本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

読了ノート「ブラックボックス」

 

どうもこんにちは。

 

先日、芥川賞を受賞した砂川文次さんの『ブラックボックス』を読み終える。芥川賞が発表された号だけ買っている文藝春秋もそろそろ棚に入りきらないほどの冊数になってきた。

芥川賞を受賞したものが私にとって必ずしも面白いわけではない。それに私が抱く面白さと作品の良し悪しも必ずしも一致するものではない。

 

この作品が持つ眼前に映像が投影されているかのようなリアリティ、そして、主人公には共感し難い面もあるが、彼が抱く社会からの鬱陶しい拘束、それから逃れる術のないことへの苛立ちの描かれ方は素晴らしかった。

 

主人公は自転車で荷物の配達することを生業とするメッセンジャー業のサクマ。どこか閉塞的で無気力な、それで何かを常に押し殺しているような印象を受ける。自衛官、コンビニ店員と何をやっても長くは続くない。職場で持ちかけられる社員登用の話にも消極的だ。

 

物語はメッセンジャーにとって一番環境の悪い雨の日から始まる。交差点を渡ろうとするサクマは、スピードを落とさずに曲がってくるベンツを避けようとして転倒する。そのまま走り去るベンツ、雨に打たれながれ道に倒れ、壊れた自転車を眺めるサクマ。

このシーン、よく知っている道が思い浮かび、見たことある格好をしたサクマが見たことある自転車で走っている姿が、まるでハリーポッターの「憂いの篩」を覗いているかのように、ありありと私の記憶そのものとして映し出される。

メッセンジャーとして働くサクマ自身、そして、彼を取り巻く環境の描写が、異常なほど克明でかつ読者である私の記憶の中にあるものなのだ。

 

物語はあるところで断絶する。

 

唐突に刑務所で生活を送っているサクマ。

その後の回想、サクマが滞納していた税金の催促に来た役人を刹那的な怒りに任せて殴りつけていたのだ。

刑務所での規律に縛られ、無思考でいられる生活。同じ雑居房で生活する人間関係や刑務官とのやりとりの中でサクマは自分の押さえ難い暴力の正体を考える。

 

働きたい時に働きたいだけ働けるというメッセンジャーの自由な雇用形態とその裏腹にある社会的かつ、経済的不安定さは、常に得体の知れない社会によって天秤にかけられている。そして、その無意味な二項対立の答えはサクマの意思とは関係なく、社会に押し付けられる。

サクマの閉塞感、虚無感は社会からの押し付けに対する逃れようのない怒り、これを鎮める手立てだったのではないかと思う。触らぬ神に祟りなしだ。社会からの抑圧に耐えられないならば、社会と距離を取ればいい。彼を諦めさせたのは、常に答えを押し付けて、拘束を強いる社会そのものだ。

その上で、社会はさらに税金を払えと圧力を強めてくる。その耐え難さが後半の物語へ加速を強く進める。

 

サクマが税務署の人間に振るった暴力は、私自身が今、生きていて楽しくないという現実そのものと同意だ。

私は楽しくもない人生を生きていることに、それをなんとか誤魔化しながら生きていることに気付かされた。忘れていたことを引っ張り出してくる。やめてほしい。それを忘れてさえいれば、なんとかそれなりに生きていけるのだ。少なくとも憂う目にだけは合わないで済むのだ。

サクマの暴力は私が自分自身に対して隠していたこの人生そのものの嫌気を、手で掬えないドロドロとした液状のまま無加工で思い出させる。

 

私は何を書いているのか、泣きそうになっている。

 

冒頭、サクマには共感し難い面があると言ったが、おそらくはそうではないのだ。

私は社会の鬱陶しい拘束にサクマと同じように嫌気を感じている。私はサクマが暴力で抵抗した嫌気から逃げるように、素知らぬ顔でないことにしているのだ。

私が役人を血まみれにしていたかも知れないし、50日も懲罰房に入っていたかも知れない。

自分の人生なのに、その正体をひた隠しにして生きることに意味があったのか。

 

息苦しい作品だったけど、どこか吹っ切れるものがあった。そんな作品でした。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。