本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

「俺の家の話」最終回 ー対置される不在と存在ー

 

どうもこんばんは。

 

気がつくと3月が終わって、それと心中するように今クールのドラマも最終回を迎えていく。

とうとう終わってしまった「俺の家の話」も例外ではない。

 

クドカン作品として、今までを凌ぐ傑作だったために考察や論考が色々と出回っている。とても素晴らしいものもあったので、今更私が書くこともあるのだろうかなんて思うのだが、一応、誰も手をつけていないだろうと思われるところを掘り下げてみるつもりでいます。うまいこといくものかしら。素人の駄文ですから、拙さには目を瞑ってください。

 

クドカン作品は相容れない二つものを組み合わせるところから物語が始まり、それを超えたところに物語の結末があるんだ、ということは前に述べていると思います。

2021年1月クールのドラマ、クドカン多め - AM1:00-3:00

今作の「能」と「プロレス」という相容れない組み合わせについても、方々で私なんかよりもずっと立派な方がおっしゃっているので、とかく申しません。言いませんけど、「能」と「プロレス」の相反する側面のうち、私が大きいと思うところで、まだ、どこでも読んでいないものだけ、一つ紹介させてください。

出典が不確かなところも、習っていないから致し方ないと、門前の小僧同然の素人ですから、許していただきたいと、前置きをして。

 

昔、鷲田清一さんだったか和辻哲郎さんだったか、或いは全然違う方だったかが、能の能面について言及していて、面白いと思った考察がありました。

簡単にいうと、能面の大きな役割は表情を奪うことである。人間が言葉の次に他者との伝達において依拠している表情を能楽師から奪うことで、観客は能楽師の「身体」から必要な情報を得なくてはならない。そのために、能において、身体が表している「型」はその重要度を増すことになる、という趣旨のものでした。

一方、今作で「能」の対局に置かれていた「プロレス」。このプロレスのシンボルとして登場していたのが本人役の長州力さんでした。「飛ぶぞ」などのキラーフレーズを持つらしい(というのも、私はプロレスに疎いので調べただけなのですが)長州さんですが、そんな長州さんが放ったキラーフレーズの中で、最近話題になったのが「形変えてしまうぞ、この野郎」です。詳しくは割愛しますが、「相席食堂」という千鳥さんがメインMCの番組内での発言でした。このシーンは私にも記憶があります。なんせこの番組のファンなものですから。この発言をモチーフしたパロディは最終回の葬儀のシーンで「車の形が変わってる」という形でも登場します。

おそらく、偶然でしょうが、「型」を重要視する「能」の対局に「形を変えてしまう」長州力さんをシンボルとする「プロレス」が対置しているのは私には何かあるような気がします。

 

なんていうのは、結構こじつけですし、強引なので、余談です。

 

しかし、鷲田さんか和辻さんかがいう「能面」を通して次のようなキーワードが浮かび上がるような気がします。それは表情を失うことによる能楽師の「不在」です。

能楽師はその存在を能面の裏に隠します。だからこその「型」への依存なのです。

 

それが何かというと、今作「俺の家の話」というのは主人公観山寿一(長瀬智也)の「不在」の物語でもあったのではないかと思うのです。

寿一の「不在」を物語るシーンはいくらか例を挙げることができます。

幼少期の回想で、寿限無とふざけ合う寿一。門弟が叱りにくるのはいつも寿限無ばかりで、寿一は叱られたことがない。あのシーンでは寿一は叱られないどころか門弟に見えていない、つまり寿一が「不在」であるかのような印象を受けます。

そして、寿一は父親と唯一言葉を交えることができたプロレスの道へ進み、自分から観山家を離れます。父親に近づこうとするがために、父親の元から「不在」の状態となったわけです。

このドラマはそんな寿一が帰ってきたところからを描いたものでした。しかし、帰ってきたからといって、寿一は存在したかというと言い切れませんでした。

その理由はさくらをして言わしめた寿一の「自分のなさ」です。家族のために、オヤジのために、とさくらに頭を下げる寿一にさくらが言うのです。

この「自分のなさ」は各エピソードのきっかけになっていたような気がします。つまり、寿一の「不在」が物語の通奏低音として、物語を進めていたのです。

寿一の「自分のなさ」はさくら(戸田恵梨香)とユカ(平岩紙)とが直接的に「寿一くんには自分がない」というやり取りをするシーンも見られます。それにその二人は「観山寿一」を好きになったのではなく、「ブリザード寿」と「世阿弥スーパーマシン」を好きになったのです。そこからして、さくらと寿一、ユカと寿一の関係において、本来の寿一の「不在」から始まった関係と言えます。

そして最終回。信号に引っかからずに、藤田ニコルと遭遇して、死を直感した寿三郎(寿三郎)はエンディングノートに並べた「数の子一本食い」を寿一に譲ります。寿三郎は自分が数の子を譲ったことで、死まで忌避して、寿一が代わりを被ったと考えます。人の死を引き受けるということも寿一の「不在」故のことだったと思えます。

 

そんな「観山寿一の不在」が最終回でいきなり物語の前面にわかりやすく出てきます。それが寿一の「死」です。大晦日の試合にて、物理的に寿一は「不在」となります。

しかし、死んだはずの寿一が、「隅田川」の本番中の寿三郎の前に現れる。これは認知症の寿三郎の幻覚だったとも言えるし、世阿弥と元雅との議論を引っ張り出した時の「会いたいから会いにくる」と意思表示をした寿一の思いの強さだったとも言えるでしょう。どちらにしろ、本番中の寿三郎を通して、寿一が存在している。

つまり、最終回に来て、物語の基礎にあった「寿一の不在」が寿三郎を通しての「寿一の存在」と対置されるのです。クドカンの伝家の宝刀です。

そして、「不在ー存在」の相反するものを寿三郎の「人間家宝」という言葉によって超えていくのです。

この物語は「能ープロレス」という表題的な相反する対置を超えるのではなく、もっと普遍的な「不在ー存在」と言う対置を超えていく物語だったのではないかと思うのです。だから、過去作にないほどの考察が論考が溢れるほどの素晴らしい作品だったと思うのです。

 

「人間家宝」という言葉によって、ずっと褒められずにいた寿一は初めて寿三郎に褒められます。褒められて浮かない顔をする寿一。褒めるということは終わるということだったのです。これはしょうがないのです。何故なら、「そういうことだから」

 

物語は寿一が語る「俺のいない俺の家の話」で幕を閉めます。寿一の不在でドラマはエンドロールへ向かいました。

 

こんなに長々と本当に読み切った人がいるのかしらというくらい書いてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいです。

でも、好きなドラマだったので、誰に笑われようが書きたいことが書けて、私は満足です。

私の満足のためにすいませんね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。