本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

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茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

SNSを裁きの場と化した麻痺状態へ、小林賢太郎さんの一件に関して

 

 

どうもこんにちは。

 

少し前の小林賢太郎パフォーマー引退もショックだったが、今回のTwitterでの炎上もショックだ。

私はオリンピックには反対、というか興味がないから騒がないでほしい、という程度の温度での反対だが、それに関わる人間を執拗に追い回して、過去をほじくり返して、さもユースティティアにでもなったと言わんばかりに裁きを下すような行為を私はしない。

 

SNS上で「叩く」と言われる行為は、「裁く」という行為に等しい。本来は法律に則って、所定の審判が行われ、然るべき司法権が行使する行為を、勝手な個人の見解で、たまたま目にした真偽の不確かな情報を鵜呑みにし、なんの権限もなく思慮の浅い人間が行なって、1人の人間を抹消する行為だ。

先の小山田さんの件も然りだ。

それを恐ろしいと思う感覚をSNSによって失ってしまった人で溢れていると思うと、寒気がする。

言葉は私たちが思う以上に鋭利で、深くまで突き刺さる。SNSはそんな鋭さを鈍らせる。

そのことに気づいていない人間の思慮の浅い言葉で溢れかえっていて、吐き気がする。

 

こういうことを言うと、私もいじめを擁護し、ホロコーストを笑いにすることに肯定的だと勘違いする人間がいる。

そんな風に誤読してしまう人間がSNSにはほとんどなのだ。その程度の人間に人を裁かせたら、どれほど身の毛がよだつが起こることだろうか、安易に想像がつく。

 

7月20日TBSラジオ爆笑問題カーボーイ」で太田さんは、そんな麻痺したSNS上の言葉に対して、丁寧に言葉を選び、それはとても誠実で紳士的な態度で、自身の考えを伝えていた。

ここで、私が太田さんの話をするのは、私の考えのために太田さんの発言を援用するためではない。

考えを発信する立場として、あるべき姿がそこにあったと言うことを伝えたいのだ。

受信者の、この場合はリスナーの誤謬を発信者である太田さんが責任を負う覚悟で、言葉を選び、聴衆に紳士的な態度を示したのだ。

 

今回の騒動でTwitterで思い思いを言葉にして、一人の人間を裁いた人たちの中は太田さんと同じ覚悟を背負って、責任を持って言葉を選んだのだろうか。

なんの責任も負わない人間の思慮のない言葉が親指一つの世界に広がっていく。

 

ただ、こんなことを書いている私も今、その責任を負いきれているのか、覚悟を決めきれていのかと、不安になる。

感情だけでものを言っているのではないか、これを読んだ人に私の本当の意図がちゃんと伝わるのか、誤読される可能性があるのではないか、その瑕疵は私の言葉の中にあるのではないか。

その自問は、この騒動を引き起こした麻痺状態に関する私なりの内省の結果だった。

 

この今回の騒動で一番私が思うのは、SNS上が浅はかな人間の言葉が無責任に公人を裁く場と化したこと、そして、そのことに気づかずに人を裁き続ける思慮のない人間の気持ち悪さだった。

 

じゃあ、SNSをやめればいいじゃん、なんて言われるかもしれない。それはごもっともなんだけど、そうなるとそうなるとで、発言する場が欲しくなる。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。