本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

カラオケから派生して

 

 

どうもこんばんは。

 

それなりにやることが溜まっているのだが、いちいちが億劫で、ついつい本に手を伸びしまう。

何か一回ガス抜きをしようと1時間だけカラオケに行くことに。一人で気ままに歌って発散しようと。

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1時間だと足らず、結局30分延長することに。最近の曲から昭和の名歌謡曲まで思いのままに歌う。

歌いながらいろんなことを思い出した。

 

「夢見るバンドワゴン」は昔、アルコ&ピースがオールナイトニッポンをやっていた頃のテーマ曲だった。

アルコ&ピースのオールナイトニッポンは私にとって青春の象徴みたいなものであり、イントロが流れると「さてこの時間はアルコ&ピースのオールナイトニッポンをお送りいたしました」と、今までの茶番コントからスッと切り替えるチャンサカの声が聞こえる。

のちに、この番組のラジオリスナーを主人公にした小説「明るい夜に出かけて(新潮文庫)」が王道中の王道ザ青春小説なことも、この番組が青春の象徴になった理由なんだろうなと思う。

 

夢で逢えたら」は大滝詠一じゃない。そっちもすごく好きなのだが、前の曲がラジオ番組のテーマだったことで同じくラジオのテーマをもう一曲。こっちはくりーむしちゅーオールナイトニッポンのテーマ曲だ。今、調べてみたら2005年が放送開始だった。15年前だ。私は11歳だったらしい。これはリアルタイムでは聴けてなかったが、深夜ラジオにハマってから夢中でいろんな音源を探して聞いた。銀杏BOYZの青臭い、若さが泥に塗れてもまだ光っているような生命力がかっこいい。

 

「SUN」は「心がポキッとね」というドラマの主題歌だった。岡田惠和さん脚本、宮本理江子さん演出という「最後から2番目の恋」のタッグによるラブコメディだ。

それにしても星野源は売れたもんだな。昔、クドカン脚本、小泉今日子主演の「マンハッタンラブストーリー」でみんなが集うメイン舞台である純喫茶「マンハッタン」のバイト蒲生忍(あえての敬称略)が所属するバンド「少年レントゲン」でちょろっとだけ出演してただけなのに。人体改造された美少年ってなんだよ。

 

なかにし礼松本隆の作詞は本当に素晴らしい。

「グッバイマイラブ」のサビなんか本当に素晴らしいよな。

忘れないわ あなたの声

やさしい仕草 手のぬくもり

忘れないわ くちづけのとき

そうよあなたの あなたの名前

である。

声、仕草、ぬくもり、口づけ そんなものよりも名前を忘れないのだ。当たり前だが、あなたの“あなたの”名前と強調している。

メロディに合わせて文字数合わせただけだろうなんて野暮ったいことは言わないでほしい。

 

「壊れかけのRedio」もいい曲だ。

中学生の頃、これを聞いていたら、「レディオなんて格好つけてるけど、ただのラジオだからな」と意地悪く言ってきた奴がいた。嫌いになった。ただのラジオをカッコつけてレディオと言っているからこの曲が好きなわけではない。そんなことは曲の本当の良し悪しには関係ない。何言ってんだこいつと無性に腹が立った。

そいつとは高校まで一緒になってしまった。中学の同級生からは3人しか進学しなかった私の高校にこいつもきたのだ。とんだ確率だよ。

 

今週、ドラマ「SUITS シーズン2」が終わった。結構好きだったのだが、周りで評判を聞かない。みんな見てないのかな。

このドラマの主題歌がB‘zの「WOLF」だった。

中学の部活にB‘zが大好きだった同期がいた。副部長だった彼は部長だった幼馴染みと交際していた。ただ、この二人はなんだか私たちからハブられていた。夏のコンクールの打ち上げに、彼ら二人を除いた同期全員で焼肉に行った。みんなの携帯がほとんど同じタイミングで鳴り出した。各自の親から副部長の母親が亡くなったという連絡がみんなにほぼ同時に入ったのだ。その後、部長からのコールがそこにいる同期に順番にきた。ハブにして打ち上げをしている手前、みんなは同じ空間にいることが部長にバレないように順番にかかってくる電話の最中は声を潜めていた。全員に電話がきた後、一人がボソッと「それにしてもさ、こんなタイミングでお母さんが亡くなるなんて仮名も仮名だよな」と言った。ちょっとそれは母親が亡くなった人間に投げつけるには酷じゃないか、と思ったが、そのすぐ後で美味しく焼けた肉にタレをたっぷりつけて食べた私も同じ程度の人間性だったのだろうな。そのせいかB'zの一番の思い出がこんなものになってしまう。

