本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

評論家と選書

 

どうもこんにちは。

 

評論家を入店お断りにしたラーメン屋が話題になった。

面白そうだなと思って色々と読んだりしてみると、どちらも馬鹿馬鹿しくて考えるのを嫌になった。

 

まずもって、問題となっている「H氏」に評論家という肩書きを充てがうのが間違いなのだ。

批評するということは、そこからは主観的な好みを排除して、客観的な評価を、これまた客観的な根拠をもとにして価値づけを行う行為のことである。好き嫌いの話をしているのではない。

まるで評論家というレベルで話をしていない。こんな色々読んで、時間を無駄にした。

数多のラーメンを食べている人間だからと言って、客観的な価値づけができるわけではない。それはその人の文章を読めば、容易に判断できる。失敗せずにラーメン選びをしたい人と言うのは、そんな簡単なことも見抜けないのだろうか。生き急ぎすぎではないか。

 

結局、最近ずっと思っていることだが、短絡的に情報を得ることを良しとして、失敗するという非合理を排除することを前提とした考え方が蔓延っているんだな、と嫌気がさした。

失敗したり、間違えずに、自分の好みが見つかると本当に思っているのだろうか。その評論家が評価したものの中に、自分の好みが見つかるなんて、本当に思っているのか。そんな人間が語るお気に入りは見つけた気になったお気に入りだ。妥協して見つけたお気に入りだ。どこが好きで、何がいいのかなんて自分の言葉で語れるわけがない。そうなると結局「評論家の〇〇さんも評価していた」という、どうでもいい、もはや本人に帰属すらしていない理由が口から滑り落ちる。

自分の好みも見つけられない中途半端な人間たち。その中でも踊りの上手な人間をエセ評論家に仕立てて踊らせている。

 

じゃあ、評論家は要らないのか、というそんなことはない。

元来、評論家は一般に向けられたものではない。ラーメン評論家はラーメンファンのためにいるのではない。ラーメン屋のためにいるのだ。演劇評論家は演劇ファンのためにいるのではない。戯曲家、演出家、役者のためにいるのだ。

このことはもっと深く考えたいと思うのだが、今のところは荒削りでしか考えられていない。

考察することを考察すると 〜東京ポッド許可局を聞いて〜 - AM1:00-3:00

1ヶ月前に書いたものだけど、これがこのテーマを考える上で、今後の柱になるだろう考えだ。

 

で、こんなことはどうでもよろしい。

こんなことを考えるのは今に始まった話ではないし、私がこんなところでこんな字面を並べたところで、エセ評論家とそれに妥協する中途半端な人間が減るわけではない。

 

なんでこんなに今日は毒が強いんだろうか。

 

台風の金曜日。仕事があまりにも暇すぎて、休憩を2時間も取った。豪風と豪雨の中、近くのデニーズまで本を読みに出かけた。外山滋比古さんの「読みの整理学」を読了した。

その週末、SNS自己啓発本ばかりが挙げられた読書100選が話題になった。

どれも読んだことないものばかりだし、本屋で手に取ることもないだろう本たち。誰が何を読もうが関係ないが、あまりに偏りすぎて気色悪い。かく言う私が100冊選んだとしても、きっと偏ってしまう。みる人から見れば、気色悪いことだろう。

 

ただ、読書とは「読む」とはどう言うことか。

「読みの整理学」を読了後、自分の読書のあり方を考えていた私には、ちょうどいい足掛かりとなった。

外山滋比古さんがこの本で一貫して言うことは、「未知を読むこと」がいかに難しいか、しかし、それこそが読書の醍醐味であることを説いている。読んでいることの大半は「既知」であり、それを繰り返すことは足踏みをしているにすぎない。それだけ手を大きく振って、足を上げても足踏みではどこにも進めない。

じゃあ、どうやって「未知」を読むのか。どうしたら、読めるようになるのか。結局は昔ながらの「読書百遍」によるしかないという。

昔、四書五経を意味もわからずに、素読していたように、自分で咀嚼できない文章を何度も読むことである。そのうちに暗唱して、体に染み付いてくる。それをも通り越すと、メタ的理解の域に到達するのだ。そこへの到達こそが「未知」を読むことの本質的目標なのである。

 

タイトルを見て、内容が容易に想像でき、実用的な何かを習得することだけが目的の読書は、おそらく到達できないであろう境地である。時間も体力も使って100冊読んで、それでも足踏みでしかない100冊ならば、前には進めない。

どう考えても、私にはいっこうに悟らない滝修行にしか思えない。滝修行をするならば、悟りを開けるものがいい。つまり、未知を読むことへの挑戦だ。似たような自己啓発本を数多読んで、既知の再確認をしても仕方があるまい。

 

知らないものをもっと知りたい。

わからないものをわかりたい。

私は短い人生の中で、限られた冊数の本しか読めない時間の中なで、選書はゆめゆめあなどれまい、と既知のことを再確認した。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。