寝坊で爆ぜてポテトの思い出
どうもこんにちは。
今朝、目がさめると5時28分。定刻出勤に間に合う茅ヶ崎発の電車も奇しくも5時28分発。
こうなりゃしょうがない。自転車で行こう。
ってんで、すっかり冬が終わって日の出時刻が夜明けを早めたせいか、5時台でも十分明るい国道134号を江ノ島に向かって爆走する。文字通りの爆走。爆発的に走った。爆ぜながら走った。
お陰で5分前には出勤して、なに食わぬ顔で仕込みを始める。一緒に働いた人も隣の子の男が茅ヶ崎ー江ノ島間を自転車で20分で走ったとはつゆも思わなかっただろうね。
帰り、雨が降りそうな心もとない空と海を眺めながら自転車こいでると、マクドナルドの看板が。すっごい久しぶりに入って、ハンバーガー食べ、コーラ飲み、ポテトをつまんでボーッとする。
なんか懐かしいことを思い出す。
子供の頃、たまに日曜日のお昼がマックになることがある。その週の食費に余裕ができたからなのか、母親が楽したいからなのか、なんだか分かんないけど、「『今日、お昼マックね』の大号令」が母から発せられると子供達3人は、とっておいた新聞の折り込みのクーポンから自分が食べたいものを探し出す。家族5人の希望が揃うと子供達が出来たばかりの駅ビルの中に入るマックに買い物に行く。当時のクーポンは一枚で3セットまで使えるというものだった。
レジで家族全員の注文の品のクーポンを並べる。それからもう一枚。Lサイズポテトが150円のクーポン。しかもこれを使って3個買う。
帰ってからハンバガーの入っている茶色い紙袋を一つ破いて一枚のシートにするとそこにポテトを広げていく。Mサイズのポテトが5人分のセットと同じ数の5つとクーポンで買ったLサイズのポテトが3つ。大量のポテトの山。これがなかなかの景色なもんだ。
家族5人はこのポテト山をつまみながら、銘々のバーガーを食べる。という大号令がたまの日曜日に発せられた。
ある日、もっとポテトが食べたい私は考えた。そうだ、ポテトの山を先に食べてからバーガーを食べれば良いのだと。
普段働かない知恵ってのがこういう時に働くあたり、私の食い意地の悪さを感じるね。
ポテト山はみんなのもので私が食べなければ、誰かのものになる。しかし、バーガーは私のものであり
いつ食べたって行き着くところは私の胃袋。ならば、ポテトを食べ尽くしてからバーガーを食べればいいと。なんとも傑作の考え方だ。
意気揚々と母の例の大号令を待つ。その日曜はなんだか発せられる気がしていた。予感は的中、発せられた大号令に従い、いつものようにセットを選んで、クーポン財布に、ポテトと共に買い出しに。
築き上げられたポテトの山はいつもと違って見える。だって、傑作を胸に秘めた私にとって眼前のポテト山は私のものも同然なんだから。
いただきますでみんなが食べ始める。自分のビックマックには目も触れず、ひたすらポテトを食べる。心の中はポテト山を占有してしまうことへの謝罪の気持ちでいっぱい。でも、気持ちと裏腹に手はポテト、口、ポテト、口の反復をやめない。身体測定の反復横跳びなら間違えなく新記録だ。
ふと、隣の妹に目をやると、妹の手もポテトと口の往復をしている。そのまた隣の末の妹の手もポテトと口の往復。向かいに座る両親の手も。そう、私の傑作はみんながよく知る古典だったんだね。
この時の悔しさったらないね。私だけがみすみす家族にポテトを譲ってたなんてね。
そんなことがあったなんても今の今まで忘れてた。
思い出しながら、こうやって文字にする。書けた今、外はもう雨模様だ。コーラは氷が溶けて炭酸のシュワシュワはおろか、甘いのかさえもわからないくらい。
思い出すのにちょっと時間がかかりすぎた。それだけ懐かしい記憶ってことだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
ナイロン100℃session45「百年の秘密」
どうもこんにちは。
昨日、下北沢は本多劇場にてケラリーノサンドロヴィッチさん主宰の劇団ナイロン100℃の本公演「百年の秘密」を観てきました。
