鑑賞ノート「大竹伸朗展」
どうもこんにちは。
木曜日、Twitterを眺めていたら、かねてより気になっていた「大竹伸朗展」が日曜日までと知らされる。
金土日、仕事で行けないとなると、今日行くしかない。
気にしていただけで行かなかったのは、どこか気の進まないところがあったからなのか、しかし、最後の機会で出くわすというのはやっぱり何か縁があるのだろう。こういう縁は無下にしないに限る。
ダウ90000の蓮見さんがラジオで話していて、彼に勧められた佐久間さんもラジオで話していて、大好きな二人が話していたので気に止めていた展覧会だった。
結果から言えば、行っておいて大正解だった。
効率や生産性に追いかけ回されて、心底、楽しんで生きることをやめて、必死に物を捨てる行為になんとか支えられながら生きている人種がいる。
追いかけ回されることを気に止めないことが一番効率的だと思うのだが、それがわからない人間はその行為のことを断捨離と名付けて、その体裁を整えているのだ。
大竹の作品は「物質」と「時間」という私たちから切っても切れない絶対的な物理から生み出される。
これらはまさに断捨離の対象となるものたちだ。物質として何かを残すことは最低限に留められ、形而上の過去は葬られる。
人間の営みへの反逆にも思える断捨離に真っ向から否定するかのような作品が並んだ。
我々はものに囲まれて生きていく。
活字をタブレットで読むことがどれだけその醍醐味を奪っていることか。
存在しない空間に存在している錯覚を意図的に起こすことがどれだけ愚かしいか。
こんなもに輝く未来を見据えている人間がいることが信じられない。
読書の醍醐味と紙媒体としての質量、体積をデータ化し、節約することとを天秤にかけて、後者を取ることが多数派になりつつある、このパラダイム禍において、その禍に、警鐘を鳴らす作品群は、今にこそ、見ておくものだと思う。
ただ、私は思うのだ。
この展覧会がパラダイムに抗う少数派の慰めで終わらないでほしいと。
人間の生活の営みを蔑ろにしようとしている、それは自覚のあるなしに関わない、多数派の人間にこそ届いてほしい。
そこにある「意味のない物質」と「蓄積された時間」による爆発的なエネルギーこそ、あなたたちが切り捨てようとしているものであり、私たちに無くてはならないはずのものだったのだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。