2021年 年頭言
どうもこんばんは。
あけましておめでとうございます。今年も気力の限りに書きたいと思います。
お付き合いのほど願っておきます。
上の写真は去年の手帳に書きためた記録です。
映画や本など、一年の記録を付けたものです。
展覧会や演劇が例年に比べて異常に少ないのがまさに2020年の象徴とも言えますね。演劇の欄に入れてるけども、半分くらいは配信作品だったりしますし。
代わりに家でも観れる映画は割と観た方だと思います。Netflixと映画の配信サイト「シネマディスカバリー(https://cinemadiscoveries.co.jp)」をメインに漁っています。漁ると言うほどでもないか。
後者は面白いサイトで、作品紹介がやたらと細かい。さらに作品レビューや監督インタビューなどのサブコンテンツが豊富なので、まず一度目に作品を観て、サブコンテンツを読んでから、二度目の奥域の広がった鑑賞と言う楽しみ方ができるのがいい。
今年は(なんて毎年言ってますけど)もっと精力的に勉強していこうと思います。
作品を読んだり、観たり、とにかく足を動かして、時間も労力もお金も惜しまずに。
たまに人に映画や本なんかを紹介すると、「どうしてこんな作品知ってるの?」と聞かれることがある。
きっと質問者の真意は「どうやっていい作品に巡り合うの?」と言うことだと思う。
いい作品に巡り合っていると言うのは厳密には正しくない。理由は二つある。
まずもって、それに出会うまでには結構なハズレ(もちろん、個人的にはと言う意味の)を引いていると言うことだ。と言うか、ハズレの方が多いと言う方が正しいくらいでしょう。
世の中でありふれている作品の数がこんなにもおびただしいことを考えれば、当たり前のことだ。ガンジス川の砂の中から間違えて落とした硬貨を探すに等しい。
決していい作品に巡り合っているわけではない。
もう一つ。
私がガンジス川の砂を硬貨にしてしまう、と言う側面もある。
300ページの分厚い本を読んだとして、たった一行でも私が揺り動かされる一文があれば、他の299ページはハズレでも、この本は私にとって硬貨になる。
三時間の長時間の映画も同様。たった1秒でもハッとするシーンに巡り合えれば、10,799秒がハズレでも、私はこの映画を硬貨だとする。
作品のどこを好きになって、どこに愛着が湧くかなんて、ハズレを引く覚悟で、触れなければ、わからないのだ。
こんなことから、最初の質問には
「時間と労力とかけたお金に比例するんじゃない?」
と、大抵、答えている。
わかる人とわからない人といる。わかる人とだけ話をしたい思う。
要するに、今年は横着せずに、近道を行こうとせずに、ハズレを堂々と引こう。
そのあとで、何がハズレだったのか?どこをハズレだと思ったのか?
それを深く考えて、言葉にする活動をここでしていこう。
考えてみれば、2020年と言う一年が多くの人にとって「ハズレ年」だった。
その理由にミジンコみたいな外的要因を挙げ連ねて、自分の中に振り返らないのでは進歩がない。
私の人生はガンジス河の砂ほどの時間はないのだ。だったら、去年拾った砂を硬貨に変えてしまう方がいいではないか。
そんなことを考えながら、今、生きています。
どうも私は今年、錬金せにゃならんようだ。
10の56乗。
そんなこんなで、今年も駄文を無限空間に散らして行きます。
よろしくお付き合いください。
では、こりゃまた失礼いたしました。
何をするにも億劫だってこと、クリスマスとの交換
どうもこんばんは。
昨晩は会社の忘年会で、この時期にちゃんとやってしまうところにびっくりなんだけども、鎌倉は長谷の割烹蕎麦屋さんへ。
丁寧な仕事と行き届いた接客、これで社長への緊張感がなければいいのだが…
会社のお金でご馳走になっていれば、そうもいくまい。
社長や上司から期待や今後のことの声が重たい。
今後の人事について、私に仕事を任すと言うことについて、あんなに蕎麦が喉を通らないこともない。
帰りのタクシーで今後のことについて少し揺れてしまう。
