文化自給自足生活
どうもこんにちは。
文化的自給自足をしたいと思う。
自分で享受する文化的なものを自分で賄いたいのだ。
家で野菜を育てれば、何か身になる資格勉強をしていれば、人はその時間を有意義だと言う。
なんかしらの結果が得られるからだ。その結果を生まない時間は、世間では無駄なのだ。
それこそ、流行作家になったり、名声のあるピアニストにならなければ、文化的な時間は無駄なのだ。そう、無駄。
私がこれを書く時間も、それを読むみなさんも、共に無駄な時間を過ごしているのだ。そう言うことになる。
結果を生まないことが無駄だという考え方は、私のそれとは相反する。
行為そのものを楽しむことに、どうして意義が認められないのか。なかなかもどかしい。
この自粛生活でどれだけのその無駄が失われたか。どれだけ踏み付けにされて再生が難しくなったことか。
本当に我々はあれだけ多くの犠牲を払って自粛する必要があったのか。
一度、そこに立ち返って、この対応を反省する必要があるのではないかと思う。あまりにも失われてしまったものが多すぎる。決して、命の重さを軽んじているわけではない。確かに新型コロナで失われた尊い命に対しては、最大限の喪に服すべきだ。
しかし、それをいい看板に、我々は正確な情報のもと、正確な対応をしていたのか。
マスクのために大枚をドブに捨てる、給付金の対応が遅い、休業補償の給付がホンの微々たるパーセンテージだとか、確かに政府は何もしていない。何もできていない。一つもだ。それもそれで愚かしいと思う。
でも、そんなことよりも必要以上の自粛脅迫で、我々は失わずに済むものまで奪われたのではないか、と思う。何もしない自分たちを棚に上げて、我々は身を切ることのみを強要された。その結果、死守しなくてはいけないものを、易々と国は奪っていった。
それをどういう手を使っても取り戻すべきではないか。取り戻さなくてはいけないのではないか。そんなことを最近考えている。
コロナと生きていくための新しい生活という、さも我々に寄り添ったかのような浅はかな提案。我々が求めているのは、そんな茶番にもならない馬鹿げた冗談ではない。再生が不可能になりつつあるつい数ヶ月前の文化的な生活だ。国に殺され、戻ってこない生活だ。私はそれをなんとかして、生き返らせたい。
なぜなら、それは無駄ではないからだ。
長い時間をかけて、人間生活の営みの中で不必要なものが育まれるわけがない。ギリシャ悲劇が生まれて、すぐに今の多様な表現で、深みのある演劇になったわけがない。何千年とかけて、歴史に残らない駄作が大量に生まれて、その中から、太平洋のど真ん中に落ちた100円玉を見つけるようなわずかな確率で名作が生まれ、そのわずかな確率を重ねて重ねて、長い年月をかけて築かれたものなのだ。
それを何者できない愚かしい一部の人間によって、たった一瞬にして、また太平洋に100円玉を投げ返すがごとく、失われていいはずがない。文化を守るという仕事は、個人の仕事ではない。今まで何千年という長い間に、関わってきた全人類を背負い、未来永劫の全ての人類に引き継ぐ仕事なのだ。マスクも配れない浅ましい人間ができる仕事ではない。
今、失えば、この灯火を吹き消してしまえば、また、火が灯るまでに途方もない時間を有する。
自粛脅迫にはその責任と覚悟があったのか。
あるわけがない。そんなことに考えが及ぶ人間ではないのだから。目先のことしか見えない取るに足りない人間なのだから。
守るためには、文化のピラミッドを崩さないためには、裾野を削らないことだ。
自粛によって経済も末路を辿り始め、裾野で営まれていた文化は困窮に瀕している。これをなんとか少なわければ、ピラミッドの頂はバベルの塔も同然だ。
そのために、私は自分の文化を自分でまかない、進んでその裾野となりたい。
そんなことを考える。
戯言に過ぎないな。
では、こりゃまた失礼いたしました。
私もすっかり日大二高、97年卒