 

って、おいおい、こんなもの書いてたら、仕事何もしてないのにこんな時間だぞ。

どうしようもないな。

 

ちょっと仮眠してから仕事するかな…。

いや、これは目覚めたら朝だね。いつ仕事するんだか。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

弾丸0泊深夜バス旅ー京都編ー第六部

 

どうもこんばんは。

 

いよいよこの旅記も6章まで来た。割りに時間が全然進んでいないのだ。それに何かエピソードがあるわけでもないから、ただ、見てきたものの事実の羅列に過ぎない。ユーモアのある文章、どこかに共鳴してしまう文章、そんなものが書けたらなと思いながら、程遠い駄文たち。

 

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第二部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅ー京都編ー 第三部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第四部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー第五部 - AM1:00-3:00

あまりにも長いと始まりが横浜発の深夜バスであったことを忘れてしまう。オンボロのサウナに入ったのなんかはるか昔のことのように思えてしまう。

 

清水寺を出て、次に向かうは四条河原のジャズ喫茶「ろくでなし」

それにしても「ろくでなし」一体、どんな由来でつけるの店名だろうか。私の記憶するところではジャズのスタンダードナンバーに「ろくでなし」なんて曲はなかったと思う。

 

先ほど来た坂を下って、大きな通りに出る。そのすぐ横には鴨川が流れていて、悠々とした水の流れは行きに見た鴨川そのものだった。しかし、この水は本の水にはあらず。そうだとして、見ている水は本の水ではないのだが、果たして見ている私はどうだろう。自分は数時間前の自分のままのような気がする。あれだけ川幅の広い鴨川のことだ、川上から河口まで、一度も割れない泡沫(うたかた)がよどみに浮かんでいるのではなかろうか。

 

四条河原駅の界隈は京都駅に負けない賑やかさを見せていた。京都駅の賑やかさは地元の人半分、観光客半分という輸入物の活気が混じっていて、よそ者の私も弾かれていない感じがした。四条河原にだって観光客もいるだろうが、私の気の持ちようなのだろうが、どこもかしこもネイティブ京都人だらけで、純京都産の熱気が渦巻いている気がした。神奈川県産の私はわっと押される。少し気を張っていないとすぐに自転車を漕ぐ足が重くなりそうである。見知らぬ土地であることも相まってか周りの熱気にやられ気味になっていた。

鴨川から一本外れると、これが京都でおわす、と言わんばかりの雰囲気をガンガンに演出した細い木屋町通りを歩いてみる。美味しそうなお店が並んでいるが、その雰囲気からも私には手が出ないことがわかる。贅沢がしたいわけではないのだが、せっかくなら、という気もしていたので残念。

 

さて、純度の高い京都の街をお邪魔したのち、お目当てのジャズ喫茶「ろくでなし」へ。

昼間の卑猥さを包み隠さずに看板に灯りを灯す風俗店とおしゃれなカフェと時代を感じる料理屋とが雑多になって、多種多様な人間の生活に多種多様に適応した結果にように多種多様な店が並んでいた。

きっと「ろくでなし」も多種多様の中の誰かの多種多様な欲求に適応するためにあるのだろう。地味なビルの2Fに静かにあった。

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HPでも確認したし、お店の看板を見ても確かに営業している時間のはずなんだが、重たそうな扉をいくら叩いても空っぽの音が響くだけだった。

仕方がないので、向かいのおしゃれなカフェに入る。このカフェは多種多様への適応を目指したような感じがしなかった。なんだか、誰にでも受け入れられることが目的で、多様の中の小さな需要には見向きもしないような無個性さが電飾にもメニューにもコーヒーの味にもソファにも染み付いていた。

 

無個性な空間にいても、過ごし方まで個性を殺されてたまるかと思う。お供に連れてきた本を読む。

明け方の若者たち (幻冬舎単行本)

大きな展開を迎えてから、転がるように主人公の苦しみが肥大化していく。一行読むごとに抱えきれない苦しみがズシリと胸にのしかかる。私の中の人生で一番苦しかった失恋と重ねる。何で京都の地で私のナーバスなところを意味もなくえぐっているのだろうか。これだけ人間がたくさんいる地で、私は本当に孤独になっていた。その中で小説を通して、昔の記憶を久しぶりに汲み出して、吟味したのは、こんな時間に意味もなく京都に来ているからこそだろう。

