本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

「LIFE LIFE LIFE〜人生の3つのヴァージョン〜」

 

どうもこんばんは。

 

先日、4月27日にシアターコクーンでもって「LIFE LIFE LIFE〜人生の3つのヴァージョン〜」を観劇してきた。

フランスの劇作家ヤスミナレザ さん作、ケラリーノサンドロヴィッチさんの上演台本、演出。役者陣は、大竹しのぶさん、ともさかりえさん、稲垣吾郎さん、段田安則さんの4人芝居。

 

設定はとても簡単で、ともさかりえ稲垣吾郎夫妻の夕食会に大竹しのぶ段田安則夫妻が約束よりも1日早く訪れる。明日だと思っていたともさか稲垣夫妻は、上司の大竹段田夫妻をもてなす用意もなく、慌てる、という設定。

同一シュチュエーションを違った3ヴァージョンで展開するもの。タイムループしているわけでもなく、3回繰り返すこと自体が物語そのものに直接影響することはなく、我々は完全なる客観視点から4人が違った結末を迎えるのを360度、舞台を囲って眺めている。

 

同一シュチュエーションを違う展開で繰り返すという実験的な手法はよくあるが、この作品が面白いのは、4人の性格や人間性が変わらないのに、変容していく展開だ。

4人の性格ではなく、何が物語の転がる先を変えているのか。それは4人がそれぞれが抱える不安や苛立ちだ。

 

冒頭、天文学者のアンリ(稲垣吾郎)とキャリアウーマンのソニア(ともさかりえ)は、6歳の息子が歯を磨いてからベットでフィンガーチョコを食べることについて議論を交わす。なかなか寝付かない息子に2人は苛立つ。でも、互いに教育方針に関して意思の疎通ができていないことにもっと苛立つ。

アンリは発表を控えた論文が進まないことに苛立つ。ソニアは明日の会議資料が読めないことに苛立つ。

夜道を行くアンリの上司のユベール(段田安則)妻のイネス(大竹しのぶ)は時間に遅れてしまっていることに苛立つ。急ぐあまり、イネスはストッキングに電線が入ってしまったことに苛立つ。

みんながみんないろんな苛立ちを抱えている。その苛立ちを軽妙で、軽いテンポの会話で観客に提示する。この会話が全く説明的でなく、クスクスした笑いを誘うものでグッと世界に惹きつけられる。特に、稲垣吾郎さんとともさかりえさんの自然な夫婦関係がなんと見えない。寝ない子供を巡って揺れ動く夫婦間のパワーバランスを上手く表現する。このパワーバランスの変化がこの先の展開をより一層面白いものにする。

 

4人が内々にいくつもの不安や苛立ちを抱えていて、それらが些細な会話を通して膨らんでいく。それが膨らんで爆発する様が「3つのヴァージョン」なのだ。

テンポよく流れる会話の中でどの人物の、どの不安が膨らんで、爆発したのか。その機微に3つの変化をつける4人の役者陣の演技が素晴らしい。

ユベールのアンリに対する論文に関する一言で、ソニアが抱いている、上司にペコペコするアンリに対する苛立ちが膨れ上がる。アンリのソニアに対する寝付かない子供に対する一言で、イネスが抱いている、自分をないがしろにするユベールに対する不満が膨れる。

このちょっとした機微を表情、目線、声の強弱で見せるケラさんの演出、それに答える役者陣が素晴らしい。

特に、2幕で怒り狂う大竹しのぶさん。不満が膨張して、爆発するまでの過程が自然なので、なんだか笑ってしまう。上着を投げつけ、スカートをめくって伝線したストッキングを見せつける様に会場が引かずに沸いた。

それから、3幕の躁鬱を繰り返す稲垣吾郎さん。ユベールの一言に気分の起伏が激しく動くのを自然な演技で見せて、クライマックスのレコードを投げつけるシーンに持っていく。張り詰めた緊張感と観客を引かせない演技が本当に見事だった。

 

些細な一言もタイミングや受け取る側の感覚で違った結末を連れてくる。さっきはこうだったことが、今はああだったりすることにおかしみを感じる。いい芝居だった。客出しのオシャレなフランスのシャンソンがさっきまでのおかしみをぐっと引き立てた。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

厄介な重役気取り

 

どうもこんにちは。

 

