的外れな数字嫌いは、私の浅はかさ
どうもこんにちは。
ちょっと前にTwitterで話題になった記事です。
内田さんの著者は、私も何冊か拝読させていただいています。
中でも「街場の文体論 (文春文庫)」は「文章を書く」ということが本質的にもつコミニュケーション能力がこれからの社会で生きていくために欠かせない能力であることを前提として、いかにそれを高めるかについて、通暁した氏の脳内書庫から出てくるたくさんの具体的な書籍とともにわかりやすく、読みやすい文体(講義録なので口語ってこともあるけど)で記されています。もっとも、こんな簡単な説明自体がこの本の本質と的外れな気もしますが。
そんな内田さんが、日本政府によるコロナ対応がいかにして失敗への道を辿ったのか、その本質を鮮やかに解きほどき、この後為政者によって展開されることが予想される本質をねじ曲げた改憲強硬論まで駆け抜ける。そして、内田さんの明快な説明による民主主義が持つ本来の可能性、そのために必要な我々のこれからのあるべき姿をカミュの「ペスト」を例に口説く。
最近の報道や入ってくる情報から湧いてくるモヤモヤした違和感、言い知れない苛立ち、不安をクリアに言葉にしてくれている。その上で、この感情を落ち着かせるために必要なことを冷静に、適切な温度で教えてくれている。
温度が適切であるということが、いかにも内田さんらしくて、大袈裟に騒ぎ立てたりしない。それは今回の報道の在り方に対するアンチテーゼとしてはこれ以上ないくらいだ。自粛に対する報道は大袈裟すぎないか?コロナで犠牲になった女優さんの遺骨がやっと自宅に帰られることをあんなにフラッシュを焚いて報じる必要があったのか?
我々は報道される内容ではなく、その報じられる温度で、入ってくる情報の有用性を判断している節がある。
閑話休題。
これを読んで私はまさに雷に打たれたようにショックを受けた。私はずっと民主主義に対して不信感を抱いていた。
ずいぶんと前に書いた記事です。
この不信感を自覚したのは、2016年に都知事選の報道を見たときのこと。
当初は、小池現都知事と対立候補だったジャーナリストの鳥越俊一郎さんが優位に選挙戦を進めていたように記憶しています。たしかに、報道番組での氏の発言や、街頭演説でも説得力のある主張を繰り広げていた。しかし、鳥越さんのスキャンダルが週刊誌に取り沙汰されると、氏の支持率は下落し、開票すると、当選したのは小池さんだった。
私はどうにも府に落ちなかった。都知事選とは東京都で政を執り行う人物を選ぶ行為だったのではないか。都政を仕切る能力とスキャンダルにはどんな関係があるのか。スキャンダル報道後に鳥越さんへの支持を降りた人は、そもそも鳥越さんの何を支持していたのだろう。スキャンダルのないクリーンさなのか。では、クリーンであることと政治を執り仕切る能力とはどんな関係があるのか。それは都知事選の本質を外しているのではないかと思う。
そのときに、民主主義とはいつのまにか本質を見誤ってしまうのではないか。
本質を見出すことが出来る人も、出来ない人も平等に一票を有している。これは本当の意味で平等と言っていいのだろうか。
そういうわけで、乱暴な言い方をすれば、「バカも平等に一票持つ」という民主主義は偽善的な香りがすることもあって、信用ならない。いや、ならなかった。リンク先の内田さんの文章を読むまでは。
私はかなり浅はかだった。なぜ「バカも一票を平等に持つ」というところから、では「そのバカをバカでなくする方法はないか」という発想にならなかったのか。なんで一つの思いつきで思索をやめてしまったのか。そもそも「バカにも一票」という欠点にも翻りかねない政治体制が採用された背景を考えなかったのか。浅はかすぎる、私。