それでも、今の私に必要なことは勉強することなんだろうと思う。今、この会社に留まり続けることは簡単だけれでも、それが楽な道ではあるけでも、やっぱり勉強したいと思う。
最近、近しい人に今後の話をすると、「大学出て何するの?」と言われてしまう。
みんな私がなんらかの資格のための進学だと思っているようなのだ。大学を卒業しないと出来ないことのために、なんらかの手段としての大学進学を想像しているのだ。
私は大学進学後に何かを決めていることはない。強いて言えば、最終的に自分の喫茶店を持ちたい。別段、喫茶店店主に大学卒業の資格は要らない。
最近、この環境を変えることに関しての億劫さが何をするにも先立つ。
洗濯機を回すにも、米を研ぐにも、何をするにも、まずこのことが頭をよぎる。
あと、関係ないけど、今飲んでいるコーヒーがまずい。
どことは言いませんけど、よく店名のロゴがトートバックとかタンブラーのデザインになっているチェーン店。何かとパンが高いカフェ。
見回すと、スマホを覗いた女性しかいないようなカフェ。だから、どうでもないんだけども。
スマホを覗くだけなら、家でも良かろうに、わざわざ駅から歩いたここまで来るなんて、どうしたんでしょう。
町中にクリスマスソングが鳴り響く。
クリスマスソングというと、何故だかトランペットが張り切るアレンジが多いので、だんだん耳が痛くなって来る。
どれだけの人が浮かれているんだろうか。私の方はというと、もう何年もクリスマスで浮かれていない。
浮かれるということがどういうことだったのかもはや覚えていない。
過去にはクリスマスに泊まりでディズニーに行ったり、余力が生まれてお金をかけたクリスマスを過ごしたりもしたが、一番鮮やかな記憶は、二人乗りで近所のイルミネーション巡りをした高校時代だろう。電気代が気になってしまうほど家中を電灯で張り巡らした家もあれば、玄関先の植木に申し訳程度の明かりを灯す家もあった。
12月の寒さと背中に感じる温もりと、ああいう時間は帰らないのだろうな、と思う。
いつのまにか、大人になるにつれて何かと交換に淡い記憶と石化させてしまったようだ。
終わらない億劫は当分続くことでしょう。
そんなことより、英単語やろう。
では、こりゃまた失礼いたしました。
「危険なビーナス」と受験理由
どうもこんばんは。
今クールのドラマがほぼほぼ終わってしまった。
意外と「危険なビーナス」を最後まで見てしまった。
東野圭吾原作作品に吉高由里子さんがキャスティングされていたところからして、このドラマの大きな仕掛けだったのだ。
それから、冒頭でお決まりだった妄想からの「こんな事が起きるはずがない…とも言い切れない」というオチがラストシーンで生かされていた。
昔の母親の死と現在の弟の失踪との二つの事件を重ねながら、いきなり目の前に現れた「失踪した弟のお嫁さん」という人物と謎の多い矢神家を探っていく物語。その謎にはいかにも理系の大学卒の東野圭吾さんらしい聞いたこともない数学やサヴァン症候群といった理系の要素が絡まっていく。
テレビドラマはやっぱり面白い。もっと勉強して、体系的に語れるようになりたい。
全く関係ないけど…
コロナで世の中は確かに変わった。変わった世の中に誰も追いつけていない。何が起きているのか、どうなっていくのか、誰がわかっているのか、分かったようなこと言う人間の正体、メディアの正確さ。わからないことだけが蔓延るようになった。
それを分かりたいと思うのもわかる。私もそれを知りたいと思う。
ただ、それに振り回されている人間が多いように思えてならない。
生きることは、当たり前だけど、世の中で存在することに他ならない。コロナに大きく飲み込まれた世の中で生きていくと言うことで、存在すると言うことで、時代のパラダイムに立たされることになる。歴史の教科書で何度も見てきたパラダイムに今、私は立っているのだ。中大兄皇子が蘇我氏を倒した時、平清盛が武家初の太政大臣になった時、種子島に鉄砲が伝来した時、ペリーが浦賀にきた時、ポツダム宣言を受諾した時、私たちは何度とないパラダイムを教科書で見てきた。今、私たちはその時に立っているのだ。教科書に刻まれるその時にいるのだ。
