本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

ノー密で濃密なドライブ記

 

どうもおはようございます。

 

巷を賑わす「不要不急」とはどこまでのことを言うのだろうか。そんなことを考えると、1日を無駄にしてしまいそうなので、都合よく解釈を変えることにしておく。

面倒な人からの連絡は「不要不急」で断り、高校時代の腐れ縁からの誘いは「気晴らしは『不要』でなかろう」とそそくさ出向く。もちろん、「密」には気をつける。

そんなわけで、先日、奴と深夜のドライブに行った。常時、窓を開けて、密閉を避けて、人気のいないところへ車を走らせる。と言っても茅ヶ崎を21時に出れば、どこに行こうがそうそう人がいるわきゃない。

 

まず、海沿いのコンビニで飲み物とお菓子を買って、車に乗り込む。運転するのは奴で、車の所有者は私なので、ワンデーの保険にも入ってもらう。なんでも揃うコンビニはこれから始まる冒険のワクワクを駆り立てる演出にはもってこいだ。金管のファンファーレにシンバルが重なり、ティンパニが響いて、木管グリッサンドが飾れる。冒険に相応しいBGMの代わりにコンビニとはお手軽でいい。コーラを買って、カフェラテを買って、お茶を買って。おそらく帰りまでにお茶を開けることはないだろう。

 

134号線をサザンオールスターズというベタ中のベタをBGMに走っていく。真っ暗な海も目が慣れてくると、少しづつ白波らしいものが見えてくる。それだけで海沿いを走る意味がある。標識に「小田原」の地名が目に入るので、小田原城でも見ておこうということになる。奴と出掛けて、何かが決まっていた試しがない。無計画を計画するのだって立派な計画だ。これが我らの流儀。

着いた小田原城に人影があるわけもない。日本史の大好きな我々は、早速小田原城で思い出すことを挙げ連ねる。秀吉の小田原征伐は何年のことか。ことの発端はなんだったか。そもそも小田原北条氏を早雲から末代目で言えるっけか。何故か奴のカバンから山川出版社の「日本史B用語集」が出てくる。

秀吉の小田原を攻めたのは1590年のこと。1585年に発した「惣無事令」に反して、真田領の名胡桃城にちょっかいを出した北条氏直が、秀吉に降伏しなかったことから始まる。小田原北条氏こと後北条氏は早雲の下克上に続いて、氏綱、氏康、氏政、氏直と続く。

なんて知識を自慢気にひけらしている場合ではない。

で、休憩中のタクシーが並んでいるだけで人影のない小田原城を後に車を走らす。次に目がいったのが標識が「沼津」の文字。

 

国道1号線をまっすぐ行く。ずっと行けば真鶴、熱海と抜けて沼津まで行けると思ったのだが、どこかで道を間違えたのか、いつのまにか箱根湯本に。ここまで来れば、先に待つのは駅伝の5区で知れる山道しかない。深夜0時を過ぎようかなんて頃の山道は今思い出すだけでもゾッとする。それでも、いくしかないと大宮台、強羅と山道を行く。

どうでもいいが、どうして、山道はあんなに曲がるのだろうか。あんなところに道が必要だろうか。なければないで、こっちも通らんよ、なんて的外れな悪態をつく。

 

御殿場から山を降って、市街地を抜けて、沼津の海へ。御殿場の山から見た静岡の市街地、自粛で静まり返る世相と打って変わって賑やかに綺麗なこと。何をあんな時間に灯りが燈ることがあろうか。

 

途中、見慣れない24hの蕎麦屋で夜食を取る。スマル亭、こう言っちゃなんだけども、寂れた感じがいい。暗い田舎道の中にポツンと煌々と光る蕎麦屋。なんとも言えない。

安い蕎麦で思い出すのが、柳家喬太郎師匠の「コロッケ蕎麦」

https://youtu.be/8hGUS397nrg

存在感なくこっそり効いている素振りだけを見せる出汁、深夜の静けさでなけりゃかき消されるような蕎麦の香り、出汁の中で溶けてほどけていく桜エビのかき揚げ。深夜に知らない土地で食べるにはちょうどいい。