内田さんの説明による明快で分かりやすい民主主義の最大の利点。そして、運用するために必要な「大人」たちだということ。これを読んではっきりとしたことは私が抱いていた不信感は民主主義というシステムそのものに対しての不信感ではなかった。現状でこの「大人」たちを育成するシステムが作られていない、というところに私は不信感を抱いていたのです。
だって、思い返してみてほしい。学校で民主主義について、それに基づく議会制民主主義について、システムは習ったが、いかに運用していくかについては習った覚えがない。どうやって投票する政党を決めるのか、普段から政治に対してどのような姿勢で向き合うのか、それにはもちろんメディアとの距離感もあるだろう。そういった実用的なことを一切習った記憶がない。
それなのに、十八歳になると投票券が送られてきて、政治に参加する。この流れのどこで「大人(成熟した市民)」になれるだろうか。民主主義を運用していく上で、一番大切なところがごっそり抜けているような気がする。この空白に対して、私は違和感、不信感を覚えていたのだ。
私ももっと勉強しなきゃいけないな。これだけ家にいるんだから、勉強しよう。
勉強したことが何かになるんではない。勉強して、考えて、自分の中で答えに出すこと自体が大切なのだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
ー承前ー ノー密で濃密なドライブ記
どうもこんばんは。
さて、「必要不急」の自粛気晴らし旅の続きです。
ノー密で濃密なドライブ記 - AM1:00-3:00前半はこちらより。
沼津漁港の明るさは、暗い山道を抜けて来た私たちには眩しすぎた。そして、沼津についてはたと気付く。なんでこんなところにいるんだと。この日のドライブはどこに行こうとも「こんな時間に」という変な枕詞が付いてくる。深夜2時、こんな時間に沼津港。カーラジオからスローバラードと、いう雰囲気でもなく不毛な議論で南海キャンディーズの山ちゃんがパンについて語っている。夜風に当たって潮の匂いで互いの人生を語らうなんて雰囲気でもない。
車を市街地にむけてしばらく走らせる。見知らぬ土地なもんでどこに辿り着く道かも分からないし、たどり着いてもそこがどこだかわかんない。わからないところに着く、わからない道。そもそも、そこを辿り着いたさきと言っていいものか。糸が切れた凧のようなドライブは私と奴の生き方のようでもある。というより、生きるということそのものが、誰にとっても、糸を切って、凧になって飛んでいくということか。知らない電線に向かう、知らない空。気付いたら、電線に引っかかっている。どこだここ、こんなところに来たかったのか、こんなところにいていいのか。そんなことを思うのもはなのうちだけ、次第に絡まっていることが楽チンになる。時に雨に打たれることはあっても、電線に引っかかっていれば、新しいところに飛んでいくことはない。風に飛ばされない楽を覚えると、それは億劫になるのだ。
沼津漁港の辺りに公園があって、そこに車を停めて、広く続く砂浜に出る。あとで地図で見てそこを千本浜公園というのだ知った。不毛な議論はとっくに終わって、チャンネルを変えて、佐久間さんのオールナイトニッポンへ。さすがドリームエンタメラジオ、深夜の波音と奏でる不協和音。代わりにサザンの「栞のテーマ」を流す。海によく合う。不思議なジャケットも、我々の不思議な旅に合うものだ。
誰だ、これ。なんて曲と不釣り合いな人(?)なんだ。
ーどうする、これから?
ーそうさね、いくところもないしな。そろそろガソリン入れなきゃじゃないか。
ーそううなんだけどさ、今日というより、将来?