どうもこんにちは。
今週は土曜日の衝撃的で歓喜的な告白のおかげで、気持ちの全部を憂鬱に圧迫されることなく、過ごせそうだ。
オードリー春日さんの第一子誕生報告だ。
番組の後半、いつも通り若林さんのトークの後で、のらりくらりと話を始める春日さん。
あのー、まあ、ちょっと先週の話になっちゃって申し訳ないんだけど、今週、そのことよりもデカいことが起きなったからさ
先週の金曜日だな、5.8だな。春日、父になりましてね
父というか、ダディね
さも、なんでもなく、まるで、いつも通りリモート収録をしたかのようなトーンで話をしている。スーパーのレジ前で会計を待つ母親が買い忘れた牛乳を思い出すかのようなささやかさで、さらりと言った。
この一年、オードリーの2人のトークの中に奥さんの話が出てくると、たまらなく嬉しくなってしまう。
これから、春日さんのトークにお子さんの話が出てくること、今からどれだけ楽しみなことか。
いろんな芸人さんのラジオ番組があり、それぞれの形があって、それぞれの繋がり方で私たちを楽しませてくれる。深夜ラジオは繋がりそのものだ。いつもテレビで笑わせてくれている彼らとの繋がり、そのものを楽しんでいるのだ。
先週、高校時代の友人がプロポーズされたと連絡をくれた。同時にその彼からプロポーズしたと連絡を受けた。
2人は高校時代、僭越ながら私がキューピットを務めたカップルで、万丈とは言わないまでの波乱はあったものの8年間ずっと一緒に来たのだ。隣で見ていた私なんぞは、「やっとか」という方が大きいくらい待たされたプロポーズだった。
でも、嬉しかった。気があって、昔から知っている友人が幸せになるというのはたまらなく嬉しいことだ。今から結婚式のスピーチをどうしようかウキウキしながら、考えている。パワポを使って、思う存分、祝ってあげるつもりだ。
春日さんの第一子誕生もこんな嬉しさだった。古い友人たちの幸せを喜ぶことに似ているのだ。いい意味でカリスマ性のない2人は憧れの存在というよりも、ずっと一緒にバカをやってきた悪友という感覚が近いのかもしれない。それはきっと2人のトークの随所に現れる高校時代の「おなじみ」が身体に染みついているからだろう。いつの間にか土曜の深夜は、私も日大二高97年の卒業生になっている。
そんな昔からの馴れ合いのような感覚がオードリーとの繋がりだ。土曜の深夜の繋がりなのだ。
自分のことで手一杯で人のことに構っていられない必死な世の中になりつつある。それでも、リスナーみんなの同級生の出産報告は自分のことを片手間に祝える幸福な報告だった。
では、こりゃまた失礼いたしました。
アフターコロナを生きる
どうもこんばんは。
仕事が再開した。営業再開に向けての準備期間が始まった。初夏と言うには度が過ぎる炎天下の中でペンキ塗ったり、ニス塗ったり。まるで大工職人だ。働いていない在宅期間には、仕事が私の中のバランスを保つのに結構なウエイトを占めていたことに気付く。あまりにも自由すぎると、結局何もやらないものだ。
その在宅期間にアルバイトから休業中の保証のこと絡みで連絡を受け、社長を介して社労士だの弁護士だのと話をする。そうか、いくら国が「十分な保証をする」と言っても結局は他人なのだ。自分の生活は自分で賄うしかない。どんなに福祉厚生に恵まれても、最後の最後はなんのあてにもならない。だから、私はなりたい自分を見つけて、それに向かって動き続けなければいけないのだ。そういう人間にしか、生き残れない時代に生きているのだということを思い出した。この厳しさをごまかし、隠して、大したことじゃないと甘い夢を見せるために、選挙のマニフェストがあるのかもしれない。
生きていくのが自分ならば、それを生かすのも自分なのだ。誰も教えてくれない当たり前を見ないフリしてきたが、コロナ禍の今、そうは言ってられなくなった。
さて、こんな軽い言葉の決意表明に意味があろうものか。