平成が終わって令和になっても、生活は変わらない。陽射しが夏に近づくくらいか。 どだい、平成に生まれた私にとっては、平成で生きることが全てで、といっても大袈裟か。

元号を発表した官房長官を「令和おじさん」って呼ぶらしい。

久しぶりに日本史の資料集を引っ張り出して、元号一覧とかを眺めてみる。同じような漢字しか使われ

ていなかったり、面白い。やっぱりその時代を反映したものが付くんだろうか。

 

多くの人がツイッターやら番組の企画やらで新元号を予想していた。中には当てた人もいるらしく、大きな話題になっている。新元号を予想してみようなんて、思っていなかったから、ラジオやなんかで話題になっているのを聞いて、やってみれば良かったと思う。

元号に関して盛り上がっていたのは、そんな予想屋だけでなく、報道各所も我先にといろんなことを言っていた。明治、大正、昭和、平成ときたので、頭文字をとったM、T、S、Hの頭文字から始まるものはないとか、過去の元号からすると「永」の字が1番使われてるとか。

 

そんな過熱した報道から起きる事件は昔もあったようで…。

大正が終わって、昭和になろうという時に今の毎日新聞が真っ先に「光文」と発表したものの、それが誤報だとわかったので、責任者が首クビを切られるということがあったらしい。それには裏があって、

枢密院、当時の政府の重要なことを決める機関、が情報の漏洩に怒って直前に「昭和」で発表したとか。ただ、「光文」は当時、元号作成担当機関ではなかった若槻礼次郎内閣が作成したもので、はなから候補ではなかったとか。

これでクビを切られたらたまったもんじゃないなと思う。ただ、皇室に関わることで、こんな失策したら、不敬罪とか言いかねられない。そんなことになったら、本当の首が落とされかねない。恐ろしい。

 

というのは、ちょっと前の下書きから。

 

実際に元号が変わったことに対して、「新しい元号だから心機一転」なんてことはとてもじゃないが書けない。しかし、「元号が変わっても何も変わらない」なんていうのも擦られすぎたスカし方で微妙だ。だからといって、全く触れないのは尖ってる気もする。扱いが難しいのが元号だ。

 

GWで浮かれた世間に一人、海を歩きながらこんな考えてるんだから、私も相当暇人だ。

観光地に暮らすのも考えものだな。いつもは静かな喫茶店に人がごった返している。こんなところじゃ本も読めないし、これも書けない。

これからの時期、茅ヶ崎はやかましくなるんだな。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

悪口、毒舌は難しい

 

どうもこんばんは。

 

毎日が「平成最後の」日々。

こんな時だけ、みんな平成が好きになる。令和だって、始まる直前の今だからネタになるが、始まってしまえば、次は終わるその時まできっと誰からも振り向かれないだろう。終わりと始まりのために年号はあるのだろうか。

 

最近、「餃子バー」が目につく。ここでいうバーってなんだろうか。barの定義は酒場ってことだけらしい。ということは餃子を食べながら飲む飲食店は全体的に「餃子バー」と言って良いのだろう。

しいかし、そんなものはわざわざ洒落っ気を出して「バー」なんて飾らなくても、街の中華飯店はみんな「餃子バー」ってことになる。

餃子バーに行くなんてどんな神経な奴なんだって思ってみると、どうも青山辺りのお洒落な(と世間ではそういうことになってる)女性が巣食う場所らしい。

 

ある日、お気に入りのラーメン屋を久しぶりに求めて、友人と街を歩いていると、そのテナントがラーメン屋から噂の餃子バーに変わっていた。久しぶりに食べに行くお店なもんだから、結構楽しみにしていた。それが、なんぞ意味の分からない「餃子バー」なるものに変わっている。この時のショックは大きい。これは当然、訳のわからない餃子バーが八つ当たりに合うことになる。

 

なんだ餃子バーって。どうせ、餃子にパクチー乗せてワイン飲んで、インスタで映えれば満足な頭が空っぽの女が集まってるんだろ。

 

とっさに私は口走った。一緒にいた友人にはなんだか受けたようだ。笑い声が聞こえる。自分でもなかなかエッジの効いた毒を吐いたと思う。受けたのは純粋に嬉しい。

ただ、この時、その友人の笑い方に私が感じた面白さと違う面白さを友人が感じているような気がした。

この共有しているようで根っこでは違うところに由来している、共有しきれなかった笑いについて私はここ数日考えている。

 