ーもう時期に26歳だぜ。将来がどうとかいう頃を懐かしむ時期に入りつつあるんじゃない。
ーそれはまだ早いだろ
みたいな会話をした記憶はない。いま、捏造しました。海辺で語らうラジオドラマみたいなの書いてみようかな。
奴と私の語らいは常に海であって、語らうために大学とは反対の電車に乗って茅ヶ崎、江ノ島に来たことが幾たびあることか。その都度終わりのない話に時間とコーラだけが減っていく。そして、結論を諦め、夕陽に背を向け、学校をサボった背徳感と空のコーラのペットボトルをと共に家路電車の席に着く。
何を語らっていたのだろうか、奴と。あの時の私たちには重要だったようなことなのだが、今思い出せないところをみると、どうにも重要なこではないらしい。だから、今回の私と奴の沼津での語らいも例に漏れず重要なことなどないのだから、今思い出せる内容がほとんどない。そんなことに1時間も使っている。無駄なことに1時間も浪費していることを語らった方がいい。
空がまだ暗くても、肌で感じる風は暖かみを帯び始める。その風が夜が時期に明けることを語りかけてくる。車の窓から吹き抜ける風は、調子に乗ったスピードの速さだけ、勢いがある。前後に車がいないのをいいことを飛ばす車の勢いのいいこと。それくらいの勢いがなくては、深夜に目的もなく、沼津漁港になんか来ない。
助手席の私はシートを倒し、運転手をよそにトロントしてくる。まあ、運転手だってたまには助手席を気にせずに一人気ままに車を走らせたいだろう。相手に気を使って眠るとは、私の気遣いのできる私だ。
伊勢原あたりで私の目が覚める。いつのまにかサザンをかけていたオーディオは奴の小さなスマホから流れるサカナクションに変わっていた。昨日の終わりが今日の始まりに薄まっていく。昨日とも今日とも言えない時間のサカナクションはいい。
茅ヶ崎の我が家の目の前を通り過ぎて、逗子までたどり着く。その頃にはすっかり昨日の面影はなくなり、今日が今日であるということを疑わない人たちの生活が始まっている。ここらでコーヒーでも飲みたいなと、逗子の海岸から近いところで探してみると、この時間にやっているコーヒースタンドを見つける。
深夜を走り抜けた謎のドライブの終幕にちょうどいい果実味のする浅煎りのコーヒーとホットサンドを頂く。私たちが朝を満喫する間にも出勤前の幾人かが一息ついていく。サードウェーブど真ん中の店内だった。
そのまま車は元来た道を戻るようにして鎌倉へ。
今でこそ、湘南封鎖網が報道されている通り、青島警部補よろしく「(国道)134(号線)封鎖できません」状態だけれども、先週は、しかも平日の朝ともなるとそこまで厳しくない。波打ち際を私と奴で歩く。どうにも、私と奴は歩く。そうか、歩く場所を求めて、車を走らせたのかもしれない。手には日本史の教科書。互いに交互に問題を出し合う。語らうよりもよっぽど有意義な時間かもしれない。
こんなことのどこが有意義なものか。インスタに映えそうな朝の海がもったいない。
車に戻った私たちは、靴の中の砂も気にせず、つい3時間前に通り過ぎた茅ヶ崎に帰ってくる。
車をおいて、何をしようかと。一晩もいれば、そろそろ話題も尽きる。腹も減ったし、駅まで散歩がてら午飯でも買いに行こうと、また歩く。前にも話しました馴染みの寿司屋が始めたお持ち帰りの折詰を買いに行く。見てると、お腹はもっと空いてきて、さつま揚げやら何やら買って、帰ってくる。
寿司を食べて、先日のTBSで放送された「ドリームマッチ」をみる。一晩寝てなくて、お腹が満たされれば、眠くなる。こりゃものの通りだ。コロナが流行って、マスクがなければ、国が大枚を叩いて配る。これもものの通りだ。理屈が全く同じことに気づく。
夕方になって、目が覚めると部屋には誰もいない。奴と一緒にいたはずなのにおかしいなと。もしや夢かと思う。
いいや、夢でない証拠がテーブルに。空の折詰が放置されている。
食べた後くらい片付けていってくれてもいいではないかと、ちょっと思う。
長々と綴ったドライブ記もここまで。
いかんせんポエティックな文体になって自分でも驚いているところです。