こう言葉にしては度々、敗北に喫する私は同じことを繰り返すのだろうか。
具体性もないのに、何をどう生きようというのだろうか。考えよ、私。
何でもどうにでもなるなんて、無鉄砲な若さの1幕はそろそろ終幕に近い。次の幕が開いた時に、台本も衣装も舞台装置もないのでは、話になるまい。
では、こりゃまた失礼いたしました。
岡村さんの発言への批判は「種族のイドラ」を抜け出せていたのか
どうもこんばんは。
「コロナ警察」とか言う言葉をよく聞くようになった。
「正義」という大義名分を得ることによって、自分のしていることに歯止めがきかなってしまっている人達だ。
自分はいいことをしている、世の中のためだ、という意識から芽生えたものだということが問題を厄介にしていやいないだろうか。
こんな人たちは物事を「相対化」することが出来ない人達なのだろう。
出発点は
⒈新型コロナウイルスによる感染拡大を防ぐために自粛しよう
という素晴らしい姿勢だ。しかし、自粛しながら周りを見渡してみると、
⒉自分が自粛している間にも、世の中は自粛していない人がいる。自粛することが正しいんだから、自粛していない人は間違っっている
という発想になる。この発想は間違いではないが、この人は自分と何らかの理由で自粛しない人とを同じ座標で物事を見ている。
⒊自粛していない間違った人には自粛させなくては、なんせ自粛するのが正しいんだから
という発想に転換される。これがエスカレートすると、嫌がらせになるわけだ。
嫌がらせになってしまえば、これはもう善行でも何でもない。しかし、元より正義感たくましい善行から出発しているため、自分の行いが嫌がらせという悪行に陥ってることに気づかない。
今回の本題がここではないのでだいぶ荒削りに話を進めます。
私が一番と怖いと思うのは、⒈と⒉の間で
どうして、この人は自粛しないのか?
という、自分の座標を拡張して、何らかの理由で自粛しない人の座標と照らし合わせ、相対化することが出来ないことだ。そしてもっと恐ろしいことに、相対化することが出来ない人の多くは自発的に相対化が出来ないだけではない、外からの啓蒙されてもそれを受けつけられないのだ。
ここで、「啓蒙」と言う言葉を使うのは、結構思い切った語の選択のつもりだ。それは、私が「座標の相対化」ができることにかなりの価値を置いているからだ。
外からの触発を受けても「座標の相対化」が出来ない人は、相対化して物事を見ている人を自分が相対化すべき対象と同じだとみなす。
自粛できな人の理由に納得し、それを受け入れた人(つまり、相対化出来た人)へも
あの人は自粛しない人を容認しているから、自粛しない人と同じ悪だ
という発想になる。
本来は①相対化することが出来ない自粛する人(自粛しない人を批判する人)、②相対化することが出来た自粛する人(自粛しない人を容認した人)、③何らかの理由で自粛しない人の3種類がいるのだ。しかし、①の哀しいフィルターを通して見ると、②と③が同じ類の人間に思えてしまっているのだ。
私は①を実に愚かしい人間の類だと思う。なぜだろうか。恐らく、他者と自分を相対化させるということが「洞窟のイドラ」から抜け出す手始めの方法なのだ。そして、この「洞窟のイドラ」が一番抜け出すことが容易なイドラなのだ。
一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない
人なのだろう。だいぶ、強めの言い方をしてしまっているので、顰蹙を買いかねないが、そういうことを言う人の多方は上記の「一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない」人なので、私は気にしない。しかし、耳を傾けないわけではない。反対の意見を言う人の考えと私の考えを相対化させて、考えてみることはする。頭ごなしに「反対意見は聞かん」では、いつの間にか私も「一番抜け出しやすいイドラから最も初歩的な手段を持ってすら抜け出すことが出来ない」人に堕ちてしまっているからだ。