食後の一服に向かいのコンビニでカフェラテを買う。案の定、初めに買ったお茶は封すら開けられていない。

 

人工的に明けさせた沼津漁港の深夜は明るい。

 

さて、ずいぶん長いこと書いたので、続きは次回にしましょうか。

いつものことながら、お読みの皆さんは何を読ませれているんだと、お疲れのことでしょうが、考えても見ていただきたい。読んで疲れるものは書いても疲れるんです。偉そうにいうことでもないやね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

引退中

 

どうもおはようございます。

 

江ノ島近辺にある職場が休業に入り、二週間。最初の数日は家に篭っていられるのがワクワクするのだが、こうも毎日続くと、飽き飽きしていくる。かと言って、人に会えるわけではない。今の世の中、なんだか人と会うこと自体が罪人のように白い目で見られるのだ。禁止されてることではないのに、自粛という言葉のせいで、世間は冷たい。その目はまるで、空いてる車両の優先席に座る人を見るようだ。

日本人にはどうにも、臨機応変に物事を捉えられないというか、堅物で面白くないところがあるように思う。自粛の意味が歪んでしまっている。「自ら」という意味が拡大解釈されて、その解釈に縛られている。

私たちはコロナと戦ううちに、全体主義の霧に迷い込んでしまった。気色が悪い。とにかく、Twitterを開くと気分を害すような情報が並んでいる。流行りのシンガーソングライターをBGMに猫と戯れる一国のリーダーで話が溢れかえっているのだ。

こういう時に自分が知らぬ間に寄りかかっている世界がいかにずさんなハリボテであるのかを痛感するんだな。

 

そんなことを言っても我が家にはおもちゃが多い。

こだわって集めている珈琲器具、エスプレッソマシン、ダーツ、無数の本、プロジェクターにスクリーン、ハンモック、電子ピアノ、トランペット、さらにこの在宅無職期間に新しく買ったギターとうちにいてもやることには飽きない。

それでも、ずっと部屋にいるという閉塞感から集中力が保たない。

何よりも人との会話がないことが一番、私を閉じ込めている。

 

あとは少し小説を書き進める。

これがまた全然進まない。考えてみると、私が何かを思考していた時間というのは自宅ー江ノ島間の自転車での往復だったのだ。つまり、職場が休業中の今、私には習慣的に何かを考える時間がなくなってしまったのだ。

思考する時間も会話する時間も無くなってしまえば、私の創作の源は枯渇してしまう。

元より水源はお猪口を満たすのが精いっぱいのか細い湧き水なのだ。間違えて誰かに踏まれてしまえば、すぐに塞がる。踏んだ当人だって湧き水を塞いだことに気付かない。さて、この生活でどうやって新たな水源を見つけるか。

 

茅ヶ崎の南口ではほとんどの飲食店が店を閉め、大きな通りは暗く閑散としている。

行きつけの寿司屋も持ち帰りの営業になってしまっている。出てくる料理が美味しのがもちろんなのだが、何よりもカウンター越しで交わす大将との会話が、またよかったのだ。うちで食べるんだとまた話が変わってくる。

 

打って変わって、サザンビーチには人が出ている。夕方、散歩に行くと、家族連れや夫婦で手を取り歩いていく人が結構な数歩いている。

ここにはどうにも自粛ということはないようだ。もっとも、私も行くところはないから、海までの散歩が日課になりつつある。

 

もう人生引退してるな、私。

あんなに仕事はしたくないと思いつつ、いざ、本当に在宅無職になると、心が保たない。ある程度のストレスが心のバランスをとっていたのかもしれない。

 

いつまで続くのかこの生活。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

想像力の欠けた船頭が漕ぐ泥舟、それは文化・芸術の敗北に等しい

 

どうもこんにちは。

 

