本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

考察することを考察すると 〜東京ポッド許可局を聞いて〜

 

どうもこんにちは。

 

私は外野の人間として、興味のあることについて、色々考えてしまうタイプのたちの悪い人間だ。

それを考えるだけで飽き足らず、こうして文章に書き起こして、誰が読むともしれない空間に垂れ流している、たちの悪い中でもたちの悪い人間なのだ。

 

そんな外野の人間が語ることに関して、TBSラジオ「東京ポッド許可局」で話題に上がっていた。

この番組は芸人のマキタスポーツさん、プチ鹿島さん、サンキュータツオさんがそれぞれ持ち寄った論を取り止めもなく語っている番組だ。日常のなんでもないような些細なことを一つの論点として取り上げて、少し深めに掘り下げて語り合う。

 

その回は「お笑い当事者論」と題して、かつてプロレスが歩んだ「マニアがジャンルを潰す」という現象をお笑いもなぞりつつある、というケンドーコバヤシさんが警鐘を鳴らしたインタビューを皮切りに話は始まる。

ケンコバ「お笑い界は破滅する」 雨上がり決死隊の解散翌日に語った危機とは? (1) | マイナビニュース

 

私にしてみれば、これは身をつまされるような話である。なんせ私はこの場合、明らかにジャンルを潰すマニアに属しているわけである。私が考えれば考えるほど、私は大好きなものを破滅させているのだろうか。

 

なぜ、私が観たもの聞いたもの読んだものについて考えているのか、3人の話を聞いた後でそんなことを考えた。

作品を考察して、創り手よりも優位に立ってやろうなんてつもりは、さらさらない。そもそも私の発言にそんな力はない。おこがましい。

そんなことよりも私がしたいのは、私は本当にその作品の醍醐味を味わえたのかどうかである。作品を観た、読んだという達成感で終わっていないか、創り手はもっと表現したいことがあったんじゃないのか、私はそれをちゃんと享受できたのだろうか、大切なことを見落としていないか、そんなことを考えたいのである。

 

確かにケンコバさんが記事で語るように創り手がその裏側や手の内を語る機会は増えたように思う。特にコロナの関係で、観客を入れてのライブやイベントが出来なくなった代わりに無観客の配信が増えて、私達が享受するエンタメは、私たちと創り手との閉密さを保ったまま拡大されるようになった。聴き逃し配信が可能なラジオのアプリやトーク番組も増えた。その閉密さは創り手が手の内を語って聴かせるにはちょうどいい空間なのだ。

考察中毒の私からすれば、それは考察する際の参考資料が手軽に入手できる良い機会だった。私の目には私の好きな世界が広がっているように見えていた。

 

しかし、ケンコバさんがいうように、創り手からの「手の内明かし」は本当にプロレスの後を追う破滅の道なのだろうか。

だとすれば、創り手はなぜ「手の内明かし」を始めるのか。

 

それは当然、その本人達から手の内を聞きたい人間がいるわけだ。そして、それはおそらく私のような創り手に親近感を持つ考察中毒者なのだと思う。考察中毒者にとって、配信のトークイベントやラジオで聞かれる本人達の手の内明かしは「答え」となるからだ。

作品を観たり、読んだりした後、あれこれと考えると答えが欲しくなる。自分の考えを整理して、公に公開して反響が欲しくなる。

欲している最たるものが本人による「手の内明かし」つまり、「答え」である。

 

そして、その答えを得ると、私はもっとその先を考えたくなる。

他の媒体と繋げたり、他の出演作品を引き合いに出したり、考察はどんどんと広がっていく。考察が広がれば、その分だけ欲しくなる答えも増えていく。際限がない。私が欲しい答えはどこまで続くのか頭が痛くなる。

 

しかし、その答えを私は放送中のサンキュータツオさんの発言で見つけた。

それが次の発言だ。

語っている当事者もいち評論家に過ぎないわけ。傾聴に値する意見かもしれないけど、それが全てではないし。

あくまで「表現されたもの」っていうのを分けて考えなくてはいけないんだけども、当事者が言ってるからってみんな「イコール」で見過ぎちゃう。

私は考察するということの本質的な部分を見落としていたのである。

つまり、私がする考察の答えなど得られないということである。その答えとは「ありそうでない、でもやっぱりあるらしい」くらいに不確かで曖昧な存在なのだ。あるにはあるが、曖昧すぎて得られようがないものだったのだ。