さて、自分と他人の座標を相対化させることが出来ると、次にもっと大きな括りでの座標を相対化せていく必要がある。
自分が生まれ育った環境と他人が生まれ育った環境。もっと大きくなれば、地域と地域、国と国、文化圏と文化圏を相対化させる必要が出てくる。先ほどから何度も拝借しているベーコン老師『ノヴム・オルガヌム』によれば、「種族のイドラ」と言うやつだ。
さて、やっとこそさ、本題に入れそうだ。
つい先日、この「種族のイドラ」から抜け出せない人によって一つの文化圏が脅かされた。
4月23日に放送された「岡村隆史のオールナイトニッポン」での発言が問題になった時だ。気分の悪くなる発言なので、詳細はここでは言いません。思い当たることがない人は「岡村 オールナイトニッポン 発言」とかで検索してください。
はじめにちゃんと示しておくと、私は岡村さんの発言を容認するわけでもなければ、この発言に対する批判はごもっともだと思っている。その上で次のようなことを言いたいのだ。
批判した人のどれほどが深夜ラジオという文化を理解していたか、つまり、定期的に聞いているリスナーだったのか。そして、根は次にある。⒈この発言をSNS等で聞いた普段深夜ラジオを聞かない人のどれくらいが、実際の放送でもって活字でない、岡村さんの声を聞いたか。
最新のニッポン放送の聴取率調査では「岡村隆史のオールナイトニッポン」は0.6%だった。(ニッポン放送『オールナイトニッポン』聴取率単独首位に オードリーがV24達成 | ORICON NEWS)
それに対して、岡村さんのレギュラー番組に寄せられた降板を求める署名は1万5千人。(岡村隆史さん出演、ネットで賛否 問題発言後初の「チコちゃんに叱られる!」 - 毎日新聞)
それ以上にもTwitter等には批判の声がかなり多い。当たり前だがこの全員がリアルタイムで聞いていたとは思えない。
そして、⒉普段深夜ラジオを聞かない人たちは深夜ラジオという文化を相対化させようと努めたのか、私はこの二つの問いを問題発言に対する批判に対して投げかけたい。
再三言うが、深夜ラジオという文化圏ならば、問題の発言は許されるべきだ、と言うのではない。深夜ラジオにおいても許されない発言だ。それは間違いない。
しかし、深夜ラジオ特有のパーソナリティとリスナーの親密感、深夜という時間帯、などを考えると風俗の話、下ネタはよく聞かれる。そういうアホな話題で盛り上がることが大いにある。私もそれもひっくるめて楽しんでいる。当然、今回のように倫理感を逸脱しない程度の話でだ。
深夜ラジオはそういう空気感が他のメディアよりも比較的に強い。(何度も言うが、深夜ラジオの空気感でも、岡村さんの発言は許されない)
普段深夜ラジオを聞かないで批判した人のどれだけが、深夜ラジオの文化をその人が普段接している他のメディアの文化と相対化させる努力を、思考をしたのだろうか。そういう手続きがあった上での批判だったのか。私は同じ批判でも大きな分岐点にあると思う。
5月5日のTBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」で太田さんが発言しているが、風俗だけを生き甲斐にしている一定数のリスナーに、間違った方法ではあるが、寄り添うおうとした意図から生まれた発言なのだ。だからと言って許さない発言ではあるけども。深夜ラジオという文化圏はそういう発言で励まされる人も含んだ文化圏であることへの理解が批判した人の中にどれだけあったのだろうか。
JUNK 爆笑問題カーボーイ | TBSラジオ | 2020/05/05/火 | 25:00-27:00 http://radiko.jp/share/?t=20200506010000&sid=TBS
今回は批判の対象になった発言が深夜ラジオの文化圏にいる人間からしても、擁護できるものではなかった。
