私の東急本店
どうもこんにちは。
書く時間と投稿する時間とを考えて、冒頭「こんばんは」と「こんにちは」とを使い分けたりなんかしている。しかし、考えてみれば、どちらが正しいかを決めるのは書いてる私ではなく、読んでいる皆さんなわけで、こんなことを考えるのに使う時間は取り越し苦労だ。
5日の深夜、オードリーのオールナイトニッポンで若林さんが閉店した東急本店について語っていた。
売れない20代、「もう戻りたくない」とまで語る時代、彼はBunkamuraの映画館でバイトをしていた。
割高な東急のデパ地下惣菜を尻目に、屋上で過ごした休憩時間。
自分が食べることはないだろうと腐りながら、眺めるだけだった鰻屋。
息苦しいあの街で、唯一穏やかでいられた本屋。
青く、濃く、彼の原風景のような時間を過ごした東急本店。
文化が発信される渋谷の街はオードリー若林さんを弾く街だった。そんな街で唯一、受け入れらたように感じた場所が東急本店だった。
その閉店に際して、若林さんは渋谷に赴き、写真を撮り、一礼してきたと、いつものフリートークのトーンで若林さんは語る。
20歳前後の頃、私は小田急相模原のガストに入り浸っていた頃がある。
高校の頃からの腐れ縁と明け方に入って、モーニングを頼む。夜勤の人と早番の人が入れ替わり、ランチのピークが始まる。早番と遅番が入れ替わる。
この店が三交代制のシフトであることを客席から眺めるくらいに入り浸っていた。
あの頃、一緒にいた腐れ縁は、高校生の頃から目指していた教員になる夢と、バイトをして目覚めたコンビニ業界とで揺れていた。
教員免許の取得がかかった、奴にとって大切な授業もこのガストで切った。その後、海に行ったんだと思う。
私が唐突に独り暮らしを始めようと決めたときも、奴とこのガストに来た。
不動産屋が開く10:00に、このガストから内見の電話をした。
あの頃、阿部寛はロケットを作り、有村架純は慶応を受験していた。平日のお昼にサングラスを見れなくなった頃だった。
最近、阿部寛は武田信玄になり、有村架純は松潤と結婚した。平日のお昼はハライチになった。
久しぶりに小田急相模原で降りると、信号渡ってすぐのガストは薬局になっていた。
外装のレンガ模様にうっすらとガストの跡が見えた。
若林さんが東急本店の閉店に挨拶に行ったというエピソードを聞いて、このガストがなくなっていることを知った日の衝撃を思い出した。
私はこのガストの最後に立ち会えなかった。無くなることがあるなんて思いもしなかった。気がついた時に、帰る場所がなくなっていた。
あの頃に戻りたいかというと、そうとも言えない気がする。意外と苦しい事が多かった時代だし、思い出すと息苦しい失恋もした。
でも、確かに私はあの頃を過ごしたんだ、という証のような、物理的に残る形のあるものが消えてしまった事が、思いもよらず私にはショックだった。
若林さんの東急本店に比べると、恥ずかしいくらい卑近な話を思い出した。
では、こりゃまた失礼いたしました。