茅ヶ崎のいつもの喫茶店や自分の部屋では絶対にない時間であっただろう。非現実的であるが故の孤独がもたらしてくれた。

 

カフェを出て、鴨川沿いを京都駅の方へ自転車を走らせる。

昼食がまだなのと、午後の照り返しが暑すぎるのと、深夜バスの仮眠だけでは足りなかった睡魔がここにやってきたので、適当なお店を探して入る。

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鴨川に面して大きなテラス席をもつKAWA CAFE(http://kawa-cafe.com/)へ。

ピザというのは昼食にしかならないのではないか。そんなつまらない持論がある。

夕飯にピザというのは重量感が足りないというか、腹持ちが悪いというか。だから、近所にもラーメン屋、焼き鳥屋、寿司屋、中華料理屋、焼肉屋の行きつけはあってもイタリアンの行きつけというのだけがないのだ。そんなことを思いながら、食べた。

普段から食べつけないピザのこだわりなんか言われても私に分かるまい。

残り数ページとなったお供を読んでいる途中でうとうとしてしまって、気づいた時にはデザートのアイスがデロデロになってしまっていた。時間が経ったのか、京都が暑いのか。

 

最後に去年、上野でみた東寺の立体曼荼羅はみておきたいと思い、京都駅を超えた反対へと自転車を走らせた。

日が暮れて、やっと風が涼しくなってきた。雲の色も少し怪しくなってきた。

 

東寺が最後の見学地なので、次回が最後になるでしょう。

よくまあ、こんなに長々と書けたものだと自分でも思います。皆さんもよくまあ、長々と読めたものだと思ってください。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー第五部

 

どうもこんばんは。

 

振り返って記憶を残そうにも、もう1ヶ月以上昔のことになってしまった。こうなっては手帳のわずかなメモとたゆたう記憶、そして、かくなる上は想像力でもって穴を埋めるしかない。そうなってしまってはこれはもう創りものになってしまう。旅行記ではない。創り物ならば、途中でノーチラス号による天変地異が起きてもいいし、モリアーティ教授による完全犯罪に巻き込まれて、ホームズの鮮やかな推理の手助けをしたっていい、もしかしたら、隣を走る市街バスがいきなり形を変えて、二足歩行型のロボットになるやもしれない。想像力で埋める旅行記なら、それでもいいではないか、とも思ってしまう。

しかし、それにはそれで別な才能が必要になってしまうので、どうにも私には書けそうもない。仕方がないので、古くなった記憶をなんとか引っ張り出して書くつまらない旅行記で満足するほかなさそうのだ。読書の皆さんも、それでご勘弁いただきたい。

 

それから、もう一つ。

今飲んでる某チェーンカフェのコーヒーがすこぶる美味しくない。なんと香りのないコーヒーなことだろうか。

これでは筆が乗るかどうかわからない。いや、コーヒーが美味しくたって筆が乗ったことはないかもしれない。

 

前回がだいぶ昔になってしまったので、良ければここまでを読み返してから、続きをどうぞ。

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第二部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅ー京都編ー 第三部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第四部 - AM1:00-3:00

 

ただでさえ暑い京都の夏だ。

まして、長い坂を自転車で上がっていくなんて、生意気にも老いを感じずにはいられない。

時間はもう太陽が一番高いところに昇ろうという頃だ。暑さもひとしおな時間なわけである。目的地は清水寺

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お土産屋さんも閑散としていて、人もまばらな清水寺近辺。

ただ、日向が灼熱の坂を自転車で漕いで行く。降りるのはなんだか負けた気がするので、つまらない意地のためにヒラメ筋を酷使して、背中をぐっしょりと濡らす。

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坂の中腹の駐輪場に自転車を止めて、境内へ。

石畳の階段を上がって、仁王門をくぐる。その中から覗く三重塔。夏の生命力がみなぎる緑葉と建築物の朱のコントラスト。心なしか、そよぐ風の温度も湿度も灼熱の坂に比べて涼しげなものだ。

案内通りの順路で、豊かな緑の自然と歴史的建築物との融和の中を歩く。人工的な感じを思わせない境内の自然はいかにも日本の仏教感を感じさせる。

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そして、清水寺のシンボル、本堂。本尊は十一面千手観世音菩薩。その前には四天王、後ろに二十八部衆を従えている。

四天王というのは持国天増長天多聞天広目天による力強さが特徴の彫刻である。邪教から本尊を守ることを任務としている。たいていの寺院にあるのだが、ところや時代によって力強さや隆々とした肉体の違いがあり、比べるには面白い。