世の中は新型コロナウィルスのことでいっぱいだ。物心ついた時から、テレビ画面の向こう側から笑わせてくれたコメディアンも犠牲になった。その一方で、計り知れないほど大きな失望を伴うその死を「最大の功績」という想像力が甚だ欠けた一言で片付けてしまう人もいる。どうして、彼の死が国民に対する意味しか持たないのだろうか。どうして、自らが執り行う行政の不手際も起因していると、自らの反省を促せないのか。想像力の乏しさが、人の不安を思いやることのできない愚かさが、日々、国家でも都政でも露呈している。

 

こういう時世になると、やはり真先に切られるのは、文化・芸術というおよそ物理的な生産性のない分野なのだ。ライブハウスには行くな、準備中の公演は中止しろと、それに関わる人間の生活など、気にも留めずに言い放つ。

そのことでどうなるだろうか、という想像力が乏しすぎるのだ。普段あってもなくてもいいと思っている文化・芸術が本当になくなることでどうなるだろうか、と考えが及ばないのだ。有事の際に、想像力の乏しさが露見するのはなにも矢面に立つ人たちではだけない。目の前の情報の信憑性を一度も疑うことなく、踊らされ、家を米やらトイレットペーパーやらでいっぱいにする愚者や、自分のことだけを考えて、目の前の人間を心ない罵声で蔑む者まで街にいる。

 

その想像力の乏しさは何が原因であろうか。私はその者達が文化・芸術に触れてこなかったのだろうと思う。

 

物理的な生産性のない文化・芸術の類が、私たちにもたらしてくれるものは、間違いなく精神的な成長だ。その最たるものが、想像力である。本読むにしても、映画を観るにしても、音楽を聴くにしても、私たちは何かを思い、何かを考え、何かを言葉にしたりする。それは想像力を使う練習のようなことをしているのだ。

先に述べたような愚者達は、こうした文化的なものに触れてこなかったのだ。仮に学校などで触れていたとしても、彼らは作品から感じたものを言葉にするのではなく、教師から求めらているであろう「正解」の言葉を導いたに過ぎないのだ。そんなことの所産は想像力を働かせたとは言い難く、文化的な体験とは言えない。

 

今、我々が対峙している局面は、新型のウィルスの拡散による恐怖ではない。それ自体は本来、我々が正しく把握し、理性的に動けば、恐るに足らないことだったはずである。しかし、ここまで事態が大きくなったのは、文化的な体験による想像力を著しく欠いたもの達が先頭に立って事態を収めようとしていることなのだ。そして、想像力の欠いた者たちは、想像力を培うはずの文化・芸術を滅ぼすことで、収集をつけようとしているのだ。

文化・芸術がなすべき役割を担えなかったことで、文化・芸術が潰れようとしている。それが今、我々が目の前にしている最大の問題だ。

 

ここで、文化・芸術が潰れては、この事態はおそらく収束しない。

 

まあ、マスクを2枚配れば、この難局がなんとかなるなんて言うんだから、想像力もへったくれもない。

この時世に、感染の予防に余念がないのは当然のことながら、私は無駄をやめない。こうして、今まで通りの駄文を書いたり、読書に映画に観劇に、一銭にもならない思考で生活を埋めたい。

もちろん、今後のことについては不安が大きい。世界中にウィルスに蔓延して、鎖国状態が広がり、世界経済が傾きかけている。それでも、こういう時にこそ、無駄がいいんじゃないかと思う。

 

こういう時に、そういう無駄から省こうということがどれだけ浅はかなことか。

こういう時こそ、無駄をなんとか守ろうってのが大事なんだろう。それが有事の際の人間の拠り所になって、次に向かうための想像力になるだろうか。それが次の時代を作るのではないか。戦後の笠置シヅ子のように。

言いたいことを勢いに任せて書いて、ちょっと支離滅裂ですね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

吉祥寺散歩記

 

どうもこんにちは。

 

ちょうど先週の話です。

 

木曜の深夜から八王子の友人宅で、厳密に言えば、友人が経営するコンビニで一晩過ごす。季節の変わり目には必ず会うので、思い出話をするというよりは近況報告と世間話。

たとえば、今回はコロナについてとか。

 

