本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

宮殿に書かれる犬は忠誠のモチーフ

 

どうもこんばんは。

今さっき、神奈川かもめ「短編演劇」フェスティバル2019に応募する作品を書き終えて、申し込んだところです。

なんとか形になってよかった。

まあ、審査の結果がどうなるかはわからんけどね。

というよりも、私的には結果よりも一つの作品を期限内に完成させたことの方が意義は大きい。

 

書き終えて、読み返すと随分と不条理よりに偏ったけど、なんとか形になったと思う。

審査結果が出たら、ここにあげますので、良かったら、感想やご批評ください。

 

寒くなってきて、年の瀬を感じさせる風物詩にMー1グランプリがある。

いよいよ決勝の漫才師たちが発表されたが、Mー1の面白いところは、決勝に上がるまでの予選で出会う未だかつて見たことない漫才師たちだ。 準々決勝、準決勝と出場漫才師たちのネタが動画サイトにあげられると一通りみてみる。

関西の大会なんか向こうの劇場ではウケてるけど、関東のテレビに出てないなんて漫才師はいくらもいるから、私にするとすっごく新鮮だ。

そんな中、今年もやっぱり面白い人たちを見つけた。Dr.ハインリッヒってよしもと所属の双子の女性漫才師。

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漫才の笑い方というのは近年大きく変わっていて、ボケてツッコんで漫才の王道からテンポやワードセンス、ボケの世界観、いっそツッコまない、構成の仕掛けなど魅せ方も多種多様になっている。

そんな中で、このDr.ハインリッヒはぶっ飛んでナンセンスに振り切り切った世界観が最高に面白い。何が面白いのかを説明できないが、面白い。これ以上振り切ると笑えないような気がする。笑えるリミットのギリギリを攻める。

Dr.ハインリッヒ M-1グランプリ2018 準々決勝 漫才 - YouTube

Dr.ハインリッヒ M-1グランプリ2018 3回戦 漫才 - YouTube

 

何が面白いのかわからない。わけがわからない。でも、声を出して笑ってしまう。

もし、関西方面でこれをお読みの方がいらしたら、彼女たちのそちらでの活躍をお聞きしたい。もっと関東には出てこないのだろうか。

YouTubeに彼女たちのトークライブを見つけた。1時間ほどのトークを聞き終えて、心地よい疲れを感じる。B判定くらいの結果が期待できる出来の模試後って感じだ。

無意識に脳内を必死にフル活動させて、面白さを見出す。面白さを見つけることがある種の快感になる。分かるから面白いものと、面白がるために分かりたいものとがある。

どっちの方が作品としていいとか、高尚だということはない。しかし、分からないものを分かってまで面白がりたいという原動力には作品の魅力が確実にある。まだ見ぬ魅力を直感に感じて、その姿を探す。

 

それから、彼女たちの漫才はどことないウィットを感じる。

漫才のつかみに川端老師の「雪国」の冒頭が引用されてたり、「現代アート」とタイトルされた漫才ではハイセンスな世界観と機知に富んだ思索とが重層的に交差し、今までにない笑いを生み出している。

 

もうこれ以上ないと思われる笑いの種類を地道に開拓している。カッコいい。ナンセンスに比重を置いた似たような漫才はいくらもあるようで、でも、今までにない。どこか違う。

 

最後に袖にはけていくパンツスーツの2人のカッコいい。面白いと思うものを形にしきった彼女たちの背中はカッコいい。

 

形にするってのはなかなか苦しい。それがこんなに見事だと感銘しちゃうよ。

あ、タイトルはみゆきさんが得意だというルネッサンス絵画あるあるの話です。

やっぱりなにかを作るなら、とことん自分の中の犬になりたい。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

深夜、動けないパラドックス

 

どうもこんばんは。

 

実家にいた頃、よく深夜に寝れなくて、文庫本をポケットに入れ、深夜の透明な空気に包まれ静まり返った商店街を15分くらい歩いて、駅前の24時間営業のファミレスで時間を潰していた。