私が大学にいた頃、演劇学を専攻するなら卒論ではケラさんかクドカンを書きたいと思っていたくらい好きな劇作家。セリフの端々に冴え渡るナンセンスな鋭感、それらが観客と演者との間に作るくすぐったいような癖になる笑い、そして、作品ごとに全く違う景色を見せる作風の振り幅。
ケラさんの魅力をこんなに簡単な言葉でまとめるなんて恐れ多いというか申し訳なさしかない。
しかし、言葉にしなければ、ここに書き残すことも出来ないのだから、仕方なく言葉でまとめるしかない。
私が過去に一番くすぐられたケラさんのセリフは
嫌な予感がしそうな気がする
ケラリーノサンドロヴィッチ脚本 ドラマ「怪奇恋愛作戦11話」より
ってセリフ。分かるかな?この感覚。私はこの感覚が大好きなんです。ナンセンスってこういうことか!とベケットも別役実もイヨネスコもただの知識でしかなかった「不条理・ナンセンス」が私の中で感覚に変わった瞬間でした。
そんなナンセンスを中心に、最近だと古田新太さんとの「ヒトラー、最後の20000年〜ほとんど、何もない〜」の荒唐無稽なナンセンス芝居に、東京オリンピックの前年の日本を背景に書いたラブロマンスチックな群像劇「陥没」、ザ・別役実ワールドをオマージュしナイロン仕様に仕立てあげた不条理劇「ちょっと、まってください」と各芝居の世界観は多様なもの
そんなケラさん作の今回の「百年の秘密」はティルダとコナという2人の女性の12歳から最後までを描いた人生劇です。
これは再演ですが、ナイロンの芝居の中でも非常に振り幅の大きな作品。どっちに振り切っているかといえば、ナンセンスとは対極な方。もちろん所々にケラさんらしいナンセンスなセリフはありますが、物語全体は一本筋が通って、あまり良くない言い方ですが、分かり易い芝居です。
そういう点で、ナイロンらしくないなと思いますが、一方でケラさんのああいう芝居はナイロンの役者さんでしか出来ないだろうなとも思うわけです。「ナイロンでしか出来ない最もナイロンらしくない
芝居」という逆説を感じます。
あまりあらすじとかをここでいうと観るのを楽しみにしている方に申し訳ないので、極力控えますが、この物語の大きな特徴は、構成です。
2人のヒロインの関係を時系列を追って書くのではなく、断片的に、物理的な時間軸をあえて行き来させながら書き出します。
その往来の橋渡し役がメイド役のメアリーです。彼女の語りによって物語の時間軸を見失うことなく私たちは行き来します。
この時間軸の往来がもたらす大きな特徴は(ケラさんがそれを狙ったか分かりませんが)私たちが想像する人物像の多面性です。それによって短い時間で私たちはより強く彼らを周りの知人や思い当たる節に投影し、世界観に入り込みます。
劇中の人物のその人物像を慮る時、当然、私たちは彼らの言動、動きをもとに考えます。
その時、時間軸がひと繋ぎだと、私たちが登場人物たちの人間性を決定づける要素は冒頭で決めてつけてしまうことが多いと思います。しかし、それは彼らが私たちに見せるパーソナリティの一面でしか無いのです。それなのに、その後に出てくるパーソナリティなセリフは冒頭で勝手に受けたパーソナリティの一部に勝手に組み込んで私たちは解釈します。しかし、現実を生きる生身の人間が一己のパーソナリティ、人間性だけで構成されているわけはありません。舞台上の彼らも同じです。次のシーンで思う人物像は同じ人物でも前のシーンの人物像とは異なる面だったりするのです。しかし、私たちは前のシーン人物像の中に次のシーンの人物像を押し込みます。
しかし、断片的に時間軸が途切れる、いきなり24年後に行ってみたり、ことでその年齢、その時代で同じ人物でも違ったパーソナリティを私たちは受けます。
例えば、15歳のポニーが父親のカレルにお小遣いをせびるシーンの3から4に指を変える時の茶目っ気と晩年のポニーが落ち込んだフリッツにいう「一つ言ってもいい?何よ今更」というセリフの茶目っ気。同じ人物の茶目っ気でも、時間の流れ、人間性の変化などを感じます。ひと繋ぎの時系列では晩年の茶目っ気を15歳の茶目っ気の延長線で見てしまい、そんな私たちでは区別のつかない茶目っ気の違いがあります。これは断片的な時系列ゆえに私たちが思うポニーの人物像がより深い理解、理解は生意気ですから想像にしましょう、がなされたと言えると思います。