ただ知識として知っていることに意味はない。
ずっと考えてきた事だ。
このまま、このパラダイムに飲み込まれてしまっては、ずっと考えてきたこの言葉そのものが知識として形骸化してしまう。
そうならないために、やっぱり勉強したい。
そのために決めた大学再進学だった。
それでも、周りに理解される必要はないけど、説得しなくちゃいけない人たちはいる。会社も辞めなきゃいけない。
人事の仕事を任されて、名刺も作ってもらって、仕事を背負うようになったこのタイミングで止める必要があるのだろうか。そんなことを思わないでもない。
それでも、今、このタイミングで勉強することに意味がある。少なくても私は意味を見出したのだ。
あーここにだったらいくらでも書けるのに。
これを周りに伝えることに労力がいる。環境を変えることに必要な労力が、一番億劫だ。
とか思いながら、受験勉強もしないと。
では、こりゃまた失礼いたしまいした。
まあ、理解を求めているわけじゃないんですけどね、自分のために一応しておきますよ宣言
どうもこんにちは。
毎回「どうもこんにちは」から始めていて、この一行目はいつもすんなり打てるのに、エンターキーを二回押して、改行してから先が進まない。書きたいこと、考えていることは確かにあるのに、なんて一言で始めればいいのだろうか、考え出して、数分経つ。
結局、不本意で濁したような言葉を並べて、ウォーミングアップしている。
海に出て、冷たい風を受けながら、「この人生、ドロップアウトだな」と声にしてみた。
それで一気に気持ちが切り替わって、とりあえず、今のうちに言葉にしておこうと、急いで帰って、ここにいる。
ここ数年ずっと、もっと勉強したいという思いを強くもっていて、そのために、足繁く本屋に通ったり、見たり聞いたりしてきた。でも、それではどこか物足りなさ、つまり、中途半端さが残っていて、でも、その半端さが私の現在の生活から捻出できる最大限のものであるし、かと言って満たされないことへの不満はあるし…なんていう風に欲求と言い訳を読点で繋いできた。
こんな正しくないだろう読点の使い方に疲れてきたし、徐々に言い訳がバカらしくなってきた。
誰に対しての言い訳なのか。
ー抑圧された私自身に対する言い訳だ。
何で自分自身を抑圧するのか。
ー……。
いつのまにか目の前にあるものを投げ打ってしまうことに恐ろしさを抱いているんじゃないか。
ーもう何も聞きたくない。
自分を抑圧している自分に抑圧を強いているものなんだ。
ー私がやりたいことをやることを誰にも理解されないだろうという懸念みたいなものだよ。
そんなもの要らないじゃないか。目の前の欲求のために投げ出す目の前のものに投げ出すことを理解されなくても何も困らないだろ、理解されて何になるんだよ。
ーこの人生、ドロップアウトだな
一人で寂しく、こんな小芝居をしているわけだ。頭の中の劇場には、観客が私一人しかいない。
観客は最後のセリフを聞いて、思わずスタンディングオーベーションして、拍手喝采している。
そういうわけで、私は何の計画も試算もないままにもう一度大学受験しようと思っている。
正社員として、社会人として、それなりの生活しているのにそれを投げ打って、どうなるかわからない学生を志すことは理解されないかもしれない。でも、そうしたいと思ってしまうのだから、どうにもならない。思うことをやめられない。思うことを閉じ込めて生きていくのか、それとも苦労しながらそれに付き合うのか。
とことんまで付き合った方が断然いいに決まっている。それしかないに決まっている。それを阻む要素は除いた方がいいに決まっている。
こんな簡単なことが、分かりきったことが出来ないなんて愚かすぎる。
小田急線沿いの大学を途中で辞めて、芸能事の真似事に片足を突っ込んで、それも辞めて茅ヶ崎に越してきた。茅ヶ崎に来るまでに何度もドロップアウトしてきた。