ではまた、自粛しましょう。
こりゃまた、失礼いたしました。
ノー密で濃密なドライブ記
どうもおはようございます。
巷を賑わす「不要不急」とはどこまでのことを言うのだろうか。そんなことを考えると、1日を無駄にしてしまいそうなので、都合よく解釈を変えることにしておく。
面倒な人からの連絡は「不要不急」で断り、高校時代の腐れ縁からの誘いは「気晴らしは『不要』でなかろう」とそそくさ出向く。もちろん、「密」には気をつける。
そんなわけで、先日、奴と深夜のドライブに行った。常時、窓を開けて、密閉を避けて、人気のいないところへ車を走らせる。と言っても茅ヶ崎を21時に出れば、どこに行こうがそうそう人がいるわきゃない。
まず、海沿いのコンビニで飲み物とお菓子を買って、車に乗り込む。運転するのは奴で、車の所有者は私なので、ワンデーの保険にも入ってもらう。なんでも揃うコンビニはこれから始まる冒険のワクワクを駆り立てる演出にはもってこいだ。金管のファンファーレにシンバルが重なり、ティンパニが響いて、木管のグリッサンドが飾れる。冒険に相応しいBGMの代わりにコンビニとはお手軽でいい。コーラを買って、カフェラテを買って、お茶を買って。おそらく帰りまでにお茶を開けることはないだろう。
134号線をサザンオールスターズというベタ中のベタをBGMに走っていく。真っ暗な海も目が慣れてくると、少しづつ白波らしいものが見えてくる。それだけで海沿いを走る意味がある。標識に「小田原」の地名が目に入るので、小田原城でも見ておこうということになる。奴と出掛けて、何かが決まっていた試しがない。無計画を計画するのだって立派な計画だ。これが我らの流儀。
着いた小田原城に人影があるわけもない。日本史の大好きな我々は、早速小田原城で思い出すことを挙げ連ねる。秀吉の小田原征伐は何年のことか。ことの発端はなんだったか。そもそも小田原北条氏を早雲から末代目で言えるっけか。何故か奴のカバンから山川出版社の「日本史B用語集」が出てくる。
秀吉の小田原を攻めたのは1590年のこと。1585年に発した「惣無事令」に反して、真田領の名胡桃城にちょっかいを出した北条氏直が、秀吉に降伏しなかったことから始まる。小田原北条氏こと後北条氏は早雲の下克上に続いて、氏綱、氏康、氏政、氏直と続く。
なんて知識を自慢気にひけらしている場合ではない。
で、休憩中のタクシーが並んでいるだけで人影のない小田原城を後に車を走らす。次に目がいったのが標識が「沼津」の文字。
国道1号線をまっすぐ行く。ずっと行けば真鶴、熱海と抜けて沼津まで行けると思ったのだが、どこかで道を間違えたのか、いつのまにか箱根湯本に。ここまで来れば、先に待つのは駅伝の5区で知れる山道しかない。深夜0時を過ぎようかなんて頃の山道は今思い出すだけでもゾッとする。それでも、いくしかないと大宮台、強羅と山道を行く。
どうでもいいが、どうして、山道はあんなに曲がるのだろうか。あんなところに道が必要だろうか。なければないで、こっちも通らんよ、なんて的外れな悪態をつく。
御殿場から山を降って、市街地を抜けて、沼津の海へ。御殿場の山から見た静岡の市街地、自粛で静まり返る世相と打って変わって賑やかに綺麗なこと。何をあんな時間に灯りが燈ることがあろうか。
途中、見慣れない24hの蕎麦屋で夜食を取る。スマル亭、こう言っちゃなんだけども、寂れた感じがいい。暗い田舎道の中にポツンと煌々と光る蕎麦屋。なんとも言えない。
安い蕎麦で思い出すのが、柳家喬太郎師匠の「コロッケ蕎麦」
存在感なくこっそり効いている素振りだけを見せる出汁、深夜の静けさでなけりゃかき消されるような蕎麦の香り、出汁の中で溶けてほどけていく桜エビのかき揚げ。深夜に知らない土地で食べるにはちょうどいい。
食後の一服に向かいのコンビニでカフェラテを買う。案の定、初めに買ったお茶は封すら開けられていない。
人工的に明けさせた沼津漁港の深夜は明るい。
さて、ずいぶん長いこと書いたので、続きは次回にしましょうか。