しかし、これが深夜ラジオの文化圏からすれば当たり前のもので、かつ、さほどの倫理的な逸脱がないものだったら、どうだっただろうか。深夜ラジオを聞くマイノリティからすると当たり前だが、深夜ラジオを聞かないマジョリティからすると聞きなれない、でもさほど社会的に外れたとは言い難い発言が批判の的になっていたらば。
深夜ラジオの文化を相対化出来ない人の批判の的に晒されたら、と思うと私は恐ろしくなる。それは一つの文化の滅亡の引き金になりかねない。
相対化出来ない人達による無思考な批判のせいで脅かされる文化はまだまだある。
例えば、落語。男尊女卑という概念すらない時代を談る話芸において、男尊女卑を理由に批判的に見る人がいる。落語文化を今その人が生きる現代文化と相対化させることが出来ていないのだ。それを必要だとも思わない。どうして落語文化には未だに時代錯誤な男尊女卑思想が忍んでいるのか、という問いすら立てられない人達だ。そういう愚者たちが潰すだけ潰した文化の後に何を残せるのか。そのことに対する危機感はないのかね。
私は自分の知る文化と相対化させてその違いを容認さえできれば、こんなに面白い文化で溢れている世の中がどんどん失速していくのが、恐ろしくなってしまう。
かと言って、今回の岡村さんの発言は許されない。私も許そうとは思っていない。
しかし、同じ許されないでも、岡村さんの発言の真意を聞こうとしたのか。岡村さんを、深夜ラジオを、それを普段から聞くリスナーを、相対化させることすら発想になかった人たちの批判でSNSが溢れて、そういう意見がマジョリティになり、マイノリティ文化が不必要な締め付けに合うことに警鐘を鳴らしたい。
これを民主主義のあるべき形だというのは大きな間違いだ。
無思考に批判した人がやっていることは、無理解に自国の文化を押し付け、植民地化した帝国主義の列強と同じだ。1800年代後半の古く、愚かしいイドラから抜け出せない人たちだ。
結構な熱量と思い切った刺々しさで申し上げさせていただきました。
では、こりゃまた失礼いたしました。
じっと手を見る
どうもこんばんは。
いよいよ隠居生活も板についてくる。齢26にして、つける板じゃないやね。
朝、七時ごろ起きて、カーテンを開ける。ここのところは天気が良くて気持ちがいい。
珈琲を淹れて、最近育て始めたミントを観察しながら、ベランダで飲む。それから本を読んだり、映画を観たりして、あれやこれやとやって時計を見て驚いた、まだ十一時前。午前中が終わっていない。
早めのお昼を食べて、また珈琲を飲みながら、本を読んだり、ドラマを見たり、ラジオを聞いたり。
最近のお気に入りの過ごし方は、ちょっと前に買ったギターの練習。
専ら有名な歴史的教則本通りに基礎練習をする。中高と吹奏楽部で散々楽器を練習してきているので、曲をやりたい気持ちをグッと堪えて、単調な基礎練習をすることの大事さは体に染みついている。簡単なスケールも全ての音を均一に、メトロノームに合わせて、といっぺんに多くのことを意識する。それだけで、なかなか先に進めない。楽器の上達とはそう言うものだ。なんせ、楽器の取得は言語の獲得に等しい。
一通り、基礎練習をやったところでやっと譜読みに入る。一曲に選んだのは、JAZZのスタンダードナンバー「My one and only love」という美しいバラード。
選曲の基準は私が弾きたいかどうか。難易度は加味しない。そんな選曲なもんだから、これがかなり難しい。一小節弾くのに、かなりの時間をかける。それでも、おぼつかない音の羅列から、好きなメロディの片鱗を覗くと、達成感と高揚感に溢れる。その瞬間を繋いでいくのが、音楽活動の根源だと思う。今はまだ他人の作った楽譜を追っているだけだが、そのうちにアドリブを弾いたり、曲を作るようになれば、次は頭の中の楽譜を追うことになる。筆記されていない音の羅列から楽器を通して全体像を覗かせる。そんなことが出来たならば、おぼつかない現状で楽しいのだから、どれだけ音楽を好きになるだろう。