長いこと書きましたが、断片的な時間軸に対して私が思う効果です。
で、それがなんだというと、つまり、同じ人物でも前のシーンで私が思った人物像に引っ張られずに、次のシーン、つまり次の時系列で同じ人物に新たな人物像を垣間見ることができるのは、何よりも役者さんの本に対する理解が大きいと思います。ケラさんと25周年を迎えたナイロンの皆さんとの関係性、信頼感の強さを感じます。
それ故に、「ナイロンでしか出来ない最もナイロンらしくない芝居」な訳です。
それ以外にももっと、翻訳劇風なことや室内と室外の重なりとか、実際に劇場で見ると不思議なこと、気付くことがあるんですが、あまり長いと読んでくださる方も疲れますもんね。
と言いつつ、最後にちょっとだけ。
ケラさんの舞台はオープニングのワクワク感が堪りません。まるでディズニーランドの「スターツアーズ」に並んでいるかのようなこれから目の前で繰り広げられる世界に胸が高鳴ります。音楽とプロジェクションマッピングが舞台上で合わさり見せる世界は私たちをどうしようもなく楽しくしてくれます。
ケラ作品のオープニングだけ集めたDVDとか欲しいな。
と、ちょっとのつもりで長々とすいません。まるでポテチのように止まらないね。止めないと。
次の公演「睾丸」も楽しみだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
「今夜、ロマンス劇場で」
どうもこんにちは。
先週の金曜日、3月30日の最後の回に辻堂で「今夜、ロマンス劇場で」を観てきました。
まあ、よくあるラブロマンスなんだろうなと思いつつ、ドレス姿で白黒のモノトーンに映える綾瀬はるかさんが全盛期のオードリーヘップバーンそのものだったのに、そそられて劇場に。
冒頭、白黒で映し出される劇中劇「お転婆娘と三獣士」は国産ミュージカル「狸御殿シリーズ」と重なりつつも、「オズの魔法使い」も彷彿とさせます。
そんな「お転婆娘と三獣士」を小さな町の映画館「ロマンス座」の小さな映写室の小窓から覗く坂口健太郎さんは「ニューシネマパラダイス」のトトそのもの。客席に誰もいない劇場のスクリーンに投影されるお転婆娘と三獣士。
国産映画黄金期の1960年代、そんなロマンス座に雷が落ちるところから話は始まります。
なんて、まあ、あらすじは方々のサイトやブログ、ツイートでお読みになれるでしょうからここに書く必要もないでしょう。
この映画の特筆すべきことは、ったってこれも色んなところで言われてることでしょうが、映画の黄金期を彷彿とさせるそのオマージュシーンですね。
北村一輝さんが一人称を「オイラ」で劇中ミュージカルのナンバーは「嵐を呼ぶ男」の裕次郎です。
映画『今夜、ロマンス劇場で』本編映像<妖怪ダンス>【HD】2018年2月10日(土)公開 - YouTube
公衆電話のガラス越しに唇を重ねる2人は「また逢う日まで」の映画史に残る伝説的シーンだし、映画の中でテレビの勢いに押され、衰退していく映画そのものを書き出す手法は「雨に唄えば」を思い出させます。
この他にもきっと映画通の方はもっと映画愛に溢れ、映画への尊敬の尊敬の念に満ちたシーンにお気付きでしょうね。不勉強なもんで。私が見つけたのはこれくらいです。
あとは、映画の色彩感。綾瀬はるかさんが白黒という設定に退避させてか、とにかく画面中が色、色、色で埋め尽くされます。その鮮やかさの綺麗なこと。
そして、ラストのシーンはおざなりで紋切り型のラブストーリーが多いこのご時世になかなかないひねりが効いて、裏切られ、泣かされる結末でした。
ここでの石橋杏奈さんの今時の子感が現代と60年代を行き来する中でとっても効いてきます。
成し遂げられない愛を描いた代表作「カサブランカ」もこの作品の結末にとっても大切な役割を担っています。
映画愛に溢れた演出と、よく作られたストーリーと、色彩感に富んだ映像美ととてもよかったです。