いつものことながら、お読みの皆さんは何を読ませれているんだと、お疲れのことでしょうが、考えても見ていただきたい。読んで疲れるものは書いても疲れるんです。偉そうにいうことでもないやね。
では、こりゃまた失礼いたしました。
引退中
どうもおはようございます。
江ノ島近辺にある職場が休業に入り、二週間。最初の数日は家に篭っていられるのがワクワクするのだが、こうも毎日続くと、飽き飽きしていくる。かと言って、人に会えるわけではない。今の世の中、なんだか人と会うこと自体が罪人のように白い目で見られるのだ。禁止されてることではないのに、自粛という言葉のせいで、世間は冷たい。その目はまるで、空いてる車両の優先席に座る人を見るようだ。
日本人にはどうにも、臨機応変に物事を捉えられないというか、堅物で面白くないところがあるように思う。自粛の意味が歪んでしまっている。「自ら」という意味が拡大解釈されて、その解釈に縛られている。
私たちはコロナと戦ううちに、全体主義の霧に迷い込んでしまった。気色が悪い。とにかく、Twitterを開くと気分を害すような情報が並んでいる。流行りのシンガーソングライターをBGMに猫と戯れる一国のリーダーで話が溢れかえっているのだ。
こういう時に自分が知らぬ間に寄りかかっている世界がいかにずさんなハリボテであるのかを痛感するんだな。
そんなことを言っても我が家にはおもちゃが多い。
こだわって集めている珈琲器具、エスプレッソマシン、ダーツ、無数の本、プロジェクターにスクリーン、ハンモック、電子ピアノ、トランペット、さらにこの在宅無職期間に新しく買ったギターとうちにいてもやることには飽きない。
それでも、ずっと部屋にいるという閉塞感から集中力が保たない。
何よりも人との会話がないことが一番、私を閉じ込めている。
あとは少し小説を書き進める。
これがまた全然進まない。考えてみると、私が何かを思考していた時間というのは自宅ー江ノ島間の自転車での往復だったのだ。つまり、職場が休業中の今、私には習慣的に何かを考える時間がなくなってしまったのだ。
思考する時間も会話する時間も無くなってしまえば、私の創作の源は枯渇してしまう。
元より水源はお猪口を満たすのが精いっぱいのか細い湧き水なのだ。間違えて誰かに踏まれてしまえば、すぐに塞がる。踏んだ当人だって湧き水を塞いだことに気付かない。さて、この生活でどうやって新たな水源を見つけるか。
茅ヶ崎の南口ではほとんどの飲食店が店を閉め、大きな通りは暗く閑散としている。
行きつけの寿司屋も持ち帰りの営業になってしまっている。出てくる料理が美味しのがもちろんなのだが、何よりもカウンター越しで交わす大将との会話が、またよかったのだ。うちで食べるんだとまた話が変わってくる。
打って変わって、サザンビーチには人が出ている。夕方、散歩に行くと、家族連れや夫婦で手を取り歩いていく人が結構な数歩いている。
ここにはどうにも自粛ということはないようだ。もっとも、私も行くところはないから、海までの散歩が日課になりつつある。
もう人生引退してるな、私。
あんなに仕事はしたくないと思いつつ、いざ、本当に在宅無職になると、心が保たない。ある程度のストレスが心のバランスをとっていたのかもしれない。
いつまで続くのかこの生活。
では、こりゃまた失礼いたしました。
想像力の欠けた船頭が漕ぐ泥舟、それは文化・芸術の敗北に等しい
どうもこんにちは。
世の中は新型コロナウィルスのことでいっぱいだ。物心ついた時から、テレビ画面の向こう側から笑わせてくれたコメディアンも犠牲になった。その一方で、計り知れないほど大きな失望を伴うその死を「最大の功績」という想像力が甚だ欠けた一言で片付けてしまう人もいる。どうして、彼の死が国民に対する意味しか持たないのだろうか。どうして、自らが執り行う行政の不手際も起因していると、自らの反省を促せないのか。想像力の乏しさが、人の不安を思いやることのできない愚かさが、日々、国家でも都政でも露呈している。