それは茅ヶ崎に越してきてから、歩いて3分の海沿いのデニーズに変わった。

それがつい先日閉店してしまい、海風香る深夜に放り出された私の居場所は何処へやら…。

自転車で10分ほどの北口の2時閉店のファミレスが一番近いんだろうが、深夜ラジオを聞きたい私にとってのゴールデンタイムが3時までなのだから、だいたいにして2時閉店というのはよくない。夜はウチに居ろってことか。

 

仕事の時間帯が変わり、内容が大きく変わり2週間。

ついていくのがやっと。うそ。全くついていけず、周りに迷惑を掛けっぱなし。

毎朝7時ごろ起きて、13時ごろ出勤する。それまで本読んだり買い物したり、楽器の練習したりするんだけど、10時ごろになると職場が木っ端微塵になっていないかとおかしな期待を抱く毎日。週に2回ある次の日の出勤から解放される休日前がなんと心安いことか…。

必死にやっていないことが自分で分かっているから情けない。

なんか「ここぞ!」っというところでの踏ん張りが効いていない。

毎日、帰宅しながら帰りたくなる。もう翌日分の帰宅願望が顔を覗かせているわけだ。

今なんかこれを書きながら、明日のことを思う憂鬱が全く晴れない。

私がやるしかないわけで、この憂鬱の糸口はない。私が動かないと終わらない憂鬱なのに、その憂鬱で私の歩みがのらりくらり。はーややこしややこし。

 

 さて、深夜の空気が漂い始める0時台。エレ片、オードリーまであと1時間。ゴールデンタイムまで憂鬱に翻弄されて、モチベーションの踏ん切りのつかない心持ち。

 

こんなことを繰り返して、歳をとることほど馬鹿らしい歳の取り方はない。

 

では、こりゃまた失礼いたしまた。

 

 

そういえば

 

どうもこんばんは。

 

ひょんな思いつきから、ブログタイトルを変えました。

別に内容がこんなんだから、どんなタイトルでもいいようですが、やはり書く方はどうもそうはいかないようで、やはりここは一つ大好きなラジオにあやかってみようかしらと、深夜ラジオのゴールデンタイムである「AM1:00〜AM3:00」ってことにしてみました。

タイトルは変われど、書くこたぁ、変わりませんで、これからもこんな駄文を読もうなんて物好きな方がいらっしゃいましたら、今後もこんな戯言にお付き合い願っておきます。

 

 

『誰もいない国』@新国立劇場小劇場

 

どうもこんばんは。

 

ちょうど今さっき初台の新国立劇場から帰ってきたところです。

新国立劇場で「誰もいない国」(作/ハロルド・ピンター  演出/寺十吾)18:30の回を観劇してきました。

 

柄本明さん、石倉三郎さんという大ベテランによる、不可思議な関係から生まれる不可思議なやりとりに、有薗芳記さんと平埜生成さんが加わり、不可解さの増す不思議な舞台でした。

 

私の勉強不足でノーベル賞受賞作家のピンターの戯曲は一度も読んだことがなく、とにかく、ついていくと言うか、俳優陣の口から放たれる一言一言を受け入れるので精一杯な2時間でした。ただ、とにかく、「間」というものがとにかく大切に演出されていることはわかりました。

帰りにイノシシを轢いて遅れた小田急線でパンフレットを読むと、ピンターを研究している小田島創士さんと今作の訳者である喜志哲雄さんの対談の中で「ト書きの間と沈黙を分けている」と言う発言から合点。セリフ量の割に長い公演時間、一人の長いセリフとしばらくの沈黙を繰り返すような応酬、された質問に長い間をおいての回答、まあ役者陣のセリフとセリフの「間」が気になる演出でした。

 

もう一つ気なるのは「水」による演出です。

舞台後方は真ん中にベットが置かれ、一段低くなったそのベット周りは水が張ってあります。そして、事あるごとに上から滴る水。そこには水としての視覚的効果よりも聴覚的な効果の方が観客に迫ってくような気がします。

