「危険なビーナス」と受験理由
どうもこんばんは。
今クールのドラマがほぼほぼ終わってしまった。
意外と「危険なビーナス」を最後まで見てしまった。
東野圭吾原作作品に吉高由里子さんがキャスティングされていたところからして、このドラマの大きな仕掛けだったのだ。
それから、冒頭でお決まりだった妄想からの「こんな事が起きるはずがない…とも言い切れない」というオチがラストシーンで生かされていた。
昔の母親の死と現在の弟の失踪との二つの事件を重ねながら、いきなり目の前に現れた「失踪した弟のお嫁さん」という人物と謎の多い矢神家を探っていく物語。その謎にはいかにも理系の大学卒の東野圭吾さんらしい聞いたこともない数学やサヴァン症候群といった理系の要素が絡まっていく。
テレビドラマはやっぱり面白い。もっと勉強して、体系的に語れるようになりたい。
全く関係ないけど…
コロナで世の中は確かに変わった。変わった世の中に誰も追いつけていない。何が起きているのか、どうなっていくのか、誰がわかっているのか、分かったようなこと言う人間の正体、メディアの正確さ。わからないことだけが蔓延るようになった。
それを分かりたいと思うのもわかる。私もそれを知りたいと思う。
ただ、それに振り回されている人間が多いように思えてならない。
生きることは、当たり前だけど、世の中で存在することに他ならない。コロナに大きく飲み込まれた世の中で生きていくと言うことで、存在すると言うことで、時代のパラダイムに立たされることになる。歴史の教科書で何度も見てきたパラダイムに今、私は立っているのだ。中大兄皇子が蘇我氏を倒した時、平清盛が武家初の太政大臣になった時、種子島に鉄砲が伝来した時、ペリーが浦賀にきた時、ポツダム宣言を受諾した時、私たちは何度とないパラダイムを教科書で見てきた。今、私たちはその時に立っているのだ。教科書に刻まれるその時にいるのだ。
ただ知識として知っていることに意味はない。
ずっと考えてきた事だ。
このまま、このパラダイムに飲み込まれてしまっては、ずっと考えてきたこの言葉そのものが知識として形骸化してしまう。
そうならないために、やっぱり勉強したい。
そのために決めた大学再進学だった。
それでも、周りに理解される必要はないけど、説得しなくちゃいけない人たちはいる。会社も辞めなきゃいけない。
人事の仕事を任されて、名刺も作ってもらって、仕事を背負うようになったこのタイミングで止める必要があるのだろうか。そんなことを思わないでもない。
それでも、今、このタイミングで勉強することに意味がある。少なくても私は意味を見出したのだ。
あーここにだったらいくらでも書けるのに。
これを周りに伝えることに労力がいる。環境を変えることに必要な労力が、一番億劫だ。
とか思いながら、受験勉強もしないと。
では、こりゃまた失礼いたしまいした。