余談で言うけども、世間はコロナ、コロナと騒ぐ。しかし、たまたま顕微鏡で見たら、ウイルスが新型だと気付いてしまっただけで、それに気づかなければ、例年通り何人かがコロナで亡くなったに過ぎないのだ。問題は新型だと気づいたことにあるのではないか。顕微鏡なんてものがあるから、新型だと気付いてしまったし、煩わしく、馬鹿を煽っているのだ。この騒ぎの原因はどう考えても、顕微鏡の誕生にある。顕微鏡を生んだハンス・ヤンセン氏とその子、ツァハリアス氏にこそ責任があろう。

なんてことは、どうも本気では思っていない。

 

金曜日の朝方、銭湯で朝風呂に入り、蕎麦をたぐって別れる。

八王子の改札を抜けて、相模線に向かう道すがら。天気がいいし、このまま茅ヶ崎に帰るのももったいなかろうと、踵を返して中央線に乗ってみる。少し、ウトウトしたのち、目が覚めたのが吉祥寺なので、いい街だ、降り立ってみる。

が、改札を抜けて驚いた。そこらにはびこる人。人。人。無数の人。アホみたいに人がいるのだ。コロナで外出しないのではないのか、都民よ。

 

人がいない方にいない方にと歩いていくと、どこだか知らないところにたどり着く。

そこで見つけたカフェがMIMIさん。Cafe MIMI 吉祥寺南町のフレンチカフェ & 雑貨

 

天井にも壁にも、四面楚歌の雑貨。そのどれもが日本のものではないようだ。

そして、ソファの後ろにはフランスにまつわる本が並んでいる。フランスの旅行本、仏語訳された日本の漫画、フランス料理のレシピ本。中でも目を引いたのが、伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記 」。くだらないんだけど、奥があるように思えて、よく目を凝らすとやっぱり張りぼてだったみたいな騙し絵随筆集のページをめくりながら、アイスコーヒーとクロワッサン、オレンジジュースのセットを待つ。

ページがすこぶるめくられる。いつもより1.5倍速でめくられる。

そのうちにサクサクのクロワッサンが届く。小さなコップに入ったオレンジジュースが嬉しい。

賑やかな店内と静かに笑わせてくる文章とバターの香りいっぱいのクロワッサンと。こんな朝ごはんで始まるんだから、いい休日は決まったようなものだ。

 

駅に戻ると相変わらずの人だ。

駅ビルの中なんかはごった返した人で溢れている。嫌気がさして、パルコへ。

映画でもみるかと、アップリンクのタイムテーブルを見てみると、名前が聞いたことある程度の見知らぬ映画が一本、時間的にちょうどいい。

「ピーナッツバターファルコン」映画『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』公式サイト

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未来を希望でいっぱいにして、自らの手で切り開いていく勇気に溢れた、推進力。旅の景色を飾るアメリカの大自然

思い切ってみることが人生が何よりも豊かにする。誰のためでもない。自分のためにさえ、豊かになれば、その思いっきりが

周りをも変える。大人も子供ない。健常者もダウン症もない。女と男だってない。できるかできないかでもない。勇気があるかないかだ。

今の自分を鑑みて、何か周りを巻き込む勇気ある推進力を持って生きているだろうか。

 

この日、勇気を出したことといえば、クラフトコーラを飲んでみたことだ。コーラ好きの私からすれば、これは相当な勇気だと言っていい。少し話題になっているのは知っていたので、ここにあったかという発見に近い感動。

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西荻に暮らす友人。と言っても、昨年までうちの職場でアルバイトをしていた社会人一年目。映画の前に連絡とっておいたら、針治療後に合流するという。ちょうど私の映画が終わる頃だった。

初めての井の頭公園をぐるっと回る。花見禁止のアナウンスが終始流れる中、池の上を行くたくさんの白鳥たち。その周りを行きながら、村上春樹の悪口言ったり、又吉直樹の私的楽しみ方を発表しあったりする。何気ないタイミングの何気ない一言で、互いを笑わせようという会話のヒリヒリ感が徹夜明けの眠気には一番効く。村上春樹の10ページの短編など、出てくる男の着ているシャツの描写できっと終わってしまうだろうなんて笑いながら行く井の頭公園は陽も落ちかけて涼しい。

