数字嫌い
どうもこんにちは。
このブログのことは誰にも言ってないので、見てる人もほとんどいなくて、ただただ私の掃き溜めにすぎないね。
それでもリアクションを示してくださる方がいらっしゃるのはありがたい限りです。
そんなくだらないことにネット通信のいくらかを、ごく僅かだとは言え、使っていいのだろうか?月末に通信制限に苦しむ人にお譲りした方がいいんじゃないのか?
ったって、通信制限に苦しむ人も私同様くだらないことに使ってる人がほとんどで、分子みたいな無駄で満ち溢れてるわけですね。
でも、その分子が結合していろんなものを構成してるのも確かですよ。
なくてもいい無駄なものがなくてはならない無駄なものになる。
無駄だという本質は変わらんのですね。閾下の範疇かどうかは別としてね。
なんと尖ったことを言ってんだ、私は。
人様に口答えできるような身分でもないのにな、生意気だ。
今日は何について書こうかな…
頭の中にふと思うことがあって、それを頭の中で手繰って行くんだけれども、頭の中だけじゃいつの何か靄の中に消えてしまうから、こうして言語化しておこうというのがこれの主意な訳ですね。
きっかけはノートにとってあって小説の題材に使おうか、コントの題材に使おうかとあれこれと。
急にふと思ったのが、私は民主主義が嫌いだということ。
こんなことを言うと捕まるかしら…
治安維持法とかね。
でも、あれは国体の変革を企てることを禁じている法律だから大丈夫か。
民主主義の何が嫌いかって全てが本質から数字になってしまうこと。
だから、資本主義も嫌いなんですね。
ベルクソンが資本主義は
質的な/本性の差異→量的な/程度の差異
という変換を成立させた
と、いう主旨のことを言っていて、それを読んでずっとあった違和感の正体を見事に言い当てた変換方程式に感動したね。
天才すらも「知能指数」いわゆる「IQ」にその本質を奪取されてしまう。
アウトサイダー的な天才が認められなくなって行くのね。
何よりも私はそれが気に入らない。
数字で管理することはとても簡単で誰でも扱えるけれど、我々は自分の中で本質的価値を失う。
どうも他の人にはないようだけど、私にはその危機感があるのよ。
どうすればいいかとかは考えない。
政治学者でも数学者でもないからね。
ただ、そうなんだよねと思うだけ。そして、こそっとここに掃き溜めるだけ。
では、こりゃまた失礼いたしました。