サイゼリヤは爆笑の太田さんより燃えている
どうもこんにちは。
久しぶりにサイゼリヤに来ました。
ここのところ、ずっと来たかったレストランの一つです。
なんせ、サイゼリヤはちょくちょく話題になるが、その度にサイゼリヤの味がピンと来ないのがもどかしいのだ。
私はサイゼリヤよりもガストで学生時代を過ごしてきた。
これで1500円とは破格すぎる。
サイゼリヤというとたびたびTwitterで炎上しているのを見かける。
ある時は初デートでサイゼリヤはうんたらかんたら、なんてどうでもいいことで炎上していた。
こんなくだらないことに時間を割いてまともに考えることもないが、色んな意見を読んで私が考えたことは、そもそもデートの定義を曖昧にして出発しているから話がややこしんじゃなかろうか、なんてことだ。
ある人はデートを男性が女性に対して見栄を張ったり、格好をつけることを前提にしている。
そういう「男性頑張り至上主義デート」(仕事帰りの疲れた脳みそではこんなしょうもないネーミングがやったのです)を考えている人からすれば、確かにサイゼリヤはナンセンスかもしれない。
それはサイゼリヤが美味しいとか普通とか値段の割にはとかいうことではないのだ。
他方、デートは2人である時間を楽しむものだとすると「時間共有至上主義デート」の側に立つ人もいる。
こちらの側は2人が楽しい時間を共有することが目的なので、何を食べるか、どこで食べるかはそこまで重要にならない。ましてや、いくらのものを食べたかなどもってのほかである。
そういう人からすると、デートにおいて、支払い金額が問題に上がること自体がナンセンスなのだ。
つまり、この問題はサイゼリヤを起爆剤にして、デートのあり方、ひいては恋愛のあり方を論争していたのではないかと思う。
ただ、その次元での発言は少なく、しょうもないような意見が多く、論争の本質が雲隠れするのがTwitterのいいところだ。
イタリア人もサイゼリヤの味を認めてるなんてツイートを見たときには、流石に雷雲に隠れすぎだろうと笑ったものだ。
それから程なくして、つい最近またサイゼリヤで話題になったツイートがある。
サイゼリヤのオーダーが記号の記入式になったことに対して、「寂しい」というツイートが一部の人に「サイゼリヤ批判」と解釈されて炎上したのだ。
このツイート主は私も度々著書を読ませてもらっている哲学畑の学者だ。このツイートは当然、サイゼリヤのオペレーションにどうのこうのではなくて、記号に支配されつつある「疎外論」に関してのツイートだった。そのことを踏まえて引用リツイートにざっと目を通したところ、彼のツイートに寄せられた反論は以下のタイプに分けられる。
①純粋にサイゼリヤ批判と解釈しての反論
→提供価格に対してサービスを求めすぎだとする意見や仕舞いにはツイート主が過去に松屋に行った時のスクショをあげて、「券売機ならいいのか」と鬼の首をとった気でいる人もいる。
②外国人従業員や障がいのある方に対して優しいオペレーションだとする反論
→吃音や聴覚の障がい、日本語が不得手な外国人など客と従業員の間でオーダーを記号化することで意思の疎通が滞りなく計れるようになるじゃないか、というちょっと優しい意見。
③哲学をTwitterで振りかざすことに対する衒学的だとする反論
→ツイート主が「疎外論」に関してツイートしているということは気づいている。その上で、Twitterでサイゼリヤを名指しして哲学の話をしていることに対して物申している。
大まかに分けると上記の3通りである。
①に関して言えば、ツイート主の言わんとしていることが全くわかっていないので、お呼びでない感がすごい。
②について。ツイート主はオペレーションそのものを批判しているわけではない。オペレーションが採用されるに至る根底にある記号からの支配に関して言いたいのである。
一番時間がかかるのが③に関してだ。
哲学者が哲学の話をすることのどこが衒学的、つまり、自慢げであるというのか。それがTwitterという場であっても話は変わるまい。もちろん、ツイートを見る人の中には哲学に精通している人もしない人もいる。「疎外論」と言われてピンとくる人も来ない人もいるだろう。私もうっすらくらいにしか説明できない。
だからといって、これを踏まえて、Twitterをやっている全員にピンとくる話題だけを提供しなくては衒学的と言われてしまうのか。そういうあなたの「衒学的」という小難しい単語の選択だってペダンチスムではないか?
なんて言っている私の「ペダンチスム」だってどうだろうか。
仮に衒学的だと受け止めた人はこの流れに参加しなくてはいいではないか。ツイートの全てがその人のために向けられたものではない。時には「お呼びではない」精神でスルーしていくことも必要だ。
それでもスルー出来ないならば、その人がちゃんとツイート主のフィールドに乗っからなければどうしようもない。
そのためには、疎外論について勉強したり、考えたりすることが必要だ。時間も体力もいる。お呼びでないフィールドに参加しようと思ったら、必要な労力に違いない。
それを充てがえない人は参加すべきではないのではないだろうか。
衒学的だと感じたら、食らいつくか引き下がるかしかのどちらかしかない。衒学的だと否定して、場違いなフィールドにひきづり込むのはナンセンスだ。
その点で③が一番このツイートに対して呼ばれてない。
世界に発信しているものであるから、世界中の人を相手にしているようで、実は頭の中では顔が想像できる範囲くらいの人にしか向けられていないではないかと思う。なんでも自分に向けられた気になってしまうのは何か弊害を生んでいるような気がする。
そんなことを、ほとんど行きもしないサイゼリヤで考えた。
こんなことを考えているが、そもそも私に向けられた批判でないことが一番お呼びでない。
なんていう批判も当然、お呼びでない。
では、こりゃまた失礼いたしました。