そんなでも、ありがたい事に今の会社に拾ってもらい、なんとかドロップアウトしてしまったラインに戻してもらえた。それを分かっていながら、それをまたドロップアウトしようとしている。普通はラインに戻してもらえたら、そのラインにしがみついてでも離れまいとするものだろう。何故か私はそれからまた落ちて行こうとしてしまう。あー分かってもらえないんだろうな、と思っている。
それでも私は理解されないドロップアウトの道をいく決心をしてしまった。
生活がどうなるかもわからない。学費はどうするのかもわからない。何か手立てはあるだろうか。
考えなくちゃいけないことは山ほどある。でも、そんなことを考えていては先に行けないじゃないか。考えることをやめて、やっちゃった方が何とかなることも多い。どうにでもなる。どんなに考えても現実には、どうにかなることしか目の前に現れないのだ。どうにもならないことは考えても行動に移してみてもどうにもならない。だったら、行動に移してどうにかしてしまおう。どうにかなることしか起きない人生、どうにもならないは存在しないのだから。
今はこんな心境です。
これを理解してもらう必要もない。
ただ、自分のために言葉にしておく。
そんなものを読ませてしまい申し訳ないです。
では、こりゃまた失礼いたしまいした。
雑記 〜佐平次、のんとも。M「明日があるさ」〜
どうもこんばんは。
何がきっかけだったか、ここのところYouTubeで古典落語「居残り佐平次」を聴き漁っている。圓生、志ん生、小満ん、談志、志ん朝、文朝、小三治、右朝、喜多八、白酒、一之輔ととにかく聞いた。
無一文なしで女郎買いに来て、払いができるまで家には返してもらえない佐平次は布団部屋へ通される。一生懸命支払いの金策に走るかと思いきや、お店のお客や花魁たちに取り入ってお座敷に上がっちゃう。元々口先が上手くて、ヨイショが上手、そして何より人から可愛がられる性格から、いつのまにかお客の方からお呼びがかかるほどの人気者に。お座敷に呼ばれて、お客に取り入ってお祝儀を貰っちゃう。
こうなると面白くないのはお店の若い衆。自分の仕事は取られるし、お祝儀をくれる太客も奪われちゃう。そこで御内所、今でいう店のオーナーみたいな人に相談する。温和な人柄の旦那はとりあえず帰ることを促すが、聞くとこの佐平治という男、外で悪事を働いて、追手がついた身分だとか。そんなことを知ってしまっては、居残りが罪人だなんて、お店の看板に傷がついてしまうことを心配して、逃亡の資金から新しい着物まで一通り佐平次に用意して逃しちまう。
しかし、この男は罪人でもなんでもない、居残りを家業にする男だった。
というのが、だいたいのあらすじ。
サゲが今では使わない言い回しなので、人によって変えてあったりする。
佐平次が次々に花魁やお客に取り巻く場面が実におかしい。
佐平次の調子のいい言葉にどんどんひとが踊らせていていく。最初は訝しんでいる人たちも徐々に佐平次の人柄に取り巻かれる。
こんな人間いるだろうか。落語の世界だから、と言って、フィクションにしてしまえば、それまでなのだが。
人柄だけで生きていける人間というのは、いくらかいる。仕事ができるわけでもなし、何か特別な技術があるわけでもない。それでも、どういうわけだか上の人間に好かれて、うまいことやる人がいる。必ずしもそういう人生が成功だとは言えないだろうが、楽に生きていくという観点に立てば、立派な成功だ。
演る人によって佐平次がまるっきり違う人間なのだが、私が好きな佐平次ほど、佐平次に人気が上がる場面で客席の笑いの声量も上がる。つまり、佐平次の人柄が人懐っこければ人懐っこいほど、落語として面白くなるのだ。
きっと、こういう佐平次ほど、楽に生きていけているのだろうと思う。
演ることと生きることは違うので、人懐っこい佐平次を演じる噺家が佐平次みたいに生きているわけではあるまい。
もう少し、敵を少なに、それでも自分を通して、生きてみたいと思う。周りを取り巻いて。
女優で歌手ののんさんがYouTubeに一つのMVをアップした。
坂本九さんの「明日があるさ」をカバーしたもの。何よりもゲストボーカリストが最高だ。
小泉今日子さんに尾美としのりさん、渡辺えりさんに片桐はいりさんが集まった。