なぜ、友人は笑ったのか。

まず思ったのは、そんなことを言ってインスタ映え女子をバカにしている私を馬鹿にした笑いではないか、と。つまり、「お前が言うなよ」(私はインスタはやっていないのでそんなことを言われる筋合いはないのだが)と言う揶揄の笑いだ。

それから、思ったことを直接口にしてしまう、私の幼稚さだ。つまり、「みんな思ってもそんなこと言わないんだよ。それを言っちゃうお前は子供だな」と言う揶揄の笑いだ。

後者は否定できない。

しかし、これを揶揄されてしまっては、毒舌という笑いそのものが成立しないことになる。

 

しかし、テレビでマツコデラックスの毒舌を笑っている私は「お前がいうなよ」なんて思わないし、「子供だな」とも思っていない。

私の毒舌とマツコの毒舌と何が違うのか。そろそろ朝を迎えそうなので、今日は問題提起だけして筆を置く。

気が向いたら、考えよう。

 

何か面白いことを見つけたら、ぜひ教えてください。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

春と余裕

 

どうもこんばんは。

 

すっかり春だ。

海沿いを自転車で出勤していると、温かいを超えて暑くなる。夜だって生暖かい空気の湿り気風を切りながら自転車で走るのは気持ちがいい。誰も追いついてこれないところを行くような快さ。花粉で苦しんでいる人たちにはお気の毒様だが、私は大好きな季節だ。

まぁ、私の好きな季節の話をここでしたってしょうがない。

 

この季節は外に出るだけで気持ちがいい。外の空気を吸うと、働いてる場合じゃないな、なんて思う。職場から逃走してしまおうかなんて考える。考えるだけで、出来ないのが情けない。

 

中学生の頃、サザンの30周年を記念して、日本テレビで5分くらいの連作ドラマを大泉洋さん主演で放送していた。その中で、都会のOL暮らしに疲れた吉高由里子さんが会議に向かう途中で、タクシーを拾って、湘南に訪れ、そこに住み着いてしまうエピソードがあった。

大人の自由ってそういうものだと思っていた。そうではなかった。

 

高校の頃、古典の授業中に先生が窓を見ながら「もったいないねぇ」って呟いたのを思い出す。

この先生は一度、定年退職してから再雇用で赴任したおじいちゃん先生だった。ほかの先生たちは陽気の変化を言及することはおろか、授業中に窓の外を見ることすらなかった。その気付きには余裕を感じられた。

おじいちゃん先生だから見せてくれた余裕だったのだろうか。高校生活が始まったばかりの私にはなんか染み入った。

周りのクラスとの進捗具合も気にしない先生だった。

こういう大人になりたいなと思った、時々。テストの試験監督中に寝てた時以外は。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

給料という体のガマン料、それから今期のドラマ「白衣の戦士」「わたし、定時で帰ります。」

 

どうもこんばんは。

 

今期のドラマを一通り観てみて、なんだか「働き方」を問う作品がやたらと目につく。日テレの「白衣の戦士」やTBSの「わたし、定時で帰ります。」など。

昔の仕事ドラマといえば、私生活を仕事で埋めて、身を粉にして働く姿を偶像崇拝するように描いたものが多かった。その副産物として、結婚できないキャリアウーマンなどが10年くらい前は大いに流行った。

 

時代がそうではなくなったのか、会社という組織が社会全体の中の柱としての求心力を失い、年功序列と終身雇用という安定と引き換えに自由に働く「フリーランス」が横行し、狭苦しい縦社会からの解放が始まる。それと同時に社会にはいわゆる「ゆとり世代」が野に放たれる。かくいうわたしもゆとり世代のど真ん中なわけだけど。

会社文化の衰退とゆとり世代と台頭が重なってしまったことが幸か不幸か、個人の中の「働く」ということの比重が変わってしまった。会社に求心力を見出す世代とそれ以降の世代の中で隔絶が大きくなった。

別にわたしはこれをどうこう言いたいわけではないし、その是非についても問うつもりはない。

 

ただ、そのタイミングで政府は「働き方改革」という政策を打ち出し、それに触発されたドラマ作品を創るということは、自ずと製作陣がその是非を問うているものだと思う。

そういう意味で、この2作品は今後どういう展開をさせていくのか楽しみだ。

巷では中城あやみの演技がどうたらこうたらと槍玉に挙げれらているが、本当にあげるべき玉を刺し違えた槍ではないだろうか。

 

