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茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

鑑賞ノート「ちょっと思い出しただけ」〜恋愛映画における感情移入〜

 

どうもこんにちは。

 

ちょっと前に川崎まで足を運んで、映画「ちょっと思い出しただけ」を観てきた。

伊藤沙莉さん演じるタクシードライバーの葉と、池松壮亮さん演じる照明技師の照生、二人の出会いから別れるまでを、ある1日だけを定点観測的に遡るようにして描いた恋愛映画だった。

この少し前に、ヒューマントラスト渋谷で別の映画を観た。あの時にかなり力を入れた宣伝をしていたので、ちょっと疑心暗鬼で観た映画だった。

天邪鬼な私は大きく宣伝を打たれるほど、関心が捻くれてしまう。

ノベライズ ちょっと思い出しただけ


結論だけ言えば、とてもよかった。

とにかく伊藤沙莉さんがかわいい。ことあるごとにかわいい。容姿のことではなく、仕草や人間味のことだ。

主人公とヒロインに感情移入できないことほど、恋愛映画を観ていて退屈なことはない。

 

恋愛映画を観ているときに感情移入すると言うのは、かなり不思議な体験だと思う。

まず、主人公、ヒロインの気持ちには共感できるのに、共感している私たちが主人公たちと同じ体験をしたことはほとんどない。

出会って、恋に落ちて、交際を始めて、気持ちが離れて、別れて、という似たようなプロセスを経て恋愛をしていても、同じ出来事は体験していないことが多い。

 

そこで、次のような手順で恋愛映画に感情移入しているんじゃないかと考えてみた。

まず、劇中で何かアクションがある。(ここでは具体的に、主人公がタクシーの降り際にヒロインに告白して二人の交際が始まる、としてみる)

そのアクションを先に挙げたプロセスに落とし込む。(「交際を始めて」と言うプロセスに落とし込める)

次に、先ほど落とし込んだプロセスから自分の実体験のアクションを具象化する(過去の恋愛において交際が始まったアクションを思い出す)

劇中のアクションからプロセスを経て、全く違う実体験のアクションを想起することで、劇中のアクションも実体験として共感を覚えることができる。

 

このような手順で我々は恋愛映画を共感しながら観ているのだと考えた。そして、その共感部分に感情移入していく。

 

ここまで考えておいて、思うのは、こんなことは恋愛映画でなくても、もっと言えば映画でなくても、フィクションの世界に浸って、何かを思うときは、こんな手順を踏んで作品に共感しているに決まっている、と言うことだ。

確かに、ここで考えた感情移入までの手順は恋愛映画以外のジャンルにも適応されるものだ。

しかし、恋愛映画が他のジャンルよりも秀でているのは、劇中アクションと実体験をつなぐプロセス部分が持つ普遍性の強さではないだろうか。

プロセスが普遍的であるが故に、劇中アクションを落とし込みやすいし、プロセスが普遍的であるが故に、プロセスから実体験を想起しやすい。

私はこの劇中アクションと実体験をつなぐプロセスのことを「感情移入の表象」と呼ぶことにしている。

恋愛映画における「感情移入の表象」は他のジャンルよりも普遍的で、誰でもアクセスしやすものなのだと思う。

 

伊藤沙莉さんがかわいい、と言うことに話を戻そう。

交際相手をかわいくない、と考えている人は少ない。つまり、伊藤沙莉さんがかわいいと言うことは、交際相手がかわいい、と言う感情移入の表象を経て、実体験の交際相手がかわいい、を想起し、共感する。ここに感情移入をしていく。

 

そういうことで言うと、いささか前時代的な考え方になってしまうかも知れないが、恋愛映画のヒロインはかわいくなくてはいけない。

この映画は葉がかわいい人間であることで絶対的な説得力をもった。やっぱり伊藤沙莉さんは、日頃ツッコミのお兄さんが言う通り、天才女優だ。

 

こうして恋愛映画に欠かせない感情移入をした後に、それに説得力を持たせるのは、二人の関係が一番良好な幸せな時期をどう書くかにあると思う。

二人の幸せのピースを散りばめておく。そして後半、そのピースがチグハグになってしまったことで関係性の雲行きを怪しく描き出し、物語への没入感を高めるのだ。

 

例えば、昨年大ヒットした「花束みたいな恋をした」で言えば、散歩の道すがら二人で食べた焼きそばパンとそのお店の閉店を知った時の温度差、二人でゼルダを進める二人とパズドラしかする気にならなくなった麦くん、今村夏子さんを愛読していた二人と自己啓発本のコーナーで足を止める麦くん。

二人の幸せの時にあったピースが壊れていくことで、切なさをうまいこと誘っている。

ちなみにこの映画は、そのピースの固有名詞のチョイスの妙が観客の共感を強めた。そのことが、ここまでのヒットの要因の一つなのではないかと考えている。

花束みたいな恋をした

 

先にも言ったとおり、この映画は破局して別々の生活を送っている時点から二人の関係の変化を、初めて出会うときまでに順に遡って描いている。

照生が一人で食べるケーキ、一人でするラジオ体操、一人でお地蔵さんに頭下げる朝、なんでもない日常を遡っていくと、それらのピースは全て、葉と楽しく暮らせいていた頃の幸せなピースとして現れてくる。

つまり、「幸せなピースの提示→ピースのすれ違い」の順で描かれていくものが、この作品に関しては「(実は)ピースのすれ違い(だった)→幸せ(だった)ピースの提示」の順で描かれるので、全く意味が変わってきているのだ。

この構成が本当に素晴らしかった。幸せなピースを観ている後半に、前半で観てきたピースのことがよぎってしまうのだ。

二人の交際が始まるタクシーのピースを見ている時、私たちはもう二人が終わりを迎えるタクシーのピースを観てきてしまっている。

二人で食べる幸せなケーキのピース、この時はすでに、照生が一人で寂しく路上で食べるケーキのピースの後なのだ。

 

なんでも“ない“ことが、なんでも“あった“ことに豹変する。

恋愛映画における感情移入の表象は、この豹変をもカバーしている。

恋愛において、なんでもなかったことが、後から形を変えて、思い返され、その豹変に憂う、ということは実体験としても往々にしてある。

この映画は、「ピースの逆ベクテルへの豹変」が感情移入の表象を経て、「実体験の豹変の憂い」を想起させる。

ここは、今までの恋愛映画ではあまり感化されなかった感情のような気がする。

 

今、ふと思いつくのは「百万円と苦虫女」くらいだ。

百万円と苦虫女

 

この感情を感化しただけでも、この作品は大成功だし、もう一度観たさに囚われてしまう。

 

もちろん、多くの人が指摘しているように、ジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラナット」の使われ方、ニューヨークの屋敷さんが突然始める「あちこちオードリー」など面白い余白も多い。

特に、永瀬正敏さんの「やっと会えました」というセリフの仕掛けには鳥肌が立つ。

 

公開からもうだいぶ経つので、もう神奈川ではお目にかかれそうもない。

新宿、渋谷あたりで観れるうちに、もう一回観ておきたい。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。