そう、「あまちゃん」のキャストが集合しているのだ。
もうこれだけで嬉しくなる。天野家の三人が、スリーJプロダクションの三人が集まって、マイクの前で歌っている。自然と涙が出てくる。
やっぱり、のんという人間の行動力や周りを巻き込む力はとんでもないのだ。憧れてしまう。
彼女のどういう部分が周りをあんなにも動かすのだろうか。やりたいことを形にするだけでも気力も体力もいる大変なことなのだ。それを周りの人間を巻き込んで、あんなに楽しそうに、それでいて見ている私たちにも身体中に活力を与えてくれる。どうやったら、そんなにことができるのだろうか。
もうすっかり昨日から何度も聞いている。
アキが歌う。春子が歌う。パパが歌う。三人の声が重なる。この瞬間にたまらなくなる。胸が熱くなる。足の裏から、手先から、じっとしていられなくなり、たまらず走り出してしまいたくなる。
身体中を衝動が駆け巡る。私には何ができるだろうか。何をしたらいいのだろうか。何かを形にしたいのに、創り出したいのに、どうしたらいいのだろう。
彼女の周りの人間を引き込むその魅力は、まさに佐平次だ。
やっぱり、私は佐平次になりたい。
では、こりゃまた失礼いたしました。
雑記 〜本屋、反知性主義、執筆〜
どうもこんばんは。
暇な時間を見つけては、本屋に赴く。で、最初はそこに並ぶ数多の本たちとこれからそれらと出会う期待でワクワクするのだが、すぐに失望してしまう。
なぜなら、ここにある本の全てを私は読むことができないからだ。必ずこの中のどれかを選択して、有限の素晴らしい出会いと残念な出会いしか繰り返すことができないのだ。これだけ本棚いっぱいに一人の人間が思考し、言葉にした結晶が並んでいるのに、そのうちの微々たるものしか享受できないのだ。そう思うと、私がここで数冊読んだところで何になろうか、などとつまらないことを思ってしまう。
たいてい本屋に行く時は何か鬱屈としないものを抱えている時だ。解決策も講じずに、何かにすがるように行くつくところが本屋である。そこで、気休めに、慰めに何冊か買ってみる。その中で読むものもあれば、数ページでやめて、積んだかれてしまうものもある。
平積みされた本は映画やドラマになった原作や、耳障りのいい自己啓発本が並ぶ。どうにも商業臭がして嫌気がする。それでもたまに耳障りのいい自己啓発本のタイトルに惹かれたりもする。本当に読むだけで私が変わるのだろうか。半信半疑で手にして、目次に目を通す。そこに並んだ当たり前の言葉たち。私の中には新しいことは一つもない。自己啓発本で何かを学んだことがないのを思い出す。自己啓発本をすぐに棚に戻す。
それで、やっぱり小説なんかを買う。
本当に読みたいものを買うわけではないのだが、気休めにポケットに新しい文庫本を入れたいのだ。
とにかく何かを変えたいと思って一冊だけでも本を買うのだ。家の本棚に一冊増えるという変化、それだけにすがっていたのかもしれない。
少し前にこの国は船頭を変えた。そして、アメリカも船頭を新しくしようかどうしようかという瀬戸際で揉めているようだ。
この国は政治が形ばかりでしかないということの現れなのか、総理大臣が形式的にすんなりと決まる。一国の総理を決めるその時に我々にその選択権は与えられていないのだ。党内の派閥の大小が総理大臣を決めるなんて、だいぶバカにされているな、と思ってしまう。
しかし、政治に関して、不学の私の怒りに説得力はない。ならば、政治について勉強をしなくてはいけないのではないか、最近そんな危機感を持っている。そして、この危機感にまだ反知性主義に堕落していないことを確認し、安心する。
ここのところずっと、少し長めの小説を執筆してる。
こんな言い方は、とてもカッコつけていて、世の中で本当の小説を執筆されている方々にあまりにも失礼なので正しく換言しておこう。
ここのところずっと、少し長めの私的駄文を垂れ流している。
私が書くものなんかこっちの方が、よっぽど合っている。