そんな折り、わたしも自分が働くということについて考えてみた。

私にとって「働く」とはなにか。

 

子供の頃、米軍基地で通訳をしていた母親は事あるごとに私にこう言った。

給料はガマン料だ

仕事とは辛くて当たり前、嫌なもの。それを我慢してもらうのが給料なんだと。ま、その当時は、だからお前も嫌な家事を我慢して手伝って、そのガマン料のお小遣いを得るんだと、いう教えにつながるわけだけども。

 

子供ながらに腑に落ちなかった。納得できなかった。

では、今、わたしが抱いている将来の夢(当時は舞台演出家になりたかった)とはなんなのか。好きで好きで、憧れたものを仕事にしたいというのは幻ではないかと。

学校の先生は我慢して、わたし達の教壇に立っているのか?この店員さんは我慢してこのパンを売っているのか?憧れのこのダンサーは我慢して舞台で踊っているのか?この作曲家は我慢して私たちの演奏に点数を付けているのか?

ここまで考えると、中学生のわたしはこれを我慢してる人種と我慢していない人種に分かれることに気づいた。

そして、我慢しているにもふた通りあるのだと。

給料をもらうための我慢とやりたいことをやるための我慢と。

そして、わたしがするべき我慢はどっちだと。

 

なんだか青臭くて、世間知らずなお子ちゃまな綺麗事に聞こえているかもしれない。結婚して、家庭を持ったらそんなことは言ってられなくなるのかもしれない。

でも、わたしは給料を貰うために、毎日疲れ切って、休みは一日中寝ているだけだった母親のような我慢は出来ない。別に母親を蔑んだりはしていない。わたしに出来ないことが出来て、20歳まで食べせてもらい、大学、まあ中退したけど、も行かせてくれて本当に感謝している。でも、わたしにはその責任は負えない。そんなに縛れたくない。おもえば、今のわたしの年齢の時に母親には4歳の私と3歳の妹がいた。今の私には絶対に負えない責任だ。それを負ってくれたことに対してすごく感謝している。放り出してしまえばいいものをそうしなかった母親の偉大さは甚大だ。

でも、私には出来ない。こんなに言っていると情けなくもなってくる。

 

今の私に問い出してみる。

今は仕事が楽しくない。将来、音楽がやれるジャズバーのような、ジャズ喫茶のような店がやりたい。そのために飲食の経験は必要だろうとバイトとして入社し、なんだか社員登用してくれるというので、さほどの志もないが、料理人の修行を始めたのがちょうど一年前。

全然、楽しくない。我慢しかしていない。毎日憂鬱になりながら出勤してる。そりゃ、流れでこうなっただけだから。これじゃ、給料をもらうための我慢だ。

 

だから、決めた。

給料をもらうためのこの我慢は来年の3月いっぱいで辞める。

この一年で、次の行動に移る。もともと長居するつもりの業界じゃない。ずっとこの会社というつもりでもない。

だから、そのために出来ることを整理し、こなしていく。そのための時間としては1年は短いのかもしれない。だから、無駄な時間を作らずに生活する。

 

一年という期限が仕事に対する気も楽にしてくれる。ソリの合わない人だってあと一年だ。理不尽に押し付けられる仕事だってあと一年だ。そう思うと、気が軽くなる。何もあの人に働き方を合わせなくてもいい。

これは、仕事を適当にしてしまうこととは違う。仕事に対する責任を手放すための逃避ではない。これだけは戒めのように言い聞かせる。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

コント集団カジャラ 「怪獣たちの宴」

 

どうもこんばんは。

 

昨晩、世田谷パブリックシアターにて、ラーメンズ小林賢太郎さん率いるコント集団カジャラの第4回公演「怪獣たちの宴」を観てきました。

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ラーメンズ。そして、小林賢太郎さん。彼の創る舞台は常に細かいところまで緻密で、なのに共演者ですら次の瞬間が予想できない大胆なアドリブ。その両極端でバランスよく笑わされる大好きなパフォーマーだ。芸人でもあるが、劇作家でもあり、コント師でもある。肩書きは「パフォーマー」としか言いようがない。どこから湧いてくるのか不思議なアイディアがなんとも言えない魅力だ。観客が劇場に入ってから会場を後にするまでほんのちょとした瞬間も気を抜かずに楽しませてくれる。

 