 

柄本さん演じるハーストと石倉さん演じるスプーナーの関係の変化というよりも揺れ動きが難しい作品でした。ハーストから見たスプーナーは冒頭はパブで初めて知り合った詩人、それが一晩経つと、いきなりうちにいる見た事ない男、そして、過去を回想すると、過去に不貞を働いた女性の夫とその都度、誰と話しているのか見失います。

そこが本当にわからない。私たちが会話のやりとりのどこからその糸口を見つけたらいいのか見当がつかない。

ただ、ハーストの中にはその都度確固たるスプーナー像があり、夢か現か若き日のことが嬉々として語られていきます。私たちは変に探ることなしにフォスターやブリグズと同様その語りに耳を傾ける。

そのじかんの不思議と心地いいこと。理解できないことにワクワクしていること。

 

演出の寺十さんと芸術監督の小川さんがパンフレットの対談で「わからないことが面白かったりもする」と話している。

自分に理解できないことを変に頭で考えようとするのでなく、わからない浮遊感に漂う。それはそれは非日常的な体験で面白い。

 

新国立劇場で11月25日まで。

興味のあるかたは是非。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

下北散歩と妄想の螺旋

 

どうもこんにちは。

 

斉藤和義さんの「ずっと好きだった」という曲はちょっと染み入るような始まり方をする。

 

この街を歩けば  蘇る16才

 

この曲の冒頭は私の中の下北沢の街に重なる。

私の記憶の中だと下北沢によく通ったのは高校卒業して大学入学以降だから、16才でなく、19,20才の頃なんだけど、その辺りの時期は、何かをやりたいがどうしていいか分からず悶々としていた私と重ねてもいいんだと思う。

 

あの街は不思議なごった感がなんとも言えず心地いい。

タイヤをパンクさせそうなくらいトゲトゲのパンクお兄さん、草間彌生の崇拝者だろうなと思わせる色と水玉の服に包まれた前衛お姉さん、いつでも口が「あめんぼ赤いなあいうえお」って言ってそうなジャージ姿の劇団員さん。

とにかく、色んな世界観で生きている人たちがグッと集まって生きている。

茶店の窓際に座って窓の外を眺めていると人生観の博物館になる。ひょっとすると、ムンクの作品が並ぶよりも醍醐寺の仏像が並ぶよりも面白いかもしれない。

 

その中でも意外と目を引いたのが、髪は真っピンク、スカートは膝丈の真紫、上着はカブトムシを凌駕する光沢を放つ真っ黒。ブーツは真緑のゴツゴツ。コンセプトも何もわかったもんじゃないお姉さん。アリスも驚くだろう世界観。自転車にまたがって踏切を待っている。

そんな彼女の自転車のカゴには2ℓの水のペットボトルと葉物野菜が入ったオオゼキの袋。きっとここ下北沢に生息…って言い方は失礼だけど、まあ、生活しているわけだ。

 

彼女の顔にはちょと誇らしいような自信が溢れている。

サブカルの巣窟に暮らすことに憧れる人は割合いるだろうし、きっと数年前の彼女の姿なんだろう。

それを叶えた彼女は、今下北にいる人間全員がそこで暮らしたくてウズウズしている頃の自分にしか見えないんだろう。

彼女の脳内の私(を私の脳内で妄想するややこしい状況だ)は「うわ、下北に暮らす人はやっぱりオオゼキユーザーなんだ!僕もここに暮らすことにしたらやっぱり オオゼキのポイントカード作ろう!」と下北住まいにオオゼキ通いを重ねて思い馳せていることだろう。(と、私の脳内で妄想しているだけ、再三言うが念のため)

かつての自分の夢だった下北暮らしを下北中の人間を羨んでいるように見えて仕方ないのだろう。

 

かく言う私もそんな茅ヶ崎市民だ。

 