とはいえ、本当にそんな日が来るのかというくらい、今は全然弾けない。
どんだけ練習しても、そんな夢の日は遠い。やりたい曲はまだまだあるのに、いつになることやら。
弾けど弾けど
我がギター上手くならざり
じっと手を見る
仕事がないところを見ると、そのうちには茅ヶ崎の小島の 磯の白砂に 我泣き濡れて 蟹とたわむる 日もそう遠くはないのかもしれない。
さて、最近のインプットをざらっと紹介しましょう。
リーディング版「12人の優しい日本人」
1990年初演、映画化もされた三谷幸喜作品の傑作。
12人の陪審員が被告の有罪無罪について討論を交わす群像会話コメディ。最初の飲み物をオーダーする場面だけでもう面白い。大事なところが噛み合わないのに、変なところが繋がったり、意外なところを回収する伏線、どこにでもいそうな人物たちのやりとりに引き込まれていく。
会話劇という性質がZOOMというアプリの性質と見事にマッチしているので、むしろ映画よりもグッとやりとりに入り込める。12人の表情が12分割されて一つの画面に収まっているので、発言していない陪審員の表情が見えてくるところも映画や舞台にない意外なメリットしてあった。
ラストの相島さんの独白の熱量が凄まじかった。12分割された小さな画面からもすごい迫力で迫ってくる。そして、少しづつ表情を変えていく、それは哀れみの顔になっていく、11人。これは無料じゃないでしょ、立派な作品だ。こういう時期にタダで転ばずに面白いことへ作り替える推進力が素晴らしい。
最後のカーテンコールではもちろん、大きな拍手と敬意を画面の向こうに送らせていただきました。
前編 https://youtu.be/3e2aKThmhXM
後編 https://youtu.be/ZDagy7MmFhY
5月いっぱいはアーカイブが残るみたいなので、これはぜひ見てほしい。
超、リモートねもしゅー「あの子と旅行行きたくない。」
月刊根本宗子の主宰根本宗子さんがリモートで完成させたリモート芝居。根本さんといえば、去年までのオールナイトニッポンのパーソナリティとしての一面の方が強いかもしれない。
何よりも、演劇界でいの一番で動き始め、いの一番に発表した。そのとんでもない速さも驚くことながら、内容が面白い。
面白いことに、この作品も4人の女性が旅行先を決めるという群像会話劇。無意味なやりとりが話を脱線に脱線させ、訳の分からない方向に引っ掻き回される。イライラから来る笑い。こんな形でも根本節が炸裂している。大きな動きが出来ない制約を逆手に取って活かすにはこういう設定がいいのかもしれない。
こういう作品が作られていれば、伸びに伸びた自粛が明けた後に演劇が息を吹き返すかもしれない。
https://filmuy.com/chouremotenemoshuu
映画「夜は短し歩けよ乙女」
アニメーション映画はあまり見ないけど、どこか聞いたことある気がして、観てみることに。
不思議な一夜を突き抜けていく純な恋心。余計なものを持ち合わせていない真っすぐな主人公の乙女。魅力的な世界観と人物に引き込まれて、あっという間の時間になった。
映画「スプリング、ハズ、カム」
映画「PARKS パークス」
映画「地球征服アパート物語」
村上春樹「羊をめぐる冒険(上) 」
では、こりゃまた失礼いたいしました。
書くしかないという結論
どうもこんばんは。
今日は土曜日だったらしい。毎日家にいるもんだから、つゆ知らなかった。
まあ、こんなに仕事もせず家にいれば、休みも何もない。何曜日だって同じことだ。どうして、古代のバビロニアの人たちは曜日を作り出したのか。ゴミ出しの日だって、スーパーの特売日だって決まってない、毎日同じような生活を送っていたであろう初期文明人たちになんの必要があったのか?