 

一時間程度の散歩で別れて、東京へ向かう。

東京から湘南新宿ライン茅ヶ崎へ。先日の夜から続く長い1日が終わる。

 

常に左脳は眠気。ぼんやりする右脳で思いつくままの吉祥寺散歩、これにて。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

ライナスとインプット

 

 

どうもこんにちは。

 

1ヶ月と少しの間、書かずにおりました。

まず一つには、キーボードの「G」と「H」が反応しなくなってしまったから。なんと言ってもこれが1番の理由でしょう。

こんな駄文しか書かずとも、やはり、使い慣れたキーボードが一番で、これでないと何か落ち着かない。

ネットで探したり、取り寄せたりで、時間がかかる。なんせ、先代はAmazonで見つけた一番安いものだったので、メーカーも何もわからない。

 

そんなキーボードを探しながら、「ライナスの毛布」と言う言葉を思い出す。

スヌーピーを見たり、読んだことはないのだが、「ぽっかぽか 」という漫画の何巻かの何話目かにこの言葉が出来てきたのを思い出したのだ。

たしか、あすかのお気に入りのぬいぐるみがなくなったのだ。時を同じくして、父の会社の部長が肩叩きで退職することに。部長の送別会の帰り道、あすかのぬいぐるみの一件を同僚の中村が父にいうのだ。「会社もライナスの毛布じゃダメだな」って。確か、そんな話。

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ずっと青い毛布に依存し、離れらない男の子。私たちは、いつでも結局何かに依存して、離れられなくなってしまっている。

あってもなくてもいいような何かに必死にしがみついている。一歩離れてみれば、どんなに滑稽な自分が映っていることだろう。

時々、私が自分の足で立っているのか不安になる。

 

本当はこんなことを書こうと思っていたのではないのですが、キーボードの話からまろびて、こうなりました。

 

あ、最近のインプットしたものをとりあえず、書き出すだけ、書き出します。

 

「パラサイト」

素晴らしい。ラジオで佐久間さんが「入口と出口が違う映画」と絶賛していたけど、コミカルでテンポ良く、スパイ映画のようなハラハラもあり、でも、言葉に出来ない人間の不条理な感情で犯してしまう殺人。途方もない夢にすがろうとするラストは夢か現か…。

 

「グットバイー嘘から始まる人生喜劇ー」

何もいう気になれない。原作のケラ戯曲の何が面白いのか分かっているのだろうか?改変されたキャラクター、ストーリー、設定のすべてが陳腐になり下がっている。

 

「新聞記者」

リアリズムの本質を見た気がする。なるほど、今の日本の国のあり方、マスコミのあり方、民主主義のあり方がある。ただ、「リアルだな」と私たちがそのリアリズムを楽しめるのは、物語に感情移入出来るのは、映画だと、つまり、虚構の世界だと認識しているからだ。虚構の中だからこそ、現実を模倣することができ、リアリズムを感じることが出来るのだ。現実が現実を模倣することがないのなら、現実にリアリズムは存在しない。

ならば、あの勇気に救われるラストの展開もやはり「虚構」でしかないのだ。それは現実に生きる私たちには、恐ろしい事実ではないか?

カメラワークと照明が素晴らしい。横から見るビルの屋上。キスをするのかと思わせるような西陽の当たり方。

 

伯山ティービー「畦倉重四郎」

YouTubeで講談をっていうから、もっと笑えたり、新作だったり、とっつきやすいものかと思ったら、いきなり重たい続き物だ。それでも、ひきつけてしまう。すごいじゃないか。演芸って瓢箪のようなものだと思っている。入り口は狭いが、ちょっと入ってみるとぐわっと間口が広がる。神田伯山、瓢箪の狭い入り口を姑息なことをすることなく、ただ、芸の腕のみで広げてしまった。

神田伯山ティービィー - YouTube

 