映画ファンには真っ先に観ていただきたいですし、そこまで映画を観てきてない方もストーリーだけで十分ジーンと来る作品でした。
最後の最後に間に合って、スクリーンで観れて良かった。
では、こりゃまた失礼いたしました。
春とかふらふら浮ついて
どうもこんにちは。
3月が終わってそろそろ4月。そろそろ世間様じゃ、新生活だなんて、ほとんど意味のないような区切りでもってワクワクしたり、不安になったり忙しい時分。なにも自分から生活にそんなハリを出さなくても良かろうものを。なんてことを春になって周りを見ながら、ふらつきながら思う。
でも、たしかに春は浮遊感に遊ばれるような季節だね。
常に何かが浮遊して舞っているイメージ。散りゆく桜のことかしら。新しいことに浮つく期待感かしら。暑いも寒いもどっちつかずの気候もかしら。花見の宴も浮つく席だ。新年に決めた目標もどっかに舞ってちゃうから新年度に今一度目標を立て直したり。
とにかくなんかふわふわしているそんな気分。そんな空。
かくいう私もこの時期にふわふわ舞っていて、朝時間を見つけては出勤前にサザンビーチに舞って行ったり、海岸沿いをふらふらしたり。
寒くて籠る冬の反動かしら。
仕事だなんだといって、冬に籠りきれてないとこの反動をもっと爽快に楽しめない。やっぱり季節に合わせて、お天道様に合わせて生活するのがいいんでしょう。大きな塊の渦に巻き込まれて、季節もない、天気もない、なんでも一辺倒の生活をするなんてほとほと無理なのにね。十二分にその歪みは目視できているはずなのにね。
私たちは春の楽しみも半減に、なんだか分からない渦に巻き込まれていく。本当は何が渦巻いてるが分かってるけど、知らないことにしておいた方がいいらしい。
なんの話をしているのでしょうね、私は。
渦だのなんだの言わなくても春は十分いい季節じゃない。
では、こりゃまた失礼いたしました。
米が美味しいのはサウナが気持ちいいのと一緒らしい…
どうもこんばんは。
今日はいよいよ四温でしょうかね。そろそろ「寒」とはお別れしたいな。
外を歩くと桜が咲いてたり咲いてなかったり。花粉が飛んでたり飛んでたり。まあ、私は花粉症じゃないからいいんだけど。
仕事がなかったら、コーラ片手にぶらぶら歩いて行きたかった。散歩、いいでしょ。そんな日和でしたね。
午後から仕事で、23時ごろ終わって、帰りに茅ヶ崎駅と平塚駅の間にあるスーパー銭湯に寄って、露天風呂で「バクモン学園」の最終回見たり、サウナで熱さに堪えながら「月曜から夜ふかし」の心理テストやってみたり、ぼーっとしたり、何か考えたり。お風呂ってのはなかなかいい時間だね。
考えてた何かってのは、とりとめのないことをヒュルーっと行き来したりするんで、ここで明るみにするのは、難しいんだな。
ただ、最近全然深く物事を考えてないな、と思ったり。
前は「思考してます、思索してます」なんて偉そうなこと言えるほどのことに脳みそを回してたのか、って言われると口を噤んじゃうんだけどね。
でも、人の考えに触れて、自分の中に落とし込んで、吐き出して、自分のなりの形に変えたり、全然違うものにしたりしてもんな。
前は、民主主義への反感から、平等の正義に反駁を試みてみたり、生意気なことしてたもんだね。
こうやって考えてると、自分の中にまだ自分がいることに気づいて、その彼がまた何か言ってくるんだよね。
まあ、そんなことでなくてもいいから、何か深く考えるようなことしたいな。
そういう場が欲しいな。読書会とかね。
自分の考えを人にぶつけて、反響を楽しんだり、また悩んだり。
人にぶつけると、意外にもう一人の自分の方が、反響が素直だったりする。
他人の反響と自分の中の反響とね、また頭をぐるぐるするんだよね、心地いい。
反響を楽しむってのはお風呂と同じかもしれない。
広ければ広い分だけ音の行ったり来たりに落ち着いたり。広く大きいことを思索すればするだけ面白い。
お風呂での思索ってのは反響の融合だ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