薄暗がりの中、古木と線香の香りが漂う中に凛として鎮座している仏像たち。写真や博物館の展覧会では感じられない、寺院でみることだけで感じる不思議な空気。千年以上昔に人の手によって掘られた繊細な彫刻からは、美術品としての圧倒的な美しさに、長い間人々の救いになった圧倒的な力も感じる。

広大な仏教の世界観に迷い込んだ時、本当に大切なのは、その世界が物理的に科学的根拠に基づいて存在するのかどうかではない。それがあると思うことで救われ、律せられる自分自身の在り方なのだと思う。宗教が古今東西を問わず、人々の苦しみの救いになったことは紛れもない事実なのだ。全てを化学式と数式にしてしまうことになんの意味もない。そうだ、と信じてそこに身を置いて心を鎮めることに浮かび上がる仏教美術の美しさと静かな力強さがある。そこに魅了されてから、寺院巡りが魅力的で仕方がない。

 

本堂から下って、音羽の滝の涼やかな水音を聞いて、はてなの茶碗を見て、阿弖流為の石碑を見て、お茶屋さんへ。

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木陰とコーラが心地よく合う。

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さて、寺院巡り、仏教美術の素晴らしさと再認識して、無理やり決行した弾丸0泊深夜バス旅の地を京都にして良かったと思いながら、観光客もまばらな坂を降りて、自転車にまたがり、まだまだ灼熱の勢いの衰えない京都の街に繰り出した。

 

どうしよう。

分量的にはここらで区切るのがちょうど良さそうである。

しかし、このあと四条河原に向かって老舗ジャズ喫茶に行き、鴨川沿いで遅めのランチをとって、東寺に向かう旅が続くのだ。

となると、この旅行記はあと2回くらいは続きそうなのだ。

皆さんが読むに堪えるだろうか。

 

と思うのだが、これを書く私の集中力が耐えれらないようなので、今回はここまで。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

映画「お名前はアドルフ?」

 

どうもこんばんは。

 

休みの日に映画を観に。なんか面白うそうなものを求めて、茅ヶ崎から本厚木へ。

相模線の車内で「ユリイカ 2020年10月臨時増刊号 総特集◎別役実の世界 ―1937-2020―」を読んでいると、相模線厚木駅を降り過ごして、仕方なく海老名で小田急線に乗り換える。

特に早稲田の演劇博物館の岡室さん、岩松了さん、ケラさんの対談が面白かった。別役実という人間が、劇作家が何を書いてきたのか、作品を観て、何となく感じて認識していたものが、みるみる言葉になってくる。認識が概念になって、すっと頭に入ってくる。また読み返したい。

 

そんな無駄な乗り換えがあったものだから、時間ギリギリに会場へ。

 

今回、観たのは2018年のドイツ映画「お名前はアドルフ?」

映画『お名前はアドルフ?』オフィシャルサイト

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ワンシュチュエーションで、繰り広げられる会話劇。

大学教授のシュテファンと国語教師のエリザベト夫妻宅にて催されるディナー。招待されたのは、エリザベトと幼少期を共に過ごしたクラリネット奏者のレネ、エリザベトの弟で実業家のトーマスとその妻で女優のアンナの三人。アンナのお腹の中には赤ん坊が。

楽しい夜のディナーショーはシュテファンの「子供の名前は?」という一言で徐々に徐々に加速しながら、真っ逆さまに堕ちいく。トーマスは子供の名前をこともあろうにナチスの総統ヒトラーと同じ「アドルフ」だと答えるのだ。

名前をめぐる論争はいつのまにか理屈を飛び越えて、滲みでてくる偏見、嫉妬、劣等感。誰にも言ってなかった過去の秘密までエグる始末。そのスピード感と見え隠れする人間味に90分間があっという間に過ぎていった。

 

間違いなく、会話劇の最高峰じゃなかろうか。

とんでもない傑作じゃなかろうかと思う。

 

世の中に会話劇なんか星の数ほどあって、傑作名作も山ほどある。

会話劇の面白さって何だろう。考えてみた。

 

人間には普段は表に出さない自分がある。それは「出さない」というよりは「出せない」と言ったほうがいいのかもしない。自分の目に映る色眼鏡を通した世界を誰が堂々と口にできるだろう。誰にも言えない妬みをSNSに晒すだけの勇気が誰を持ち合わせてのだろうか。

そんなものは口にせず、隠しておいた方がいい。他人の前では色眼鏡を外した景色が見えていることにした方がいいに決まっている。嫉妬なんかしていない自分が本当の自分だと、その方がずっと生きやすい。人は自分が本当に見ているもの、考えていることはずっと隠している。