鬼滅の刃

アニメなんか本当にみやしないが、周りから絶賛の声しか聞こえないので、観るしかない。

面白い。主人公と鬼の間の感情の動きがいい。悪が悪のみでない、2面性見たいものが物語に推進力を持たせる。グラフィックがどうとかっていうことはわからないが、戦闘シーンの迫力がすごいことはわかる。

 

初恋温泉 (集英社文庫)

吉田修一氏の短編集。出掛けたら手持ち無沙汰だったので、ブックオフで買ってみる。サクッと読んだ記憶。

 

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

私は全く世界のどこを見て生きているのだろうか、と自問自答する。「こどもの」とあるが、大人のための対話だ。いつのまにか当たり前だと思っていたことが、言われてみればわかっていない。なのに、なんで疑問にすら思わないのか。疑問に思うことから始めないと。哲学の一歩手前で私が止まっていた。

 

さて、新しいキーボードも来たことだし、これからまた駄文を書き続けます。

お時間がありましたら、お付き合いのほど、願っておきます。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

一中通りの散歩録

 

どうもこんにちは。

 

私はわりと生活の中に読書というものがある方で、出かける時も必ずカバンに2冊は入れている。ちょっと難しい学術書と気楽に読める小説。最近は、「太宰治を全部読む(太宰治を全部読む)」と云う企画を始めたので、太宰の全集を入れていることもしばしば。

紙ベースの本が停滞し、電子書籍が幅を利かすこのご時世に、本を3冊もカバンに入れるなんて、時代錯誤も甚だしい。ましてや、情報としての価値が重んじられ、自己啓発の類が本屋の棚を侵略する今の時代に、学術書に小説だ。まして、太宰なんざ流行りもしない。

それでも、やっぱり本を開きたい時に、紙の手触りで開きたい。

 

自己啓発本は読まない。理由はいくつか。

まず、人に啓発されて動き出すくらいなら、動かなくてもいいと、思ってしまう。

自分が動きたいから動くのだ。なのに「すぐやる」とか「続ける」とか、人に言われないと上がらない腰なら、上げなくても良いではないか。

で、自分から動こうと思う。そう思った人が、方法を人様から教わろうなんて、本当に動く気あるのかい?と思ってしまう。動きたくなって、はじめにすることが本を読むと云うのはいかがなものかと。動きたくなったら動くだろう。街に出るなり、手にしてみるなり、書いてみるなり。じっと座って本なんか読んでたらもどかしくてしょうがない。なんせ、動きたいんだから。

方法なんて、動き出してはじめて考えるものだろう。そもそも、試行錯誤して自分のやり方を見つけていくことにこそ、動いていくことの一番大きな意味があるのに、動きもしないのに方法も何もなかろう。

 

そう云うわけで私は自己啓発本は読まない。

 

ただ、知り合いに面白い本と渡されたのが、この類だった。

効率よく勉強する方法を書いた本。どうして、あなたの方法が私にも効率がいいなど言って、1300円も取れるのだろうか? あなたと私では頭蓋骨の中の脳みそが違うのに、などと悪態をつきながら、ページをめくってみた。

目次に並んだ嘘くさい項目の中に「始める前に20分散歩する」というものがあった。他のものの嘘くささが際だったせいか、これだけは本当のことかもしれないと、なぜか思たのだ。もっとも、私が歩くのが好きなせいかもしれない。

 

まあ、信用もしていない本を眺めるのに5分も使ってしまった。その5分を取り返すつもりで、ひとつ散歩してみようと、始めて2年目に入るドイツ語の学習の前に実行してみることにした。

出勤の前に30分から40分の時間を使って習慣化した語学学習。その前に20分、散歩してみることに。もちろん、携帯など持たず、コートの右ポケットに財布、左ポケットに文庫本。身軽に歩く。

 

どうせ歩くなら、知らない道を歩いて、新しい景色を見ないともったいないという気がして、海沿いへ出て江ノ島方面へ。しばらく行くと左手にあるのが、一中通り。自転車で走り抜けたことはあるが、ゆっくり歩いたことはない。ちょうどいいので、一中通りを駅方面へ。茅ヶ崎でも高級と言われている住宅街にはレプリアかのような家が立ち並ぶ。オシャレなバルコニーでは今にもロミジュリが始まりそう。体がホカホカ暖かくなる。なるほど、勉強していて乗ってきた時と同じような感覚になる。