こういう時世になると、やはり真先に切られるのは、文化・芸術というおよそ物理的な生産性のない分野なのだ。ライブハウスには行くな、準備中の公演は中止しろと、それに関わる人間の生活など、気にも留めずに言い放つ。
そのことでどうなるだろうか、という想像力が乏しすぎるのだ。普段あってもなくてもいいと思っている文化・芸術が本当になくなることでどうなるだろうか、と考えが及ばないのだ。有事の際に、想像力の乏しさが露見するのはなにも矢面に立つ人たちではだけない。目の前の情報の信憑性を一度も疑うことなく、踊らされ、家を米やらトイレットペーパーやらでいっぱいにする愚者や、自分のことだけを考えて、目の前の人間を心ない罵声で蔑む者まで街にいる。
その想像力の乏しさは何が原因であろうか。私はその者達が文化・芸術に触れてこなかったのだろうと思う。
物理的な生産性のない文化・芸術の類が、私たちにもたらしてくれるものは、間違いなく精神的な成長だ。その最たるものが、想像力である。本読むにしても、映画を観るにしても、音楽を聴くにしても、私たちは何かを思い、何かを考え、何かを言葉にしたりする。それは想像力を使う練習のようなことをしているのだ。
先に述べたような愚者達は、こうした文化的なものに触れてこなかったのだ。仮に学校などで触れていたとしても、彼らは作品から感じたものを言葉にするのではなく、教師から求めらているであろう「正解」の言葉を導いたに過ぎないのだ。そんなことの所産は想像力を働かせたとは言い難く、文化的な体験とは言えない。
今、我々が対峙している局面は、新型のウィルスの拡散による恐怖ではない。それ自体は本来、我々が正しく把握し、理性的に動けば、恐るに足らないことだったはずである。しかし、ここまで事態が大きくなったのは、文化的な体験による想像力を著しく欠いたもの達が先頭に立って事態を収めようとしていることなのだ。そして、想像力の欠いた者たちは、想像力を培うはずの文化・芸術を滅ぼすことで、収集をつけようとしているのだ。
文化・芸術がなすべき役割を担えなかったことで、文化・芸術が潰れようとしている。それが今、我々が目の前にしている最大の問題だ。
ここで、文化・芸術が潰れては、この事態はおそらく収束しない。
まあ、マスクを2枚配れば、この難局がなんとかなるなんて言うんだから、想像力もへったくれもない。
この時世に、感染の予防に余念がないのは当然のことながら、私は無駄をやめない。こうして、今まで通りの駄文を書いたり、読書に映画に観劇に、一銭にもならない思考で生活を埋めたい。
もちろん、今後のことについては不安が大きい。世界中にウィルスに蔓延して、鎖国状態が広がり、世界経済が傾きかけている。それでも、こういう時にこそ、無駄がいいんじゃないかと思う。
こういう時に、そういう無駄から省こうということがどれだけ浅はかなことか。
こういう時こそ、無駄をなんとか守ろうってのが大事なんだろう。それが有事の際の人間の拠り所になって、次に向かうための想像力になるだろうか。それが次の時代を作るのではないか。戦後の笠置シヅ子のように。
言いたいことを勢いに任せて書いて、ちょっと支離滅裂ですね。
では、こりゃまた失礼いたしました。
吉祥寺散歩記
どうもこんにちは。
ちょうど先週の話です。
木曜の深夜から八王子の友人宅で、厳密に言えば、友人が経営するコンビニで一晩過ごす。季節の変わり目には必ず会うので、思い出話をするというよりは近況報告と世間話。
たとえば、今回はコロナについてとか。
余談で言うけども、世間はコロナ、コロナと騒ぐ。しかし、たまたま顕微鏡で見たら、ウイルスが新型だと気付いてしまっただけで、それに気づかなければ、例年通り何人かがコロナで亡くなったに過ぎないのだ。問題は新型だと気づいたことにあるのではないか。顕微鏡なんてものがあるから、新型だと気付いてしまったし、煩わしく、馬鹿を煽っているのだ。この騒ぎの原因はどう考えても、顕微鏡の誕生にある。顕微鏡を生んだハンス・ヤンセン氏とその子、ツァハリアス氏にこそ責任があろう。
なんてことは、どうも本気では思っていない。
金曜日の朝方、銭湯で朝風呂に入り、蕎麦をたぐって別れる。