しかし、白熱した議論に前にはそいつを隠し通すことは出来ない。

気づけば隠しておきたい本当の自分を武器として手に握って、相手に向けている。知られたくない自分で相手を攻撃し始めている。

徐々に明らかになる隠しきれない自分が滲み出た時、会話劇は一気にピークを迎える。引くに引けない自分の主張を押し通すため、相手に負けないように、さらなる隠しておきたい自分をさらけ出す。その泥沼に人間味を感じる。

着ていたセーターの毛糸をほどけば、みるみるうちに真っ裸になる。相手を刺すために自分の肉を削いで剥き出しの骨を突き刺してしまう。

 

今作はまさにそこが一番の醍醐味だった。

大学教授のシュテファンは無学のトーマスを見下している。そんなトーマスはシュテファンが両手で大事に抱える高価なワインを片手で投げるように手渡す。肌が艶やかで小綺麗で芸術家として四十歳を過ぎても独身で生きるレネの穏やかな人格にみんなは勝手な偏見を持ってしまう。

みんなそれぞれに隠して見せない偏見に、嫉妬に、劣等感がヒートアップする会話から滲んでくる。隠しきれなくなってくる。晒された自分に気づいた時にはもう遅い。互いに築いてきた信頼関係は大きな音を立てて崩れていく。晒した方が不幸なら、晒せれた方も不幸。知りたくなかった自分の妻とレネの真実を知った時に、トーマスは正気じゃいられなくなる。

みんながみんな晒してしまった自分に、晒されてしまった家族の秘密に自分の感情がコントロールできなくなった時、いよいよ我慢できなくなったエリザベトが声を上げる。

 

このエリザベトの長台詞がお見事。素晴らしい。

このシーンの終わりに思わず小さな拍手をしてしまった。

 

ヒトラー」をキーワードに伺える、ドイツ人と第二次世界大戦という過去の向き合い方は過去に「帰ってきたヒトラー」でも垣間見れた。戦場を舞台にするでもなく、戦火を逃げ惑う市民を主人公にするでもなく、それでも伺える戦争という記憶。

日本には見られない類いの戦後のための戦争映画ではないだろうか。

直接的な戦争は撮らずとも、戦後に生きる我々の中の記憶に沿って、その記憶から映される戦争。日本人とドイツ人の記憶の保存の仕方が決定的に違うことが明らかだ。

どちらがいいかということは議論を始めれば、キリがなくなるが、ドイツのような戦争との向き合い方があることは知っておく必要があるのではないだろうか。見たくない記憶をわざわざ遠ざけるような悲惨さだけの表紙をつけて飾っておくだけが、正しい記憶との向き合い方ではないだろう。

会話劇としての面白さだけでない。歴史認識を入り口に古い知性主義や権威主義、多様性の名の下に展開される身勝手な偏見。そこには多様性を認めるどろか排他的なものばかり。そこに戦争という負の歴史を投影されているのに感嘆してしまう。

 

人間が隠していたい自分とはどんな自分だろうか。

私にもそんな自分がいる。もちろん、私にはそんな自分は存在しない。

と、ここではそういうのだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

怠惰な休日、「MIU404」と「アンナチュラル」、爆笑問題カーボーイ

 

どうもこんばんは。

今日は一旦、京都の旅行記はお休みします。なんせ、1日のぶらり旅を長々と4回にも分けて書いてるもんで。

 

たまにはなんでもないことをいつも通りだらだら書いてみたいもんだと。

かといって、何か書きたいことがあるだろうか。

 

休みの日に起きて、動こうという気持ちとベッドから離れない体。

あれやって、これやって、ここにも行きたい、あれも読みたい、これも観たい、と思うものが消費できずに積もっていく。

消費しないのに新しい情報は入ってくるのだから、強まるばかりの動こうという気持ち。なんでか動かない体。

時間は過ぎていく。過ぎていくことに嫌気がさして、もういいやと時間を投げやる。投げやらた時間は不貞寝だったり、スーパー銭湯行ったり、と不毛に使う。

夜になって、今日一日何やってんだかなぁ…と目を瞑る。朝が来る。仕事だ。

 

