本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

想像力の欠けた船頭が漕ぐ泥舟、それは文化・芸術の敗北に等しい

 

どうもこんにちは。

 

世の中は新型コロナウィルスのことでいっぱいだ。物心ついた時から、テレビ画面の向こう側から笑わせてくれたコメディアンも犠牲になった。その一方で、計り知れないほど大きな失望を伴うその死を「最大の功績」という想像力が甚だ欠けた一言で片付けてしまう人もいる。どうして、彼の死が国民に対する意味しか持たないのだろうか。どうして、自らが執り行う行政の不手際も起因していると、自らの反省を促せないのか。想像力の乏しさが、人の不安を思いやることのできない愚かさが、日々、国家でも都政でも露呈している。

 

こういう時世になると、やはり真先に切られるのは、文化・芸術というおよそ物理的な生産性のない分野なのだ。ライブハウスには行くな、準備中の公演は中止しろと、それに関わる人間の生活など、気にも留めずに言い放つ。

そのことでどうなるだろうか、という想像力が乏しすぎるのだ。普段あってもなくてもいいと思っている文化・芸術が本当になくなることでどうなるだろうか、と考えが及ばないのだ。有事の際に、想像力の乏しさが露見するのはなにも矢面に立つ人たちではだけない。目の前の情報の信憑性を一度も疑うことなく、踊らされ、家を米やらトイレットペーパーやらでいっぱいにする愚者や、自分のことだけを考えて、目の前の人間を心ない罵声で蔑む者まで街にいる。

 

その想像力の乏しさは何が原因であろうか。私はその者達が文化・芸術に触れてこなかったのだろうと思う。

 

物理的な生産性のない文化・芸術の類が、私たちにもたらしてくれるものは、間違いなく精神的な成長だ。その最たるものが、想像力である。本読むにしても、映画を観るにしても、音楽を聴くにしても、私たちは何かを思い、何かを考え、何かを言葉にしたりする。それは想像力を使う練習のようなことをしているのだ。

先に述べたような愚者達は、こうした文化的なものに触れてこなかったのだ。仮に学校などで触れていたとしても、彼らは作品から感じたものを言葉にするのではなく、教師から求めらているであろう「正解」の言葉を導いたに過ぎないのだ。そんなことの所産は想像力を働かせたとは言い難く、文化的な体験とは言えない。

 

今、我々が対峙している局面は、新型のウィルスの拡散による恐怖ではない。それ自体は本来、我々が正しく把握し、理性的に動けば、恐るに足らないことだったはずである。しかし、ここまで事態が大きくなったのは、文化的な体験による想像力を著しく欠いたもの達が先頭に立って事態を収めようとしていることなのだ。そして、想像力の欠いた者たちは、想像力を培うはずの文化・芸術を滅ぼすことで、収集をつけようとしているのだ。

文化・芸術がなすべき役割を担えなかったことで、文化・芸術が潰れようとしている。それが今、我々が目の前にしている最大の問題だ。

 

ここで、文化・芸術が潰れては、この事態はおそらく収束しない。

 

まあ、マスクを2枚配れば、この難局がなんとかなるなんて言うんだから、想像力もへったくれもない。

この時世に、感染の予防に余念がないのは当然のことながら、私は無駄をやめない。こうして、今まで通りの駄文を書いたり、読書に映画に観劇に、一銭にもならない思考で生活を埋めたい。

もちろん、今後のことについては不安が大きい。世界中にウィルスに蔓延して、鎖国状態が広がり、世界経済が傾きかけている。それでも、こういう時にこそ、無駄がいいんじゃないかと思う。

 

こういう時に、そういう無駄から省こうということがどれだけ浅はかなことか。

こういう時こそ、無駄をなんとか守ろうってのが大事なんだろう。それが有事の際の人間の拠り所になって、次に向かうための想像力になるだろうか。それが次の時代を作るのではないか。戦後の笠置シヅ子のように。

言いたいことを勢いに任せて書いて、ちょっと支離滅裂ですね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。