憧れの海沿い、サザンビーチまで徒歩3分。

海水浴シーズンに134号線に並ぶ他県ナンバーの車を自転車で追い越し、海に向かえばこう思う。

「きっと車の人たちは自転車で来れるこの地に住んでる私が羨ましいんだろう。どうでぇい!毎日サザンビーチだ!」って。(こう妄想する私を車の中で妄想しているかは知らんが)

越してくる1年半前まで茅ヶ崎の海沿いに住むことに焦がれたし、出かけ時にラフな格好でフラフラする茅ヶ崎原住民が羨ましかった。

 

きっとさっきの下北ピンク人も私もさほど変わらない。

プライドではないが、ちょっとした誇りというか夢叶えた自信が体の内に収まらずに、溢れてしまう。

 

住む場所にそんなちょっとした夢があるのは素敵なことだ。

そんな素敵な下北に免じて、踏切が開いてから2ℓの水の重さによろけて私にぶつかってきたことを許すことにする。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

アジャラカモクレン、ムダナモノ、テケレッツノパ

 

どうもこんばんは。

 

危うく、10月一つしか書かないで終わるところだった。

誰に頼まれるでも、書いてどうなるでもないのに、書いておこうと思う何かがあるんですね。

 

さて、それで最近私が何を思っているのか。

くだらないことばかりで、しょうもない。

それをここに書いておくことにもなんも意味がない。

 

でも、やりたい事、なっていたかった自分とのギャップを埋めるのに何かやらないと行けない気がして、その一つとして、ここに何かを残しておこう。

 

なんかここのところ、気力のない何かをすり減らす生活がダラダラ続く。

 

私の持論だけど、人生はすり減らすだけの時間だと思ってる。

時間だって、寿命だって、気力だって、体力だって、金銭だって、あるのか知らんけど運だって。

目に見えるようなものから、見えないもの、あるのかどうかわからないものまで、全てを持って産まれて、死ぬまでそれをすり減らしながら生きていく。

それは『死神』って落語に出てくる寿命のろうそくみたいもの。

 

そんなでは面白くないので、どこかですり減らしたものを回復したくなる。

そのために、何か趣味だったり、とにかく無駄なものを見つけてみる。

何か無駄だけど、夢中になるものを見つけると、すり減らすだけの生活の中で何かを回復をすることが出来る。一番回復を実感するのは気力だったりする。

それはマリオのコインみたいなもので、取らなくたってゴールするし、ピーチ姫を救うことが出来る。

でも、クリボーを倒すためにジャンプしたついでに、コインを取っておくと何かの時に役立ったりする。役立たなくてもいいんだけど、役立つ。役立たなくてもいい分、役立つことが嬉しい。

 

生きることに必要なもの以外は全部こんなもんだ。

それがすり減らす人生の中で、ちょっとした回復になる。

 

そんなものが必要だ。

あってもなくてもいいものが一番必要なもんだと思う。

 

というわけで、ここに書いて回復するわけではないんだけど、回復の糸口になる。コインにならなくても、コインの製造過程に入ることにはなる。

さて、今日もそんな無駄ものに囲まれる。

 

『またここか』@ DDD AOYAMA CROSS THEATER

 

どうもこんばんは。

『またここか』(脚本 坂元裕二/演出 豊原功補)10月2日19時からの回を観劇してきました。

 

坂元裕二さんといえば直近だと「 anone」に始まり「カルテット」「問題のあるレストラン」「Mother」「woman」「最高の離婚」「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」「東京ラブストーリー」と挙げればキリが無く、書けばどれも話題作って脚本家さんですが、いつも登場人物たちがどこか現実の私達と同じ世界に生きてるんじゃないかと戸惑いすら覚えてしまう現実味の帯びた残像と会話の節々でみられる空(くう)を交差するつい笑ってしまうやりとりがなんとも言えない魅力な作品たち。

anone Blu-ray BOXカルテット DVD-BOX問題のあるレストラン DVD BOXMother [DVD]Woman DVD BOX

最高の離婚 DVD-BOXいつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう DVD BOX東京ラブストーリー DVD BOX