 

道すがら、初めて聞いたコーヒーのロースターを見つけた。「I don’t know coffee(i don't know coffee roaster)」さん。小さい店から漂う焼きたての珈琲の香り。これはここまで歩いてきた甲斐がある。早速、お店の中へ。大きな焙煎機も、店内の装飾も、瓶に並んだ数種類の豆もいい。

色々眺めて、深煎りのグアテマラを購入。早く帰って飲みたくて、そそくさと家路を急ぐ。これだけ収穫があれば、散歩した甲斐がある。いやはや、滅多に読まない自己啓発本もたまにはいいことを書くではないか。

 

帰って、豆を挽いて、珈琲を淹れる。刺激のないコクのある苦味の後に舌に残る甘み。美味しい。何よりも珈琲を淹れてる最中、特に蒸らして時の香りが気持ちいい。

淹れたての珈琲とともに机に向かって勉強を始める。今日は散歩もしたし、さぞ捗ることだろうと思って時計を見ると、もう家を出る15分前。20分のつもりの散歩が1時間近くも歩いてしまったのだ。

とんでもない。結局、今日やる予定だったことは半分も出来ないではないか。誰だ、勉強する前に散歩しろなんて言った奴は。

 

結局、自己啓発本を信じてしまったが故にこんなことに。

やっぱり私はこの手の本を信じない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

創作後記ー習作「創るということ」

 

どうもこんばんは。

 

前回を含め、前中後編の三部で拙作「創るということ」をご高覧いただきました。お付き合い頂きましてありがとうございました。

自分が振り返って読んでみても、拙い点ばかりで笑えてくるものです。

 

本当にありがたいことに感想のコメントもいただきました。

思わずハッとするご意見で、ありがたいばかりです。あんなものを読むだけでも時間の浪費なのに、コメントを書く時間まで使わせてしまったと、なんだか申し訳ない気すらしてきます。

 

そんなありがたい言葉の中で、とりわけ自分の創作と向き合うのに契機になったのが、「描写が過剰だ」というコメントです。

この指摘は自分の中では意外ででした。というのも、書いてる時に一番筆が乗ったが指摘のシーンだったからです。しかし「筆が乗っている」=「内容が伴っている」ではないので、調子のよいつもりでたくさん書けば書くほど、内容のない文章が作品全体のほころびを広げているかもしれないわけです。

 

自分が調子のよいつもりでいた描写が読者には過剰だったということは、どういうことか。

この習作の反省の核の部分を考えている気がします。

文章における描写は美術で言えばデッサンみたいものです。それが過剰だった、つまりそれに重きがいってしまったということは、白いスケッチブックに鉛筆と消しゴムでありのまま書いただけ、ということになるのではないかと。描写がありのまますぎて、そこから作品の空気感や登場人物たちの言葉にしない機微が伝えられていないということかと。

描写が描写でしかない。ありのままの絵面だけを伝えるのならば、ご指摘の通り、そんなに過剰でない方が読者の想像力も相まっていいのかもしれない。

なるほどな…、やっぱり、人に読んでもらうと為になる。

 

過剰だと思わせる「ありのまま描写」でなく、より空気感を伝える「雰囲気描写」を心がけてみよう。

さて、私にそんなものが書けるのかしら。

 

今回の作品をかいてみて、振り返って、思うことは、私はまだまだ作品と対峙する姿勢が未熟だということです。

書きたいことの輪郭部がぼんやりと滲む程度で、ぜんぜん形になっていない。このもどかしさ。どうしたら、いいのか。何が書きたいのかもっともっと向き合う前に来てしまった締め切り。不完全燃焼。

このもどかしさが、次回の習作への私のモチベーションになっています。

もっと勉強して、もっと書きたいことに向き合って、また今回のテーマに挑みたいと思います。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。