ちょっと前に終わったドラマ「MIU404」

面白かったなんてことは今更私がいうまでもない評判だ。コロナで放送開始が遅れたものの厳しい条件下を一切感じさせない、最後まで面白かった。

このドラマそのものも十分に面白いのだが、脚本が野木亜紀子さんの作品だということを思えば、ことさらに面白い。

特に2018年の「アンナチュラル」の系譜を汲んでいるように見えてくる。

震災の触れ方、見えないものを見つける救い、という2つを二作品に通じるテーマを見た。特に最終回のシンクロ感がすごい。改めて「アンナチュラル」を見返して、共通点から“脚本家 野木亜紀子”について考えたいなと思いながら、「アンナチュラル」を8話まで見る。この後で「MIU 404」も見返そう。

 

爆笑問題の田中さんこと、ウーチャカのコロナ感染で、火曜の深夜は恐ろしいことになった。

1日の放送にアンガールズのお二人、8日の放送に伊集院光さん、15日の放送に劇団ひとりさん。

どの放送も太田さんの楽しそうなことこの上ない。そのテンションの高さに困っちゃうような楽しんでいるような代打の方々。そして、ひと段落すると、みんな口を揃えて「田中さんはすごい」と嘆く。

終始、笑え声が絶えない2時間だった。タイムフリーで何度も聞いた。

 

何を書こうということでもないのだが、いかせん、今雨が降っていて、ちょっと本読むくらいのつもりで入った喫茶店から出られないので、思いついたことを書いてみた。中身のなさはいつにも増して。何書いてんだろうな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第四部

 

どうもこんばんは。

さて、今回も思いつきの無計画で断行した京都旅の続きです。長々と書き連ねて、もう4回目。何を勝手に連載してるんだ、とも思うが、初回のタイトルに思いっきり「第一部」と書いているところを見ると、どうも確信犯らしいからたちが悪い。

 

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第二部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅ー京都編ー 第三部 - AM1:00-3:00

続きものになりますので、ぜひ順番にお読みください。読後には、だからなんだという虚しさで満ち溢れることでしょう。

 

さて、朝食も済ました頃にもなると、到着時分にはまだ涼しげだった京都もすっかり夏の装いだ。

神奈川を上回る暑さと湿度。聞きしに勝る京都の夏。

 

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1100円という1日乗りますには破格すぎるレンタル自転車を借りて、いざ旅を始める。

ちなみに、京都の観光地を回るバスと地下鉄の一日乗車券が900円。自転車はいくらか高いが、公共の交通機関だとダイヤの中で動かなければならないので、時間軸を外部に委譲せねばならない不自由が気にかかり、自転車での行動にすることに。

 

まずは、鴨川沿いに出て、清水寺を目指すことに。

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水面に写る空が夏の暑さを和らげる…ように写真では見えるが、現実は異なり。

いくら自転車を走らせても、いくら風を切っても、不快の中を突き進むだけ。不快の先はまた不快。なんせ暑いのだ。どこまで行っても気温と日差しが離してくれない。

 

ついで、五条大橋で鴨川を渡って五条通へ。

京都と言ったらやっぱり古の都のイメージがあるもんだが、五条通に出るとその車の多さに驚く。三車線を絶え間なく走り抜けていく車たち。なんだか、情緒ある旅を、なんて思っていたのに浸透し切った文明の色濃さに拍子抜けした。

しかし、考えてみると勝手なもんだと思う。

京都には京都の人の生活が当然あって、それは茅ヶ崎にある私の生活と変わらない訳だ。私は自分の生活にある程度の便利や快適さを求めている。ならば、京都の生活だってそれが求められているに違いない、という簡単なことを見失ってしまう愚かしい想像力の欠如。なぜ、京都の人間は観光客のために生活までかけなければならないのか、ちょっと考えればわかりそうなものである。

 

そんなことを考えながら、自転車は清水寺の手前、六波羅蜜寺へ。

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ここも好きなお寺の一つ。お寺の建物や境内にはそんな思いれはないのだが、まず立地がいい。狭い住宅街の路地をうねらせながら進むと、住宅地の風景の一部に現れるのがこのお寺。生活と密着したようなこんなところに国宝があるなんざ、お釈迦さまでも気がつくまい。まあ、実際はお釈迦さまがそこにいるんだけど。

 

ここで一番見たいのはやっぱり重要文化財の「空也上人像」

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浄土宗を身分に関係なく、庶民にも広めた功績が現代でも結構有名。彼が「南無阿弥陀仏」と唱えると、その声の一文字一文字が小さな御仏になったという伝説を彼の口先が表現したもの。

