24時間のファミレスを探してます
どうもこんばんは。
ここ最近、どこか出掛ける度に24時間のファミレスを探すクセがついてしまった。
当たり前のように24時間営業していたファミレスは、このご時世のせいで、すっかり23時には閉まるようになってしまったようで、なかなか見つからない。
二十歳になる少し手前、正体の見えない、なんだか分からない焦燥感に追いかけられる深夜が私には度々あった。なんの根拠もないのにこのままじゃいけない、何者かになりたい、何かを創りだせる人間になりたい、一日が終わる深夜、急に何かに駆り出されるのだ。
たいてい、そんな夜を向かえる日の昼間はだらだらとベッドの上で過ごしたり、やろうと思っていたことをしていなかったり、怠惰な昼間が過ぎたあとだった。
深夜に焦燥感に駆り立てられた私は、とりあえず、原稿用紙と鉛筆だったり、ちょっとベルクソンだったりをカバンに詰めて、自宅に近いファミレスに向かう。意味はないのに、ポテトとドリンクバーで朝を迎える。
別にファミレスにいくことにも、原稿用紙に何かを書き殴ることにも、ベルクソンの一行に考えあぐねることにも意味はない。
でも、焦燥感を感じて、急き立てられた私は何かしないと気が済まない。
こんな時のファミレスは、あの当時の私にとって、シェルターのようなものだった。
夜中の焦燥感から逃れるために、何かをしている振りをしていた。そのためにはファミレスに逃げ込むのがちょうどよかったのだ。
今ならもう少し分かる、あの時、私を追いかけてきた焦燥感の正体が。
あれは羨望と絶望だ。
あの当時、もっと自分は何かすごい人間な気がしていたし、そんな自分がしがない大学生をやっていることに満足なんかなかった。
回りの人はなんだかすごい人で、なにかを達成していようとしている人達ばかりのように思えたのだ。
その中にいて、自分はたいした人間ではないという当たり前のことが受け入れられなかったのだ。
回りの人に対する羨望と自分に対する絶望と。
深夜のファミレスで足掻く時間は絶望から逃れて、羨望に近づかんとするシェルターだったのだと思う。
いろんなことを経て、あの頃から10年経った。
いつの間にか、羨望を抱くほど回りにすごい人間はいないし、絶望するほど私は悪くない、そんなことに気付きかけてきた。
それは妥協のお陰かもしれない。そして、妥協することが必ずしもいいとは思わない。
でも、あの頃の焦燥感に追われていた私に教えてあげたい。
お前さんを追いかけているものは、そんなに必死に逃げるほどのものでもないぞ。
そう言いながら、あの頃の私が原稿用紙に向かっていたならば、ベルクソンに頭を悩ませていたならば、ドリンクバーの美味しくないコーヒーでも淹れてあげたい。
いつかの24時間のファミレスで、必死で逃げている私へ。
では、こりゃまた失礼いたしました。