれいに直った自転車のどこにどのように手を加えたのか、それを維持するのにどういう手入れが必要かと、丁寧に説明をしてくれた。

店内には自転車のパーツらしきガラクタとギターが散乱していた。店内が丸見えのガラス張りの壁には自転車の修理を宣伝するチラシとギターレッスンの生徒を募集するチラシが同じくらいの枚数貼りつけてある。

 

「ギター教えてもらえるんですか?」

私は去年の在宅無職中に買ったっきり、ほとんどいじっていないギターが飾ってあったことを思い出したのだ。

「まぁ、そうですね。一通り弾けるようには教えますよ。プロとかになるのは難しいですけどね」

私はジャズが演りたくて買ったギターの話をした。すると、ジャズギター史を簡易的に教えてもらい、参考音源やセッションに参加できるようになるまでのプロセスなんかを説明してもらった。

その口調にやはり自信を感じて、その場でお願いすることにした。

十回で21600円。一回2160円。時間は特に決まっておらず、日程も自由。内容も自由。

変な音楽教室に通うよりもよっぽどリーズナブルだ。

「一回、どんなギターか持ってきてくださいよ。調整しますから」

 

翌日、出勤前にギターを持参した。ケースから出したギターを一回転させて、中古品で、前の人がどれくらい使い込んで、手を入れているのか、を大体見抜いた。メルカリで買ったもので、そこまで説明書きもなかったので、真意は分からないが、確信した口調はやはり信頼できる気がした。

 

そういうわけで、私は毎週ギターレッスンを受けることになった。

自転車がパンクしたおかげで、ギターを覚えることになった。

風が吹いて桶屋が儲かった。

 

良心的なレッスンについて聞いてみた。

「ビジネスでやってないから適当でいいんですよ。一緒に遊んでくれる人が出来たら、音楽に飽きないじゃないですか」

 

まずはFのコードを押さえるられるようになるところから。人差し指が痛い。

チャーリークリスチャンには程遠すぎる。いや、そんな名手はおこがましいやな、それよりも自転車屋さんと遊べるようになりたい。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。