本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

「生娘のシャブ漬け」を正しく面白がってみる

 

どうもこんちは。

 

世の中にはおもしろいけど、触れづらいものが結構あるもんです。

最近で言えば、某牛丼チェーン店の「生娘のシャブ漬け」発言でしょう。こんな発言、面白くて仕方ない。

しかし、面白がり方を間違えると、大変なことになります。

あえて、触れづらい「生娘のシャブ漬け」発言に触れてみましょう。さらに、触れるだけではなく、それを面白がってみましょう。正しく考えていることが上手く伝わるでしょうか。

 

最初に断っておきますが、私が面白いと思うのは、この発言の内容ではありません。

このことをちゃんと言っておかないと、私がこれから書きたいことの真意が本当にちゃんと伝わらないと思うので、はっきり言いますが、この発言の内容は面白くないです。とても不愉快でした。

明らかに人を不愉快にする発言が公の場でなされたこと、このコントのような奇跡が面白いのです。

 

この発言は明らかに男尊女卑的で、シャブ漬けというワードが公序良俗的に良くないなんていうのは、こうして今、私が活字にするのが恥ずかしいくらい当たり前のことでしかないわけです。

そんな当たり前に分かりきった間違いが起こるまでには、いくつかの要因が重なり合っていることでしょう。その奇跡的な要因の重なりが面白いのです。それを面白がってみようというのです。

 

まず初めに、この奇跡の始まりに、この発言が面白いと思っている発言者の当人が存在するということがあります。

発言の内容が明らかに不愉快なのに面白いと思ってしまう人がいることがまずもって、奇跡だと思いませんか?この不愉快さを感覚的に持ち合わせていないわけです。

しかも、公の場で発言してしまうということは、当人がなんの陰りもなく面白いと思っている、ということに違いありません。

このコントの始まりは、不愉快という感覚を持たない主人公が誕生する奇跡から始まっています。

 

次の奇跡への軌跡は、この発言ができてしまう環境が整えられていたということです。

よもや主人公が初めて不愉快な発言をしたわけでないでしょう。つまり、この発言をするまでには、程度の差こそあれ、過去にこの類の不愉快発言があったはずです。その発言が世間で公にならなかった為に、周りの人がそれを指摘することがなかった為に、問題視されることのない環境に主人公はずっと身を置いていたわけです。初めは小さかったはずの不愉快発言がここまで大きな不愉快発言になるには、相当な数のスライムを倒してきたはずです。 

ここまで誰に指摘されずに来たことがこのコントの設定を作っているわけです。

 

コントのような主人公とコントのような設定が奇跡的に相まったわけです。

シソンヌやロバートの強いキャラクターに東京03ハナコの設定が相まったようなコントです。

 

最後に話は変わりますが、SNS上でこの発言を批判する声の中に「このご時世にこの発言は良くない」という声が見受けられました。

確かに、今やコンプライアンスジェンダー等マイノリティに対する考慮の必要性が認識され始めた時代です。「その時代において『生娘』とはなんだ『シャブ漬け』はけしからん」というのはもっともなような気がします。

しかし、よくよく考えてみると、これはこれでおかしな批判のような気がします。

この批判の仕方だと、コンプライアンスジェンダーの問題が最近の問題のような言い方です。

しかし、マイノリティの人たちの苦痛は昔からずっとあったものです。女性蔑視に対する苦しみも昔からあったものです。

それを「ジェンダー」だったり「コンプライアンス」と名前をつけて概念化させ、問題意識を顕在化したのがここ最近の話なだけです。

問題意識を顕在化させた時に問題が生まれたわけではありません。はなから問題は潜在的に存在していて、それを閾下から引き上げたから、「このご時世」な訳です。

先に挙げた「このご時世にこの発言は良くない」ということは、「このご時世」とは「問題意識が認識されているご時世に」と換言されるわけです。じゃあ、今もマイノリティの人が苦しむ問題が存在するのに、その問題が取り沙汰されていない世の中ならば、この発言はお咎めなし、と言っているのと同じではないか、と思ってしまうわけです。

 

バレなければいいと言っているような気がして、発言の主人公と同じレベルではないかと思ってしまうのです。

どうでしょうか?

って読んでる人に聞いてみても仕方ないですね。

とにもかくにも、この批判をしている人は、発言を容認しかねない立場にあるのではないかと考えられます。

 

話が変わってしまいましたが、批判すればいいというわけではないのです。

考えて批判しないと、批判しているつもりが批判対象と同じ立場になってしまうことがあるのです。

深淵に覗かれていることを常に意識しないといけないのですね。

 

さて、社会的に問題となった発言を面白がってみたわけですが、正しく面白がれているのか。

この発言を対象にして「面白がる」という行為そのものを問題視する意見があるだろうと思います。

しかし、面白がるとはケラケラ笑うことだけを言うわけではありません。

その対象について考えることを面白がるという面白がり方もあっていいと思うのです。

 

そして、そこから生まれるブラックジョーク、不謹慎な笑いはもっと許容されていいのではないかと思います。

笑いの対象が不愉快なだけで笑いが締め出されるのはどうかと思います。

笑いと不愉快な対象の関係性を考慮されずに当たり前のように良し悪しが言われるのには違和感を覚えます。

 

「生娘のシャブ漬け」と言うワードは不愉快極まりないですが、それを対象にして面白がるには、アプローチさえ間違えなければ、いいのではないかと。

それを今回、こうして書いてみようと思ったのですが、最初に懸念した通り、うまく伝わりますでしょうか。

心配ですね…

 

では、こりゃまた失礼いたしました。