おそらく、神話的な由来なんだろうな。信仰ということは為政的な必要性からかな。
そんなことはどうでもいい。
今、小説を書いています。
一応、これに応募しようという公募はあるのですが、間に合うかしら。
今更なんだけども、小説ってどうやって書いたらいいものなのでしょうか。
これはドを超えて、レ、ミ、ファ、素素人の私の書き方です。
大抵は書きたいシュチュエーションか、感情があります。それは私の中でどっから来るのかな、と思案します。それを自分の経験の何かをベースに織り交ぜていきます。
ちょうどクロワッサンを作るみたいなものだと思います。
私の思い出せる経験という生地に、これから書きたい感情、状況を織り交ぜます。何度も何度も伸ばしては畳んで、伸ばしては畳んで、織り交ぜます。織り交ぜるという作業は執筆において、実際に経験した時の私の感情と作品内で私が書いている人物の感情との折衷点を探す作業だと思います。
私の感情を無理に登場人物に押しつけては、ただの日記になってしまいます。でも、登場人物の感情だけで書くことは私にはできません。私はその人ではないから。
うーん、プロットを考えて書く人とか、人物の履歴書を作れって人とか、何も考えずに書けって人もいるし、人によって書き方はまちまち。結局、小説には方法論なんてものでは太刀打ち出来ず、書く姿勢がいくらあるかどうかだけ。書いていくうちに自分で見つけなさいってことだろうか。
大体、ストーリーなんて大雑把に決めてからしか書けません。書く前にみっちり考えるのは難しいな。そういう書き方をして、短編を書いてみようかな。
そうか、同じテーマを書き方を変えて、いくつかの短編を書いてみようかしら。
とにかく、今、小説を書くということそのものよりも、方法論的なところに悩んでしまっている。なんだかこれって頭でっかちかしら。
そもそも、これって小説を書くための方法論があると言うイドラみたいものに囚われているのかもしれない。そんなものはないということにしておこうか。
方法論から入らずに、実践から導いていくべきではないのか。と、なるとまずは自分ための方法論なるものを見つけるまで、ひとまずっ書き続けるべきか。それを見つけるのっていつだろう。原稿用紙何枚書いたらだろう。そんなことを考えていると、これは方法論を作るための方法論の話をしていないだろうかと、思う。
やっぱり書くしかないか。というか、何を書いたらいいかわからない時は何を書こうか。そうか、書きたいことを書く方法も見つけなくてはいけないし、何を書いていいかわからない時に書く方法論も見つけなくてはいけない。これは相当書かないといけないことになる。
書くしかないのか。書くしかないんだな。
書けないとか言ってらんないな。
いや、それを書けるようになってどうするの?ってなるんだけど、それは書いていく中でもっと考えて、登場人物に考えさせて、見つけたい。それを見つける事が書くだと思っているんだけど、書いていく中で書いていく理由を見つけるのは、ちょっとパラドキシカルな批判だと思う。
とりあえず、まだ当分仕事はなさそうなので、書いてみたいと思います。
自分に一喝入れるための心の整理の吐露に過ぎませんね。それなら、小説内でしろって話だ。
では、こりゃまた失礼いたしました。
好きな役者と素敵な三人組
どうもこんばんは。
在宅無職も3週目を終えようとして、日に日に暇を持て余している。
とにかく、家で出来ることといえば、読書に、映画ドラマ鑑賞、昼寝、散歩。
どれもこれも人と関わらない。それが一番苦しいのだ。やっぱり会話は大事だな、と思う。
令和版「東京ラブストーリー」を観ては坂本裕二脚本との違いに身悶えてみたり、三谷幸喜さんの最高傑作連ドラ「総理と呼ばないで 」(私見では、古畑は優に越して、「やっぱり猫が好き」と肩を並べる傑作中の傑作)をみて、Netflixので映画を流し観る。読書の方は獅子文六老師著「七時間半 (ちくま文庫)」みたいな楽に読めるようなものから、戸山田和久さんの「教養の書 (単行本)」を読んで頭を働かせたり。
