岡村さんの発言への批判は「種族のイドラ」を抜け出せていたのか
どうもこんばんは。
「コロナ警察」とか言う言葉をよく聞くようになった。
「正義」という大義名分を得ることによって、自分のしていることに歯止めがきかなってしまっている人達だ。
自分はいいことをしている、世の中のためだ、という意識から芽生えたものだということが問題を厄介にしていやいないだろうか。
こんな人たちは物事を「相対化」することが出来ない人達なのだろう。
出発点は
⒈新型コロナウイルスによる感染拡大を防ぐために自粛しよう
という素晴らしい姿勢だ。しかし、自粛しながら周りを見渡してみると、
⒉自分が自粛している間にも、世の中は自粛していない人がいる。自粛することが正しいんだから、自粛していない人は間違っっている
という発想になる。この発想は間違いではないが、この人は自分と何らかの理由で自粛しない人とを同じ座標で物事を見ている。
⒊自粛していない間違った人には自粛させなくては、なんせ自粛するのが正しいんだから
という発想に転換される。これがエスカレートすると、嫌がらせになるわけだ。
嫌がらせになってしまえば、これはもう善行でも何でもない。しかし、元より正義感たくましい善行から出発しているため、自分の行いが嫌がらせという悪行に陥ってることに気づかない。
今回の本題がここではないのでだいぶ荒削りに話を進めます。
私が一番と怖いと思うのは、⒈と⒉の間で
どうして、この人は自粛しないのか?
という、自分の座標を拡張して、何らかの理由で自粛しない人の座標と照らし合わせ、相対化することが出来ないことだ。そしてもっと恐ろしいことに、相対化することが出来ない人の多くは自発的に相対化が出来ないだけではない、外からの啓蒙されてもそれを受けつけられないのだ。
ここで、「啓蒙」と言う言葉を使うのは、結構思い切った語の選択のつもりだ。それは、私が「座標の相対化」ができることにかなりの価値を置いているからだ。
外からの触発を受けても「座標の相対化」が出来ない人は、相対化して物事を見ている人を自分が相対化すべき対象と同じだとみなす。
自粛できな人の理由に納得し、それを受け入れた人(つまり、相対化出来た人)へも
あの人は自粛しない人を容認しているから、自粛しない人と同じ悪だ
という発想になる。
本来は①相対化することが出来ない自粛する人(自粛しない人を批判する人)、②相対化することが出来た自粛する人(自粛しない人を容認した人)、③何らかの理由で自粛しない人の3種類がいるのだ。しかし、①の哀しいフィルターを通して見ると、②と③が同じ類の人間に思えてしまっているのだ。
私は①を実に愚かしい人間の類だと思う。なぜだろうか。恐らく、他者と自分を相対化させるということが「洞窟のイドラ」から抜け出す手始めの方法なのだ。そして、この「洞窟のイドラ」が一番抜け出すことが容易なイドラなのだ。
一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない
人なのだろう。だいぶ、強めの言い方をしてしまっているので、顰蹙を買いかねないが、そういうことを言う人の多方は上記の「一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない」人なので、私は気にしない。しかし、耳を傾けないわけではない。反対の意見を言う人の考えと私の考えを相対化させて、考えてみることはする。頭ごなしに「反対意見は聞かん」では、いつの間にか私も「一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない」人に堕ちてしまっているからだ。
さて、自分と他人の座標を相対化させることが出来ると、次にもっと大きな括りでの座標を相対化せていく必要がある。
自分が生まれ育った環境と他人が生まれ育った環境。もっと大きくなれば、地域と地域、国と国、文化圏と文化圏を相対化させる必要が出てくる。先ほどから何度も拝借しているベーコン老師『ノヴム・オルガヌム』によれば、「種族のイドラ」と言うやつだ。
さて、やっとこそさ、本題に入れそうだ。
つい先日、この「種族のイドラ」から抜け出せない人によって一つの文化圏が脅かされた。
4月23日に放送された「岡村隆史のオールナイトニッポン」での発言が問題になった時だ。気分の悪くなる発言なので、詳細はここでは言いません。思い当たることがない人は「岡村 オールナイトニッポン 発言」とかで検索してください。
はじめにちゃんと示しておくと、私は岡村さんの発言を容認するわけでもなければ、この発言に対する批判はごもっともだと思っている。その上で次のようなことを言いたいのだ。
