鑑賞ノート「恋人はアンバー」
どうもこんばんは。
なんか立て続けに、観ただの、読んだだの、と言う感想系駄文が続くと、あまり思考していない気もする。しかし、観てしまったものは仕方ない。それに今年はそれを言語化していくと決めてしまったので、多少なりとも書かないといかない。なんせ今年は「やりきる」と言うことを目標にしてしまったのだ。
小田急片瀬江ノ島線沿いにある小さな映画館、シネコヤ(映画と本とパンの店「シネコヤ」)にて、「恋するアンバー」を鑑賞。
この映画を観たくてというよりも、シネコヤに行ってみたいという好奇心の方が先行して、たまたまやっていたものを観た。
得てして、欲しいものが本当に欲しいものとは限らない。
でも、大抵の場合、出会ったものの中に欲しいものはすでにあったりする。
まさにこの映画がそうだ。
今の時代に、レズビアンのアンバーとゲイのエディによる偽装交際の青春譚なんて、陳腐でありふれた物語だ、そんな風にたかを括りながら、小さな、でも、その小さな空間に不釣り合いな大きさのスピーカーが2つも備えた空間の、これまた不釣り合いなふかふかなソファーに座ってフィルムが回り出すのを待っていた。
世の中で自分の生きる環境を作るのは難しい。でも、なんとか生きないといけない。息苦しいのはごめんだ。
自分が生きるための環境を作るのはしんどいし、強さがいるし、その強さだけが物語として、映画やドラマになる時代が一昔前にはあった。
おそらく、その強さに酔いしれる人がいる一方、その強さを押し付けられること自体が息苦しい人もいたに違いない。
自分が生きていく環境なんかどんなふうに見つけたって、いいはずだ。その人がここでなら生きていける、と思えるならば。
偽装交際を解消した二人は高校卒業後、それぞれの道を行くことになる。
レズビアンのアンバーはパートナーを見つけ、それを母子家庭の母親にカミングアウトし、少しづつ環境を変えていく。
一方のエディは、なかなか周囲に自分のセクシャリティを打ち明けられず、父親の期待を背負って軍に志願する。軍学校に向かうエディにアンバーは今まで貯めていた貯金を渡して、逃げるように背中を押す。自分の生きるところは自分で決めればいいと。
アンバーの強さは自分の環境を変える強さだけでなく、逃げることを肯定する強さでもあった。
エディにとってこの街から逃げるとは、自分のセクシャリティを受け入れることでもあった。それは、もしかしたら、本人にとって何よりも怖いことなのかもしれない。
アンバーの強さは彼女が生きるための環境を変えるだけでなく、エディに自分自身から逃さず、環境から逃してあげる、そんな強さだったのだと思う。
ジェンダーについて話題に上がりやすい今の時代を切り取ったようで、時代を問わない、人間が持つ強さの本来のあり方に迫った映画だったように思う。
たまたま出会ったこの映画は、ひねくれた強さがまかり通る時代にやるせなさを感じていた私が、一番触れたかった本当の強さの物語だった。
では、こりゃまた失礼いたしました。