それからYouTubeでは春風亭一之輔師匠の上がるはずだった鈴本四月下席のトリを生配信するという企画も面白い。気怠そうなのらりくらりとでも斜に構えたザ・一之輔まくらもたっぷり、ネタもたっぷり。自宅で寄席気分、最高だ。一之輔師匠は亡くなった喜多八師匠を彷彿させる時がしばしばある。ゆったりと入っていくのに、噺に任せて聞き入っていると、気がついた時にはハイテンション。気怠いまくらの時の声量と声の張りとは打って変わって威勢が良くなる。好きなんだよな、この人。
そんな中好きな役者の訃報が聞かれた。志賀廣太郎さん。
どんなちょい役も適役に思えて、代表的な役というののない、でも、出てくるとどれも人の良さが滲み出ている役が印象的な役者さんだった。
映画「あやしい彼女」で主人公の幼なじみ役を好演していたのが、私の一番お気に入りの志賀さんだ。この志賀さんを観るために、何度この映画みたことか。
いい役者さんだったな。青年団に所属だったこともあって、平田オリザさんのツイートで知った。
劇団員の志賀廣太郎が、2020年4月20日午後8時20分、誤嚥性肺炎のため満71歳で永眠いたしました。2019年春に脳血栓で倒れて以降、復帰に向けて懸命のリハビリを続けてまいりましたが、かないませんでした。詳しくは、こちらをご覧ください。https://t.co/YIlkPB8DdC
— 平田オリザ (@ORIZA_ERST_CF) 2020年4月30日
さて、ちょっとしんみりした私は、会話したさに、流行りのZOOM飲み会をやったのだ。
これがまあ、楽しい。メンバーは高校の同級生2人と私でしめて3人。一人は地元で小学校の教員の女の子。もう一人は新卒で入社した人材派遣の会社を退職して、現在は実家に戻って日本語の先生をしている女の子。
私たちの中は、高三の夏の終わり、同じようなタイミングで失恋したり、恋愛のゴタゴタを抱えて、互いに共有していた。その当時の私たちにしてみれば、色恋沙汰なんか、そりゃもう大ごとで、人生の大半を占める出来事だと思っているんだから、それを共有したり、互いの悩み相談をしたりした仲の信頼関係は深い。いまだに色恋沙汰でもってなんかあれば連絡取り合うし、定期的に会う。
今回は私が暇すぎて、ZOOM飲み会をやってみたいと声をかけた。
はじめこそどうにも会話のテンポや変な沈黙が慣れなかったが、時間が経てば楽しくなってくる。画面越しでも表情の見える会話っていうのは、電話とは違う。言葉の零細さみたいものを感じる。
話題は近況報告から、最近会った高校の他の同級生、そして、昔話。
飲んで、たって私はアルコールじゃなくてコーラなんだけど、昔話をするってなんかちょっと情けない感じもするが、振り返って笑える時代を共有している人がいるということを認識できることが、どこか心強い。大人になるってそういう心強さから少しづつ離れていく寂しさでもあるような気がする。
私たちの関係をいう時にいつも思い出す3人組がある。
小泉今日子さん、渡辺真紀子さん、森口博子さんという3人組だ。
お分かりだろうか?私の大好きなドラマ「最後から二番目の恋 」で小泉今日子さん演じる主人公の飲み仲間3人組だ。
最後から二番目の恋 〜なんてたってキョンキョン〜 - AM1:00-3:00
3人は会うと、仕事の愚痴、自分の近況、その嘆きを肴にお酒を飲む。おそらく、若い頃は上の世代に、自分がその世代になると下の世代のと、そんな愚痴で盛り上がるのだろう。話の内容が常に等身大だ。
先の同級生3人と会うときも、話の内容が少しづつ大人に、今の等身大の内容になっているような気がする。そして、昔の「あんたのあの時の男はダメだったよね」とか「本当に、あんたあの時あーしてればね」って笑える時代を共有する。
気負いしない楽な感じもこの3人を思い出す。
そんなことをおもって、我が家にあるノベライズ本をめくってみると、好きなシーンが目に入る。
それは中井貴一さん演じる和平が秀子、知美母娘から言い寄られるシーン。先日は母秀子(美保純さん)と、次の日は娘知美(佐津川愛美さん)と同じイタリアンレストラン「シーラス」に行くことになる。
知美と来た和平に、先日と同じウエイターは「いつもありがとうございます」と、意味深な挨拶をする皮肉なシーンがある。このウエイターのさらりと、でも、やっぱり和平の節操なさを皮肉るような言い方が好きだった。いい役者がやってるんですよ。
これが、先日亡くなった志賀廣太郎さん。
ワンシーンのちょい役だけど、私の大好きな志賀さんの一役だ。
では、こりゃまた失礼いたしました。