八王子の改札を抜けて、相模線に向かう道すがら。天気がいいし、このまま茅ヶ崎に帰るのももったいなかろうと、踵を返して中央線に乗ってみる。少し、ウトウトしたのち、目が覚めたのが吉祥寺なので、いい街だ、降り立ってみる。
が、改札を抜けて驚いた。そこらにはびこる人。人。人。無数の人。アホみたいに人がいるのだ。コロナで外出しないのではないのか、都民よ。
人がいない方にいない方にと歩いていくと、どこだか知らないところにたどり着く。
そこで見つけたカフェがMIMIさん。Cafe MIMI 吉祥寺南町のフレンチカフェ & 雑貨
天井にも壁にも、四面楚歌の雑貨。そのどれもが日本のものではないようだ。
そして、ソファの後ろにはフランスにまつわる本が並んでいる。フランスの旅行本、仏語訳された日本の漫画、フランス料理のレシピ本。中でも目を引いたのが、伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記 」。くだらないんだけど、奥があるように思えて、よく目を凝らすとやっぱり張りぼてだったみたいな騙し絵随筆集のページをめくりながら、アイスコーヒーとクロワッサン、オレンジジュースのセットを待つ。
ページがすこぶるめくられる。いつもより1.5倍速でめくられる。
そのうちにサクサクのクロワッサンが届く。小さなコップに入ったオレンジジュースが嬉しい。
賑やかな店内と静かに笑わせてくる文章とバターの香りいっぱいのクロワッサンと。こんな朝ごはんで始まるんだから、いい休日は決まったようなものだ。
駅に戻ると相変わらずの人だ。
駅ビルの中なんかはごった返した人で溢れている。嫌気がさして、パルコへ。
映画でもみるかと、アップリンクのタイムテーブルを見てみると、名前が聞いたことある程度の見知らぬ映画が一本、時間的にちょうどいい。
「ピーナッツバターファルコン」映画『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』公式サイト
未来を希望でいっぱいにして、自らの手で切り開いていく勇気に溢れた、推進力。旅の景色を飾るアメリカの大自然。
思い切ってみることが人生が何よりも豊かにする。誰のためでもない。自分のためにさえ、豊かになれば、その思いっきりが
周りをも変える。大人も子供ない。健常者もダウン症もない。女と男だってない。できるかできないかでもない。勇気があるかないかだ。
今の自分を鑑みて、何か周りを巻き込む勇気ある推進力を持って生きているだろうか。
この日、勇気を出したことといえば、クラフトコーラを飲んでみたことだ。コーラ好きの私からすれば、これは相当な勇気だと言っていい。少し話題になっているのは知っていたので、ここにあったかという発見に近い感動。
西荻に暮らす友人。と言っても、昨年までうちの職場でアルバイトをしていた社会人一年目。映画の前に連絡とっておいたら、針治療後に合流するという。ちょうど私の映画が終わる頃だった。
初めての井の頭公園をぐるっと回る。花見禁止のアナウンスが終始流れる中、池の上を行くたくさんの白鳥たち。その周りを行きながら、村上春樹の悪口言ったり、又吉直樹の私的楽しみ方を発表しあったりする。何気ないタイミングの何気ない一言で、互いを笑わせようという会話のヒリヒリ感が徹夜明けの眠気には一番効く。村上春樹の10ページの短編など、出てくる男の着ているシャツの描写できっと終わってしまうだろうなんて笑いながら行く井の頭公園は陽も落ちかけて涼しい。
一時間程度の散歩で別れて、東京へ向かう。
東京から湘南新宿ラインで茅ヶ崎へ。先日の夜から続く長い1日が終わる。
常に左脳は眠気。ぼんやりする右脳で思いつくままの吉祥寺散歩、これにて。
では、こりゃまた失礼いたしました。
ライナスとインプット
どうもこんにちは。
1ヶ月と少しの間、書かずにおりました。
まず一つには、キーボードの「G」と「H」が反応しなくなってしまったから。なんと言ってもこれが1番の理由でしょう。