ちなみに初めてこれを見た私は、おそらく小学生の社会の教科書でだったと思うが、スポ根野球まんがを思い出した。

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そう、この一番左のやつ。そもそもこの漫画は全世代じゃないので、なんせこの漫画は1972年から81年連載だもの、一回も読んだことはないのだが、それでも絵面は知っていたのだろう、これを連想した。世代じゃない私だって連想するんだから、ドンピシャ世代はどうなのだろう。

あとは四天王像なども実に素晴らしい。四天王像はいろんなところにあるが、場所によって体つき、表情、さらには踏み付けている邪鬼の表情なんかまで全然違うので、見比べたりなんかするのも面白い。

 

で、また暑い住宅街を走らすことに。と思ったがどうにも暑くて仕方ないので、近くでコーヒーでも飲めないかしらとキョロキョロしてみる。

店先に瀬戸物を並べた古民家を発見。六波羅蜜寺からすぐのカフェ「sagan」

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一息ついて、アイスコーヒーで喉を潤し、抹茶のマフィンを食べながら、お供の「明け方の若者たち」を紐解く。

中盤に差し掛かっている。主人公とその思い出の人との隠されていた秘密に急に胸が苦しくなる。衝撃的な思いを揺さぶられて、ページをめくる指に鈍痛が走るような気がする。一旦、本を置いて、窓の外、陽光に眩しい京都の住宅街に目をやるが、このページを読む前の景色には見えないかもしない。同じ景色は見れない気がした。アイスコーヒーの味も違わないか?これ以上主人公に感情を添わせると、思い出さなくていい私の記憶に繋がってしまいそうで、必死に彼を突き放す。

 

気持ちを楽しい一人旅に連れ帰る。

ちょっとのつもりの寄り道がかなりの濃い時間になってしまった。

私たちは、と勝手に読者も巻き込んでしまっているが、そろそろ清水寺に行きたい。が、しかし、今日のところはお時間がいっぱい。

 

さて、次回は本当に清水寺に着きます。あわよくば、お昼を食べています。

本当かよ?という声が聞こえなくもないですね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

弾丸0泊深夜バス旅ー京都編ー 第三部

 

どうもこんばんは。

丁度一週間前、思いつきの深夜バスで行った京都旅の続きです。

3回目だというのに、やっとバスから降りたところです。なかなか進まない旅だこと。

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第一部 - AM1:00-3:00

弾丸0泊深夜バス旅 ー京都編ー 第二部 - AM1:00-3:00

よければ、こちらの過去の記事からどうぞ。

 

26日6時半。薄暗いバスの中で調べた京都駅近くのサウナ、サウナベルデクラブへ。

サウナ・仮眠施設・公衆浴場が京都駅からなんと徒歩1分

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調べていたサイトの明るさとは打って変わって、恐ろしく古いビルの中にあった。とにかく古い。

エレベーターに乗り込む。ジーっというモーター音がイヤホンのサカナクション越しに聞こえてくる。明け方のサカナクションとモーター音がうねらす不協和音。これが京都なのか、という不安がどことなく漂う。フロントの眠たげなおじさんにお金を払って、ロッカールームへ。

エレベーターのモーター音に続いて、ロッカールームに響き渡る流水音。音の多い建物だこと。天井の壁が剥がされて、剥き出しになった排水管。その排水管から漏れる水がロッカーの上のバケツに注がれる。いや、漏れるとか滴るとかいうレベルではない。もう注がれている音量だ。バケツの容量はあれで大丈夫だろうか?

まるで歌舞伎町の雑貨ビルの一角。抗争に敗れた任侠の事務所。いや、歌舞伎町に対する大きな偏見で、行ったこともないんだが。まさに想像するあれだった。

 

全裸になって階段を上がって浴場へ。

大きなお風呂と小さいお風呂、それに水風呂というシンプルな作り。シャワーのヘッドがなかったり、鏡にヒビが入っていたりとエレベーターからの期待を裏切らないオンボロな洗い場が並んでいる。どの洗い場にも必ず欠陥があるのではないかと思われる。ちなみに私が使ったのは、シャワーからお湯を出しているのに蛇口からも1/3くらいのお湯が流れているという種類の欠陥だった。シャワーの水圧2/3という強さは6時間深夜バスに揺られた私にはちょど良かった。

体も洗ったところで、まずは肩までお湯に浸かりたいと、大きなお風呂へ右足を入れた瞬間、その熱さは脳まで届かず、脊髄で反射した。そのお湯が熱いのなんの。ちょっと熱いなんてもんじゃない。どんなに頑張っても、我慢しても入れる温度じゃない。あれが京都のはんなり温度なのかい?とんでもない洗礼を受けた気がした。

