本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

観劇ノート「愛が世界を救います(ただし、屁が出ます)」と、いうよりも私にとって「のん」という人は的な話

 

どうもこんにちは。

 

諦めていた舞台のリリースが運良く買えたので、期限が迫っている教習所の予定を変えて、渋谷はPARCO劇場へ久しぶりの炎天下の坂を登った。

仕事中に隙を見てメールのチェックをしておいてよかった。外部との連絡を取る機会が一番多い仕事を請け負っている私が仕事中に携帯をチェックしていても怪しいということはない。

それでも、舞台のチケットのためにスマホを覗いている私の方は、少し緊張感が走っている。

 

宮藤官九郎さんの作演出、主演にのんさんと村上虹郎さん。周りは「いつもの」と言っていい大人計画をはじめとするお馴染みのキャスティングでPARCO公演「愛が世界を救います(ただし、屁が出ます)」を観劇。

f:id:sascoca:20210819174118j:image

大パルコ人④マジロックオペラ「愛が世界を救います(ただし屁が出ます)」ティザーmovie - YouTube

 

なによりもクドカン×のんというのが観にいかなくてはという衝動に駆られる。

2013年の連続テレビ小説あまちゃん」は未だに私の中の名作ドラマランキング上位を揺るがない不動の名作だ。

 

出演者が総出で揃ったオープニング。ギターを抱えたのんさんがセットの中央で歌っているのを観た時に、私は涙が溢れそうになるのを堪えるのがやっとだった。涙を誘うような歌詞なんか一言もない。大の大人が寄ってたかって「屁が出ます」と叫んでいる場面で泣きそうにあった。

目の前で、のんさんが歌っている。舞台の上で輝いている。それが私の心の何かのスイッチを入れたのだ。

これと同じ涙を流した経験を私はサザンのライブでしかしていない。憧れて大好きな人が目の前で歌ってくれている、そのことが私を感極まらせ、心のスイッチを入れてくれるのだ。熱くしてくれるのだ。

私はサザンほどの熱量をのんさんの活動に対して、持っている自覚がなかった。それなのになぜのんさんのギター姿が私の心のスイッチを入れたのか。

涙を堪えているときに、初めて私の中ののんさんがそこまで大きな存在だったのだと気づいた。

 

のんさんは本名の能年玲奈として、前出のドラマ「あまちゃん」で世に知られるようになった。世の人同様、私もこのドラマで初めて能年玲奈という女優を知ることとなる。クドカン×キョンキョンという「マンハッタンラブストーリー」を彷彿とさせる組み合わせを目当てに観ていたのが、いつのまにか能年玲奈演じるアキの純粋さと奔放さ、そして真っ直ぐさに心を打たれて見入るようになっていた。

おそらく、あのドラマがここまで私たちの記憶に留まり続け、魅了し続けるのは、クドカンの本の面白さもあるが、主演の能年玲奈という人間と役の相性の良さ、「ニン」がマッチしていたことが大きいのではないかと思う。

そして、ドラマが終わって、次の作品に注目が集まる能年玲奈が事務所とのトラブルで表舞台からしばらく姿を消し、彼女のドラマディスコグラフィーが更新されなかったことも大きな要因なのだろう。

 

最近になって、「この世界の片隅に」や「私を食い止めて」など、少しづつその名前を見る機会が増えてきた。

 

独立後の活動を私はそれなりに追っかけていて、渋谷で開催された個展に足を運んだり、(現代アートに向いた牙が突き刺さる 〜のん「女の子は牙をむく」〜 - AM1:00-3:00)自身のレーベルを立ち上げて作品を発表したものも聞いてみたり、(創作あーちすと のんさんニューシングル「スーパーヒーローになりたい」 - AM1:00-3:00)しているのだ。

YouTubeで公開されていた自主制作映画も観たりなんかした。

 

彼女の何にそんなに惹かれて、のんさんの日の当たらない創作活動を追いかけていたのだろうか。

 

思うに、彼女が作品を形にする際の物事を推し進める「推進力」とそれに周りの人間を加勢させる「巻き込む力」が見ていて爽快だったのだと思う。面白いくらいにのんさんは事を進めていく。そして、びっくりするくらいのビッグネームが彼女に力を貸しているのだ。彼女が何かを創ろうとする姿勢には物事を大きく前に動かし、人を巻き込んでいく力がある。

私は彼女が創る作品そのもの以上に、彼女の推進力をもって、人を巻き込んでいくその創作力に魅了されて、彼女の活動を追いかけていたような気がする。

 

そうなると、私にとって彼女の創作力とはどんなものなのだろう。

 

私の中で彼女が象徴となるのは当然、衝撃的な登場を果たした「あまちゃん」に違いない。

あの頃、私はなんだか思っていたのとは違う普通のどこにでもいる大学生になっていた。芸術学科という多少変わった学科に所属してはいたが、何か作品を創りたくて、文章を書いてみたり、作曲を勉強したりしてみたが、どれも頭でっかちになってしまう私の悪い癖が出て、結局何も創れずにいた。作品は自分で創るものだと思い込んでいた私は誰かの手を借りたり、誰かを巻き込んだりということを思いつかなかった。若さというよりも思慮が浅かった結果でしかない。

つまるところ、私には推進力も人を巻き込む力も持ち合わせていなかった。それでも、何かをやりたい、創りたいという思いだけが膨れ上がって、行き場がないものをしょうがないの抱えながら、大学の図書館の机で原稿用紙を広げて、必修の授業の始めるを告げるチャイムを聞いていた。

 

あれから大学を辞めたり、全く違う世界に入ったり、一人暮らしを始めたり、いつのまにか開きっぱなしの原稿用紙は風に吹かれて、バラバラと床に舞っていた。

 

あの頃、私が持ち合わせていなかった物をのんという女優は持っている。

開いたまま図書館の机に放置された原稿用紙をのんさんは書き切った。私の隣にはいなかったが、書き上げるのに必要な助けが彼女の隣にいる。

今だって、あの頃の膨れ上がったものを抱えている。でも、それ以上のものを抱えてしまってもう抱えているのかもわからない。

 

私が彼女の活動を追いかけるのは、彼女の作品を創り上げる力に魅了されいているから。そして、それはいつかの私が持っていかった憧れでもあるのだ。

私はなり得なかった私をのんという女優に、創作あーちすとに投影することで、なり得なかった過去を見ないでいるのかもしれない。

 

ちなみに、舞台は全然こんな話じゃなくて、馬鹿馬鹿しいものでした。

あの馬鹿馬鹿しさがまさにクドカン。最高でした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。