批判した人のどれほどが深夜ラジオという文化を理解していたか、つまり、定期的に聞いているリスナーだったのか。そして、根は次にある。⒈この発言をSNS等で聞いた普段深夜ラジオを聞かない人のどれくらいが、実際の放送でもって活字でない、岡村さんの声を聞いたか。
最新のニッポン放送の聴取率調査では「岡村隆史のオールナイトニッポン」は0.6%だった。(ニッポン放送『オールナイトニッポン』聴取率単独首位に オードリーがV24達成 | ORICON NEWS)
それに対して、岡村さんのレギュラー番組に寄せられた降板を求める署名は1万5千人。(岡村隆史さん出演、ネットで賛否 問題発言後初の「チコちゃんに叱られる!」 - 毎日新聞)
それ以上にもTwitter等には批判の声がかなり多い。当たり前だがこの全員がリアルタイムで聞いていたとは思えない。
そして、⒉普段深夜ラジオを聞かない人たちは深夜ラジオという文化を相対化させようと努めたのか、私はこの二つの問いを問題発言に対する批判に対して投げかけたい。
再三言うが、深夜ラジオという文化圏ならば、問題の発言は許されるべきだ、と言うのではない。深夜ラジオにおいても許されない発言だ。それは間違いない。
しかし、深夜ラジオ特有のパーソナリティとリスナーの親密感、深夜という時間帯、などを考えると風俗の話、下ネタはよく聞かれる。そういうアホな話題で盛り上がることが大いにある。私もそれもひっくるめて楽しんでいる。当然、今回のように倫理感を逸脱しない程度の話でだ。
深夜ラジオはそういう空気感が他のメディアよりも比較的に強い。(何度も言うが、深夜ラジオの空気感でも、岡村さんの発言は許されない)
普段深夜ラジオを聞かないで批判した人のどれだけが、深夜ラジオの文化をその人が普段接している他のメディアの文化と相対化させる努力を、思考をしたのだろうか。そういう手続きがあった上での批判だったのか。私は同じ批判でも大きな分岐点にあると思う。
5月5日のTBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」で太田さんが発言しているが、風俗だけを生き甲斐にしている一定数のリスナーに、間違った方法ではあるが、寄り添うおうとした意図から生まれた発言なのだ。だからと言って許さない発言ではあるけども。深夜ラジオという文化圏はそういう発言で励まされる人も含んだ文化圏であることへの理解が批判した人の中にどれだけあったのだろうか。
JUNK 爆笑問題カーボーイ | TBSラジオ | 2020/05/05/火 | 25:00-27:00 http://radiko.jp/share/?t=20200506010000&sid=TBS
今回は批判の対象になった発言が深夜ラジオの文化圏にいる人間からしても、擁護できるものではなかった。
しかし、これが深夜ラジオの文化圏からすれば当たり前のもので、かつ、さほどの倫理的な逸脱がないものだったら、どうだっただろうか。深夜ラジオを聞くマイノリティからすると当たり前だが、深夜ラジオを聞かないマジョリティからすると聞きなれない、でもさほど社会的に外れたとは言い難い発言が批判の的になっていたらば。
深夜ラジオの文化を相対化出来ない人の批判の的に晒されたら、と思うと私は恐ろしくなる。それは一つの文化の滅亡の引き金になりかねない。
相対化出来ない人達による無思考な批判のせいで脅かされる文化はまだまだある。
例えば、落語。男尊女卑という概念すらない時代を談る話芸において、男尊女卑を理由に批判的に見る人がいる。落語文化を今その人が生きる現代文化と相対化させることが出来ていないのだ。それを必要だとも思わない。どうして落語文化には未だに時代錯誤な男尊女卑思想が忍んでいるのか、という問いすら立てられない人達だ。そういう愚者たちが潰すだけ潰した文化の後に何を残せるのか。そのことに対する危機感はないのかね。
私は自分の知る文化と相対化させてその違いを容認さえできれば、こんなに面白い文化で溢れている世の中がどんどん失速していくのが、恐ろしくなってしまう。
かと言って、今回の岡村さんの発言は許されない。私も許そうとは思っていない。
しかし、同じ許されないでも、岡村さんの発言の真意を聞こうとしたのか。岡村さんを、深夜ラジオを、それを普段から聞くリスナーを、相対化させることすら発想になかった人たちの批判でSNSが溢れて、そういう意見がマジョリティになり、マイノリティ文化が不必要な締め付けに合うことに警鐘を鳴らしたい。
これを民主主義のあるべき形だというのは大きな間違いだ。
無思考に批判した人がやっていることは、無理解に自国の文化を押し付け、植民地化した帝国主義の列強と同じだ。1800年代後半の古く、愚かしいイドラから抜け出せない人たちだ。
結構な熱量と思い切った刺々しさで申し上げさせていただきました。
では、こりゃまた失礼いたしました。