こんな駄文しか書かずとも、やはり、使い慣れたキーボードが一番で、これでないと何か落ち着かない。
ネットで探したり、取り寄せたりで、時間がかかる。なんせ、先代はAmazonで見つけた一番安いものだったので、メーカーも何もわからない。
そんなキーボードを探しながら、「ライナスの毛布」と言う言葉を思い出す。
スヌーピーを見たり、読んだことはないのだが、「ぽっかぽか 」という漫画の何巻かの何話目かにこの言葉が出来てきたのを思い出したのだ。
たしか、あすかのお気に入りのぬいぐるみがなくなったのだ。時を同じくして、父の会社の部長が肩叩きで退職することに。部長の送別会の帰り道、あすかのぬいぐるみの一件を同僚の中村が父にいうのだ。「会社もライナスの毛布じゃダメだな」って。確か、そんな話。
ずっと青い毛布に依存し、離れらない男の子。私たちは、いつでも結局何かに依存して、離れられなくなってしまっている。
あってもなくてもいいような何かに必死にしがみついている。一歩離れてみれば、どんなに滑稽な自分が映っていることだろう。
時々、私が自分の足で立っているのか不安になる。
本当はこんなことを書こうと思っていたのではないのですが、キーボードの話からまろびて、こうなりました。
あ、最近のインプットしたものをとりあえず、書き出すだけ、書き出します。
「パラサイト」
素晴らしい。ラジオで佐久間さんが「入口と出口が違う映画」と絶賛していたけど、コミカルでテンポ良く、スパイ映画のようなハラハラもあり、でも、言葉に出来ない人間の不条理な感情で犯してしまう殺人。途方もない夢にすがろうとするラストは夢か現か…。
「グットバイー嘘から始まる人生喜劇ー」
何もいう気になれない。原作のケラ戯曲の何が面白いのか分かっているのだろうか?改変されたキャラクター、ストーリー、設定のすべてが陳腐になり下がっている。
「新聞記者」
リアリズムの本質を見た気がする。なるほど、今の日本の国のあり方、マスコミのあり方、民主主義のあり方がある。ただ、「リアルだな」と私たちがそのリアリズムを楽しめるのは、物語に感情移入出来るのは、映画だと、つまり、虚構の世界だと認識しているからだ。虚構の中だからこそ、現実を模倣することができ、リアリズムを感じることが出来るのだ。現実が現実を模倣することがないのなら、現実にリアリズムは存在しない。
ならば、あの勇気に救われるラストの展開もやはり「虚構」でしかないのだ。それは現実に生きる私たちには、恐ろしい事実ではないか?
カメラワークと照明が素晴らしい。横から見るビルの屋上。キスをするのかと思わせるような西陽の当たり方。
伯山ティービー「畦倉重四郎」
YouTubeで講談をっていうから、もっと笑えたり、新作だったり、とっつきやすいものかと思ったら、いきなり重たい続き物だ。それでも、ひきつけてしまう。すごいじゃないか。演芸って瓢箪のようなものだと思っている。入り口は狭いが、ちょっと入ってみるとぐわっと間口が広がる。神田伯山、瓢箪の狭い入り口を姑息なことをすることなく、ただ、芸の腕のみで広げてしまった。
「鬼滅の刃」
アニメなんか本当にみやしないが、周りから絶賛の声しか聞こえないので、観るしかない。
面白い。主人公と鬼の間の感情の動きがいい。悪が悪のみでない、2面性見たいものが物語に推進力を持たせる。グラフィックがどうとかっていうことはわからないが、戦闘シーンの迫力がすごいことはわかる。
吉田修一氏の短編集。出掛けたら手持ち無沙汰だったので、ブックオフで買ってみる。サクッと読んだ記憶。
私は全く世界のどこを見て生きているのだろうか、と自問自答する。「こどもの」とあるが、大人のための対話だ。いつのまにか当たり前だと思っていたことが、言われてみればわかっていない。なのに、なんで疑問にすら思わないのか。疑問に思うことから始めないと。哲学の一歩手前で私が止まっていた。
さて、新しいキーボードも来たことだし、これからまた駄文を書き続けます。
お時間がありましたら、お付き合いのほど、願っておきます。
では、こりゃまた失礼いたしました。