 

私が何かを観たり読んだりし、感想を持ち、それについて考える。これは答えの得られない作業なのである。いくら欲しても答えはないのである。

そのことに耐えられるなくなった私は、創り手の言葉を答えであるかのように仕立て上げる。そうすることで、答えを得たという既成事実に満たされることになる。

 

しかし、その本人による言葉は本当に答えなのか。

許可局の放送中にも述べられているように、当事者たちによる「演出」があったのではないか。内輪の話で終わってしまっているのではないか。そして、創り手だって、作品の全てを知っているわけではない。作り手の意図しない作用が受け手によって見つかることもある。だとするならば、創り手の言葉を答えとして受け止めてしまうのはあまりに安易すぎやしないか。

 

それで、話は逸れるが思い出したエピソードがある。

クドカンが朝ドラ「あまちゃん」を書いていた時のこと。

宮本信子さん演じる夏ばっぱの横に積まれた箱に注目が集まったことがあった。その箱には「マルサ」と書かれていたからだ。というのも、宮本信子さんの代表作に伊丹十三監督の「マルサの女」というものがあったからだ。

役者の代表作をオマージュしたり、パロディにするクドカンならやりかねない演出だった。

しかし、それはのちのクドカン本人の話で偶然だったことが明かされる。視聴者の深読みが過ぎた結果に過ぎなかったのだ。

 

こんな風に、時には創り手よりも受け手の方が作品に対する気付きがあったりする。創り手が必ず答えだということはない。

何度もいうが、答えはないのだ。

 

お笑いがプロレスの後を追わないために、破滅の一途を辿らぬために、私たちがすべきことは何か。

 

それは考察や深読みを自分を楽しませるための行為だという認識を今一度することである。

答え合わせをして正解だ不正解だと一喜一憂したり、他人に対してマウントを取ったりする行為ではないとここで再認識する必要に迫られているのではないだろうか。

 

作品を考察することに答えなんかない。解釈や深読みに絶対的な心理などないのだ。そして、創り手だって答えを知り得ないのだ。だとしたら、考察したり、深読みしたりすることに意味はないではないか、ということになる。

 

先にも述べた通り、曖昧で不確かな考察の答えは創り手にも得られないものなのである。

しかし、創り手が答えを知っているかのように語り、私たちは待っていましたと言わんばかりにそれを拝聴する。この一方通行の答えの授受には、創り手の語りがいつでも真実であるという幻想的な前提が当たり前のように存在している。

このことは私たちは常に疑ってかかる必要がある。創り手のいいように話が改竄されていることだってあるのだ。

 

答えがないのに、あたかも答えのように語るその姿勢こそが作り手による改竄に違いない。ありもしない答えが存在するかのように改竄されることは、私たちの自由な考察、深読みが侵害されるということだ。答えがないということは、私たちの考察はどこまでも自由が広がっているということなのだ。

 

ここからは余談。

プロレスに明るくない私はプロレスがどんな轍を歩んだのか知らない。それはケンコバさんの発言の内容から推測するしかない。

憶測するにプロレスマニアは考察した矛先をプロレスそのものに向けてしまったのではないだろうか。つまり、試合を見て、感想をもち、考えて、その結果をプロレスを批評することでまとめてしまった。味方であるはずのマニアに受け入れられなければ、当然、その世界は衰退してしまう。それがケンコバさんが見てきたプロレスの轍なのではないだろうか。

 

だとすると、私は作品を観て、感想をもち、考えて、その結果としての矛先を観客としての自分に向けたい。それが私の考察の目的である。その作品やその世界に対してではなく、観客としての私、それは作品を享受する立場にある人間として、創り手や作品に敬意を持って、表現されたものを出来うる限り理解することができたのか。これは感想とはまた違った次元である。自分の好みや趣向を超えて、作品そのものの理解に努めることができたのか、それは作品に対する批評ではなく、それを享受する観客としての私に向けられるものである。

私は自分を満足させるために作品と向き合い、考察や深読みをしていきたい。常にその矛先は破滅していったプロレスとは違うところに矛先を向けていたい。

 

もし、あなたがこれを読んだタイミングが良ければ、聞けるかもしれません。

‎東京ポッド許可局:Apple Podcast内の第437回「お笑い当事者論論」

 

では、こりゃまた失礼いたしました。