今昔噺、アイドル噺
どうもこんにちは。
これが三寒四温かってのを実感する気候ね。2日おきくらいで真冬と春先を行ったり来たり、戻って来たりとせわしない。
この前、甘いものが食べたくて入ったコンビニの店員のお姉さんが綺麗で、ナナコで支払いを終えて、レシート渡されてから、気付いたことがある。そういうやこうやってカードでピッて支払うようになってから、お釣りを渡される時に手を添えられてドキッとすることがなくなったな、と。
別にドキッたって変な下心があるわけじゃないんだけどね。
そんなことで、乾いた気持ちでコンビニを後にする。
おんなじようなことが他にもあって、LINEが当たり前になってから携帯のメールというやつをほとんど使わなくなった。最近の中高生はガラケー持たずに初めてがスマホからなんて子はざらじゃない。
LINEのいつでも過去のトークが見返せて、電話がタダで、スタンプが可愛くてって便利でいいもんだね。
一方のガラケーは、メールのやり取りが一目で確認できないし、通話料はもちろんかかる、絵文字を使おうもんならすぐに容量は重たくなる。
でも、ガラケーのメールの方が好きだったな。アドレス毎に着メロやランプの色を変えたりなんかしてね。サザンの「メロディ」なんて聞くと、当時付き合って子を思い出す。こういうのは、スマホから持った子たちには分かんないんだろうな…。
お釣りに添えられる手とガラケーの着メロと何が「おんなじようなこと」なのか。
先日、職場のバイトの女の子が言ってたこと。
「ブスなアイドルの方が応援したくなる」んだって。急になんのこっちゃ。
でも、そうかもしれない。なんとなく的を得てる。
昔のアイドルはある意味で未完成のままデビューして、だんだんとその人の「ニン」に合った可愛らしさを見つけて、アイドルとしての枠というか形というかを作り上げて、成長していくイメージ。未完成たって、バイトの子が言うよな「ブス」じゃないけど。
今のアイドルは容姿もキャラもすっかり出来上がった頃にデビューする。これがどういう変遷で、何をもってこうなったのか分からない。ただ、完成されたアイドルはアイドルとしての枠が出来上がっているから、それを壊すところに成長を見出すことができるのかしら。
たとえば、乃木坂46の中田花奈さん。毎週金曜日にFMーfujiにてお笑い芸人、アルコ&ピースとラジオ番組「沈黙の金曜日」のパーソナリティを務めている。この番組はアイドルがMCとは思えない深夜ラジオ感で包まれている。アルピーの下ネタやすぐに始まるコント、サイコパスな世界観に困惑しつつもうまいこと返す中田さん。アイドルという枠がどんどん外れる楽しさがある。もちろん、その枠を一緒に外すアルピーが面白いからってのが大前提だけど。
にしても、80年代アイドルは私の中で
ま、普段そんなにアイドルとか気にしない私がいう戯論ですけどね。本当のアイドル好きに失礼か。
さて、日曜日。
今日は休みだ。なんかゆっくりしよう。
では、こりゃまた失礼いたしました。
どどどどどどどど、どー
どうもこんにちは。
久しぶりに書こうと思うこのブログも、最後に書いたのがあまりに遠い過去のことで、何から書いたらいいやらで、一旦読みかけの本に目を浮つかせると、そのままこっくりこっくり…
ハッと気がつくと開いたままの122ページの本を置き去りに、カフェにて時間だけが小一時間。そんなに眠けりゃ、帰ればよかろうものを区切りの一つでも書いておこうと意固地になって、書いてみたけどここでまた筆止まり。
そうだ、今日は休みで昼ごろから前から誘ってあった友達と海老名で映画を観たんだ。本当は12:25の回のチケットを取ったから、お昼を食べてからの予定だったんだけど、相手の花粉症の深刻さと私の胃袋の中の密度が邪魔して、結局、昼食を後回しでふらふら時間を潰して劇場へ。
今日見たのは「ドラえもん のび太の宝島」
私がドラえもんを観ようという日がくるとは思ってなかった。
というのも、小さい頃、我が家では、母親がのび太の意気地のない性格が癪に触るという理由でドラえもんはR指定がかかっていたので、見せてもらえなかった。まぁ、あんまり見たいとも思ってなかったんだけどね。