恐る恐る小さいお風呂に足を入れてみる。こちらも熱いが、先程の大きい熱さに比べれば、頑張れば入れる温度だ。腰まで浸かってみる。肩までもうちょい、頑張れ、と気持ちを震わせてみるが、いや、お風呂って頑張るもんじゃねぇな、と気づいてしまいすぐ上がる。温度を確認しようにも、どこにもお湯の温度を知らせる温度計がない。

 

お風呂に入ることは諦めて、本題のサウナへ。

気持ちを切り替える。サウナに入りにきたんですからね、肝心なのはサウナですよ、エレベーターやロッカールーム、お風呂なんざどうでも良いんですよ、と落語「うなぎの幇間」の鰻屋で騙される太鼓持ちの心持ちだ。

肝心のサウナは温度と湿度が丁度良かった。これだこれだ、と気持ちを落ちつける。分厚いガラスの向こうのテレビでは朝のワイドショーが便利家電の特集をしている。好みのゆで卵がスイッチ一つでできてしまう家電に、アナウンサーはじめ、出演者が驚いている。卵なんかタンパク質の凝固温度60から65℃の温度で加減すれば、いくらでもできるだろ、なんて悪態をついていると、体から汗が滲んでくる。サウナというところは時間の軸が歪むようで、12分で1時間が巡る。なぜだか必ず12分計がどこにでもある。それがいくら探してみてもここにはない。12分計のないサウナは初めてだった。仕方がないのでさっき悪態をついた家電特集の左上を目安に時間を測ることに。

およそ12分経ったところで、水風呂へ。この水風呂が良かった。最高に良かった。

ここまでいかにここが古いかということにかなりの比重を置いて、目につく短所ばかりを書いてきたが、ここにきてその負債を返しても十分にお釣りが来るくらい素晴らしい水風呂だった。何が素晴らしいってその深さだ。立った時に水かさがへそ下5センチくらいの深さまである。こんなに深い水風呂は初めてだった。千鳥の大悟さんは「ブリは薄けりゃ薄いほど美味い」という名言を残したが、それに倣った「水風呂は深けりゃ深いほど整う」というものがある。本当にあるのか知らんが、少なくてもこの水風呂に入った時に私が作った。

 

サウナと最高の水風呂を繰り返すこと3往復。気持ちよく整う。正確にはこれが整おうというのなら、整ったという感じだ。

さっぱりしたまま休憩室へ。ここもまた、ホコリくさく、蛍光灯のいくつかが切れて点滅し、無造作に並べられた随分昔の漫画。この感じが、なぜだか落ちつく。ガタガタ揺れるソファで朝食が食べれる喫茶店を探す。8時半に受付で下駄箱の鍵を受け取り、モーター音が轟くエレベーターでビルを下る。

 

8時半ごろ。すっかり気温は夏の様をしている。

サウナベルデクラブから歩いて、10分くらいのところに見つけた喫茶店「MIWAKU」へ。

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昔ながらの雑多な喫茶店という店構えから好印象。気ままな一人旅のまったりした朝にはこれだよ、これこれと、一人旅の勝手な設定に浸りながら、お店へ。

案内された窓側の席へ。ブレンドコーヒーとホットドッグのセットを注文。

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サンダルをつっかけて新聞を片手に店員さんと世間話をしている常連のおじさん。真新しそうなスーツを着て、手帳に何やら書き込んでいる男性。地元に愛されてる感じが伝わってくる。

カップに半分残ったコーヒーをすすりながら、お供の本を開く。カツセマサヒコさんの「明け方の若者たち (幻冬舎単行本)」だ。主人公とその思い出の人との眩しい時間にジンとする。

さて、区切りのいいところで本にしおりをは挟んで、先ほど立てた予定を軽く確認する。京都駅付近でレンタル自転車があるらしいのでそれを借りることに決めて、貸し出し場所に向かって会計をする。

 

と、その前にこの日は給料日の翌日。

家賃やら生命保険やらの引き落としがあるので、引き落とし用の口座への入金を済ませなければならない。こんな日でも二つの銀行を行き来せねばならないのだ。茅ヶ崎ならば行き慣れた二銀行間も初めての地では右往左往。イレギュラーな1日に水を差すかのように日常が差し込まれる。

そんな雑務をすまして、自転車を借りたところでやっと弾丸京都観光が始まる。

 

10時を回った頃には太陽がギンギンに照らす。

これからさらに暑くなるという京都の街に自転車を走らす。

 

やっと京都旅らしい話になるのだが、随分と長く書いたので今日のところはここまで。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。