観たことないものがある方は是非、一回ご覧になることをお勧めします。

中には拙い考察を書いたものもありますので、よろしければご一読を。

「anone」 - なんてたってジョニー

『往復書簡 初恋と不倫』 - なんてたってジョニー

 

さて、今回の『またここか』ですね。

東京だということを忘れてしまうほどのどかな所に位置するガソリンスタンドに集う4人。店長とバイト。兄を名乗る作家と不機嫌な看護婦。不明瞭で不均衡な4人の関係と人間性。彼らのやり取りに笑いながら、互いに感じるちょっとしたズレを認識し、それは物語の奥行きが広がるにつれて笑えなものだと気付かされていく。そして、その奥行きは思っていないほどに暗く深いところまで広がっていた。

 

イヨネスコに似た「不条理」「ズレ」と坂元裕二が放つ私たちの足元に落ちていそうなごく自然な会話。どちらかが強くても弱くても成立しないバランス。この難しいバランスが心地よく、時にわだかまりを与える。その均衡を保っているのが抜群の演出。掴めるようで掴めない感情を台詞に吹き込む役者陣。初舞台の役者さんもいたようで、時々、不安なところもありましたが、4人の座組がしっかり芝居として成立させていました。特にバイトの宝居役の小園茉奈さんの力の抜き様が素晴らしかった。昨年のナイロン100℃の公演『ちょと、まってください』でマギーさんとメイド役を好演した彼女ですが、今回の自由で奔放な読モ役も非常に良かったです。

 

坂元裕二作品について思う時、いつも不思議なのが、台詞が具体的であればあるほど、その具体性が捨象されて、共感が強くなることです。

 

結婚とかないよ。そういうのはもう、もうないかなぁって思った時があったんだよ。こういうのは今日だけのことだよ。まぁ、私もずるいし、別府くんもずるい。でも、寒い朝ベランダでサッポロ一番食べたら、美味しかった。それがあたしと君のクライマックスでいいんじゃない?

 

これは『カルテット』の2話からのセリフの引用です。

早朝に肌寒いベランダでサッポロ一番を一夜だけ関係を持った人と食べたことなんかないんです。でも、この台詞を聞いて、たしかに経験したことのない状況なのに、何故か自分がそこにいる。そして、一緒にサッポロ一番を食べている誰かが思い浮かぶんです。その時、別府の体験はドラマの中を超えて、もう私のものとして私の中で受け入れられている。

こんな台詞が坂元裕二作品では頻繁にみられます。

そして、こうした台詞が登場人物たちに私達と同じ世界で生きていると錯覚するほどの活き活きさを与えているんです。

 

2時間の芝居の中で、4人のリアリティ溢れる体験を台詞と共に追体験することでクロスオーバーしながら、登場人物たちでなく、「私」がそこにいる物語として違うものが映し出されます。

 

時々思うことがあります。

私が「赤」と認識している色をみんなも「赤」と認識しているのだろうか。実は、みんなが言う「赤」は私が言う「青」なのではないかと。

 

同じことを観ながら思いました。

舞台にいるのが、隣の観客も見ている「役者」でなく、「私」になった時、同じ芝居を観た人がいると言えるのだろうか。私が観た芝居と隣の人が見た芝居は違うものになるのではないかと。

何かのインタビューで坂元さんは「こんなこと思ってるのは自分だけじゃないだろうか、と言う人にほど届けたい」と言う趣旨のことを言っていた。物語の外でも生きているような登場人物と、彼らの台詞を受け入れる私たちとの中で、それが可能となっている気がします。

 

今月8日まで公演は続くようなので、興味を持たれた方は是非、観てみてください。

観劇が難しい方は戯曲本も販売があるそうなので、こちらも合わせてお勧めします。

 

またここか

またここか

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。