今、やっと原稿用紙36枚分書いたことになっている。この後、どうやって話を続けて行こうか。書きたいエピソードはあって、書きたいものとも関連づけれている。でも、そんな技術的なことを考える必要があるのかな、なんて疑問を持ったりもする。書きたいものを書くことが一番難しいなんてことを今更に身にしみて感じたりしている。
書きたいテーマについて深く考えれらていないのか。
とりあえず手帳にあったものを少し広げて書きました。
もう11月ですし、頑張ってもう少し書く頻度を増やしたいと思います。
考えることをサボっていたな、と反省しています。
では、こりゃまた失礼いたしました。
「俺たち悩んでもしょうがなくね」って飲み込みたい
どうもこんにちは。
26歳という自分の年齢について考えてみる。
もし、これをお読みの方が私よりも年上の方であれば、この頃何をしていたのか思い出していただきたい。
現状に満足できない鬱々としたものが、いつも必ず心のどこかにあるのだ。「こんなはずじゃない」だったり、「もっと自分は無限だろ」だったり。大人になれていないだけなのかもしれない。こんな話、前もしている気がする。でも、仕事帰りに134号線沿いの自転車を漕ぎながら、何しているんだろうという無力感でいっぱいになる。
何かに救われないだろうか。自分を救ってくれるものを一生懸命に探してしまっている。いつか自分を救ってくれる何かが探していれば見つかるなんていうのが幻想に勘付き、一生懸命になる方向が違うことに薄々気づいているのだが、覚悟がないというか腹を括っていないのか、簡単な方に飛びついて離れない自分。
水曜日の深夜はテレ東のプロデューサー佐久間宣行さんのオールナイトニッポンの日だ。
スペシャルウィークの今週はゲストが芸人のバカリズムさん。常軌を逸した数の単独回数、いかにも孤高のお笑いクリエイーターという出立に、脚本家という一面も持ち合わせる。
佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) | ニッポン放送 | 2020/10/21/水 | 27:00-28:30 http://radiko.jp/share/?t=20201022030000&sid=LFR
これだけ自分の創りたいものを創って、こんなにも受け入れられて、そこから仕事の幅を広げていく。どんどん社会に受け入れられていく。そんな人間がそれでも満足せずに、鬱々と芸能界を生きているのだ。
意味がわからない。私はこんなところで小説を書くことにも四苦八苦して、全然進まないで幻想にすがっているのだぞ。あなたのどこに鬱屈するものがあるのだろうか。冗談じゃないぞ。
あれ、私、とんでもない人に八つ当たりしていないか。
誰が私を救ってくれるのだろうか。
誰も救ってくれない。だから、バカリズムはおびただしい数の単独ライブをこなしてきたんだ。
私はおびただしい数の単独ライブをこなす覚悟があるのか。それしか救ってくれないんだぞ。
ってことを佐久間さんはバカリズムの話を通して私に突きつける。分かっているから、今はそんな事実から逃げたいんだから、突き付けないでくれよ。聞きたくないよ。冗談じゃない。
あれ、次は大好きな番組のパーソナリティーに八つ当たりしているな。
26歳にもなってまだ逃げているな、私。
やりたいとしか言わないじゃないか。やりたいならやればいのに、それに伴う苦しみが嫌なんじゃないか。それが怖くて、やりたいことがやりたいことでしかない。それでもって、もう何年も経つ。
私はそれにむしゃくしゃして、それを誰に対してむけているのか。馬鹿馬鹿しくてしょうがない。
強くなりたいと悩んでいる。
佐久間さんは番組の最後をこんな感想で締めていた。
あのバカリズムがあのくらい色々悩むんだったら、俺たち悩んでもしょうがなくね。
働いてるみんな悩んで当然、あと、ヘコたれて当然
当然だけど、当然なんだろうけど、じゃあ、いいかとはならないよ。
今日は小さな気持ちの吐露しか書けませんでした。
つまらないものを読ませてしまい申し訳ありません。でも、言葉にすることは私にとっての意味があった気がします。
では、こりゃまた失礼いたしました。