それがどういう風の吹き回しでドラえもんなんざ、興味を持ったかというと、私の興味をそそったのは脚本担当の川村元気さん。
映画好きの人の中には知ってる方もいらっしゃるでしょうが、この人は一応、肩書きはプロデューサー。一応というのはプロデューサー以外にも色んな映画との関わり方をしてるから。彼の関わった作品を挙げたらきりがない。
電車男(2005年) - 企画
そのときは彼によろしく(2007年) - プロデューサー
陰日向に咲く(2008年) - 企画・プロデュース
デトロイト・メタル・シティ(2008年) - 企画
告白(2010年) - 企画
悪人(2010年) - プロデューサー
モテキ(2011年) - 企画・プロデュース
宇宙兄弟(2012年) - 企画・プロデュース
おおかみこどもの雨と雪(2012年) - アソシエイトプロデューサー
聖☆おにいさん(2013年) - プロデューサー
青天の霹靂(2014年) - 企画・プロデュース
寄生獣(2014年) - プロデューサー
寄生獣 完結編(2015年) - プロデューサー
バケモノの子(2015年) - プロデューサー
バクマン。(2015年) - 企画・プロデュース
君の名は。(2016年)- 企画・プロデュース
怒り(2016年)- 企画・プロデュース
何者(2016年)- 企画・プロデュース
打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?(2017年)- 企画・プロデュース
あと、小説家デビューののち、原作で参加したのが、
世界から猫が消えたなら(2016年) - 原作
これは佐藤健、宮崎あおいのダブル主演で脚本が岡田惠和さんで私の中でもお気に入りの一本。
どうですか?このラインナップ。知らない作品あります?どれこれも話題作ですよね?
そして、今回脚本で参加したのが、
ドラえもん のび太の宝島(2018年) - 脚本
これはちょっと興味そそられるってんで観てきたわけです。
で、結構良かった、面白かった。
子供向けのアニメのつもりで観に行ってたけど、大人の私も楽しめました。なんというか、テーマが結構深いね。深いんだけど、段階を踏んで深度が増して行くんで、いきなり子供に深いテーマの理解を無理強いさせてない。というのは、一番深いテーマはノアの箱舟を引っ張り出してきて功利主義的なエゴを書いてんだけど、その手前に家族愛的なテーマ、もっとその手前にはのび太が勇気でもってドラえもんを助けに行く自己犠牲を孕む正義感とか、これらがごっちゃになってるんではなく、ちょっとづつ難しく書かれているから観る人の解釈に応じて、浮き出るテーマの数も違ってくるの。
だから、今日、同じスクリーンで観た子が、数年後見返したら、パパと仲良くね、って感じた子が違うシーンにウルっとくるかもしれない。違うテーマにジーンとするかもしれない。そういう感じ。
あとは、冒頭の異常気象、クイズ、999人、フレンチトースト、海が怖いクラゲ、とか伏線がしっかり効いたまま回収されてるので、物語の重なりも面白い。これは詳しくいうと、これから観る人の楽しみを半減させてしまうんで、静かにしてます。
ただ、私みたいなドラえもん初心者はおなじみの道具でもちょっと説明が欲しい。急にちっちゃいドラえもんがわたわた現れたり、輪っかを取り出して素材がどうの、とちょっとドラえもんのひみつ道具が飛び道具的扱われちゃって、雑さを感じちゃう。そんなにみんなドラえもんの道具を知ってるの?
と、いうところだけがちょっと多めのエピソードやちょっとつめつめの展開に押されて残念だなと思ったくらいです。
でも、子供向けのアニメと侮るなかれ。大人も結構面白い!
ちょっと過去作も見て観ようかしら。
でも、その前に今朝の寝坊のせいでやらなきゃいけないことが溜まってんだ。
どどどどどどど怒涛ーに溜まってる家事を片したらね。
あーくだらない。
では、こりゃまた失礼いたしました。