本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

桜桃忌2021

 

どうもこんにちは。

 

先月の第3土曜日、6月19日は太宰治の誕生日であり、玉川上水で心中した死体が引き上がった日であり、一般に彼の作品に由来して、「桜桃忌」と呼ばれている。6月に旬を迎えるさくらんぼの一粒一粒が燃えるように紅く実る様が、太宰の短編作家として生涯と重なるとして、彼の晩年の名短編をして、太宰と同郷で三鷹在住だった今官一によって命名されたらしい。

 

太宰治の作品を愛読している者として、毎年、桜桃忌には三鷹禅林寺の墓前に手を合わせに行くことにしている。

からしきりに小雨の降る今年の桜桃忌は、太宰の生きた38年にぴったりな肌寒い朝から始まった。

 

この日は私の大切な友人の結婚式もあり、11時には横浜に着いていないといけないので、朝は5時58分に茅ヶ崎を出発する電車で三鷹へ向った。この結婚式のために新しく新調したスーツや靴やら、太宰の墓前に向かうには似つかわしくない荷物を抱えて、東海道線の1号車のボックス席に座った。

土曜の深夜ラジオ、「東京ポッド許可局」で紹介していたファミリーマートのアイスコーヒーを窓枠に置いて、太宰の全集の一冊のページをめくる。読む作品を決めていたわけではないので、10冊ある全集のうちで一番綺麗な8巻がカバンに入れてあった。収録されている作品の中で一番好きだったのは「トカトントン」だったが、知っているものを読んでも仕方がない気がしたので、「庭」という短い短編を初めて読んでみた。

疎開中の曰く付きの長兄との庭を手入れしたというだけの他愛もないエピソードだった。

 

それから、1994年の全日本吹奏楽コンクールの課題曲「饗応夫人」をYouTubeで探して聞いてみる。太宰の短編をモチーフに作曲されたこの曲は、私の生まれた年の課題曲で、発表された当時はとんでもない衝撃作だったんだと思う。なんせ難しいし、長い。課題曲、自由曲合わせて12分間の持ち時間の中で、7分という時間は自由曲を5分で演奏しなくてはならないということだ。どうでもいいが、この年、関東第一高等学校がこの曲と「カンタベリーコラール」で見事な金賞を受賞している。久しぶりに吹奏楽作品を聞いてみようなんて思ったのは、おそらく太宰がきっかけではなく、この後の結婚式の主役が吹奏楽で出会った友人だというのがあったのかもしれない。関東第一の課題曲、自由曲と続けて聞いたところで東海道線新宿駅に着いた。

 

新宿で中央線に乗り換えて、そこからは15分。久しぶりの都会の車窓を眺めているうちに三鷹に到着。7時20分。

 

太宰が眠る禅林寺三鷹の駅から歩いて15分くらい。墓地の開門は8時なので流石に早く着きすぎたことを少し後悔しながら、お寺まで歩く。傘を差すほどではないが、閉じてある傘を持ち歩くのも邪魔くさいので、差してあることにした。

門の前は工事中で、フラフラしている私に交通整備の人が「太宰のお墓ですか?」と声かけてくれる。さすがに今年で六回目くらいになるので奥の地下道みたいなところを通らないと行けないことを知っているのだけど、せっかく声をかけてもらったのに悪い気がして、知らないフリして教えてもらった。

墓地が開門するまでの間、山門を行ったり来たり、境内をフラフラしていると、禅林寺黄檗宗のお寺であることなどを知る。

 

山門の外の駐輪場に一台の自転車が止まる。ヨレヨレの黒いスエットとトレーナーを着た初老を過ぎた頃と思う男性が、右の後ろポケットにカップ酒を入れてやってきた。私が本堂を覗いている束の間に墓地が開門していたようで、初老の男性の背中を追うように太宰の墓前へ。

先に墓前へ着いていた男性はカップ酒の半分を太宰の墓石にかけると、手を合わせ、取り出したタバコ二本に火をつけると、一本は墓前の香炉へ、もう一本を咥えながら、残った半分のカップ酒をあおった。

前日供えられたらしい桜桃が数パック並んでいた。

 

一服終えた男性が降りてくると、私に譲ってくれた。

下戸で喫煙習慣もない私は男性のように供えるものも持っていないので、とりあえず手を合わせて、墓を眺めた。お墓参りの時間というよりは小雨に濡れる時間だったという方が似つかわしい長い3分だった。

お墓を降りると、さっきの男性の手にするカップ酒はもう一口二口ほどしか残っていなかった。

 

「去年はね、土砂降りだったんですよ」その男性は唐突に私に話しかけてきた。

「私ね、この裏あたりに住んでて、もう10年くらいかな、一番ノリなんですよ」と二本目に火をつけて、「ここ15年くらいかな、三鷹が太宰のことを言うようになったのは。まあね、死に方が死に方だからね、三鷹の人たちも『太宰なんてけしからん』ていう感じだったんじゃないですかね」

それから、その男性が生前の太宰の関係者と酒を酌み交わしたことがあることなんかを話してくれた。

雨が強くなってきて、私は先に太宰のお墓を後にした。

 

それから、横浜に向かうまで、少し時間があったので、三鷹の駅前の喫茶店リスボン」で朝食をとって、結婚式へ向かった。

雨は少し強くなっていたので、スーツを持つ肩が濡れていた。

 

三鷹駅に帰る途中、玉川上水のほとりを歩いてみるが、草が生い茂っていて、戦後最も尊敬している文士を飲み込んだ水の流れは見れなかった。ただ、とても二人の人間を飲み込めるほどの水の勢いがあるようには思えない。穏やかさのような気がした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。