昨日の舞台もそうだ。開演前の会場マナーの注意ですら、黒子の登場で一つのパフォーマンスとして楽しませてくれる。各コントの幕間の転換だって退屈させない。薄暗い明りの中で役者がパフォーマンスをして楽しませてくれる。コントが始まってからも、セリフのタイミング、顔を動かすちょっとしたタイミング、そんな細かいところまで創り込まれているコントからなだぎ武さんがなんとか会場を、いや、観客よりも小林賢太郎さん他共演者を笑してやろうというアドリブ。それを返す小林さん。その応酬がとてつもなく楽しい。

 

私が特に好きだったのは、辻本耕志さんが学校から撤去された二宮金次郎に扮するコントだ。

小林賢太郎さんのコント自体、コントという形はとってはいるものの明確に「ボケ」と「ツッコミ」が分かれていないものが多い。とは言っても、小林賢太郎さんと辻本さんはどちらかといえば「ツッコミ」に近い立場をとることが多い。お笑いで典型的なツッコミというよりは、コントの中での状況から一歩引いた視点で発言をするという意味でのツッコミだ。そんな役を演じることが多い役者さんだが、そんな辻本さんが教室に座る担任役の竹井さんと副担任役の加藤さんには見えないという設定で好き勝手やる。見えない設定だから、竹井さんと加藤さんは笑わない。これをなんとか笑わそうとする辻本さん。観客はずっと笑っている。いよいよ堪え切れなくなった加藤さんが吹き出すと、観客と辻本さんが変な一体感と達成感に包まれる。観客も2人が笑うのを待っていたのだ。

 

往年のラーメンズのネタ「たかしとお父さん」を彷彿とする。

ラーメンズ「タカシと父さん」非分割 - YouTube

片桐仁さんがなんとか小林賢太郎さんを笑わそうとする。笑うまいと堪える小林賢太郎さん。2人の関係性が織りなす大爆笑のコントだ。

こんなのはラーメンズの2人でないと2度と観れないと思ってた。それが、昨日、辻本さんの奔放さによって復活した。感動すらした。おっもしろいコントだった。

 

6人が小さいテーブルに集ってビールを煽っている。一人一人が少年時代の思い出を語る。夏祭りで彼女を連れたヨーヨーが上手い担任の先生。酔っ払って子供にカマキリを配るオジサン。学校の宿泊学習で見つけた全裸の知らない2人。出会ったこともない新しい文化を教えてくれる近所のニートのお兄さんなど、誰の記憶にもいそうでいない、でも、なんとなく分かる思い出を語っていく。そして、誰の記憶にも共通するのが、「アイツ」の存在だ。誰もはっきりと語らない「アイツ」。「アイツ」と被せて聞こえる怪獣の鳴き声。最後は6人で怪獣で収めにいく。 大人になった少年たち。どことなく切なさが漂うコント。

 

井上ひさしさんの「國語元年」を思わせるような地方ルールを統一しようとするボール遊び。地球上の遠心力と重力を変にロジカルな会話で笑わすコント。なだぎ武さんのアメリカ人のキャラに乗っかりふざけ倒す小林賢太郎さん。どれも面白かった。2時間、ずっと笑っていた。

フランスの哲学者ベルクソンは「笑い」を分析し、種類を分類分けしているが、この笑いはどれにも当てはまらない。分析しきれない新しい笑いだ。なんせポセイ笑いなのだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

芥川賞の受賞作 読了ノート

 

どうもこんにちは。

 

そういえば、ちょっと前に芥川賞作品を読み終えたところでした。

第160回芥川賞受賞 ニムロッド」と「第160回芥川賞受賞 1R1分34秒」の2作。

 

読了後の私の手帳にはこうある。

限りなく高い塔に集められた駄目な飛行機。与えられた価値によって意味を有する架空のビットコインを掘る。登りつめた先には一つになった全知全能の新たな形の人類。果てない現代人の欲を克明によく描きだされているいる。

ところどころ、文章をぼんやりさせる表現が物語全体の輪郭を曖昧にさせるが、ブレないいい文章。

情熱に燃えてるようで、燃えていない文体。それが冷たく苦しむボクサーの様。型にはまったボクサー地獄だ。その型からの脱出を図ろうとする無理も見られる。

ヘーゲル(註 この記事のために調べ直したら、当時の私はヴィトゲンシュタインのことを言っているらしい)の「総体」のように、「いない私」とのパラレルな距離で現れる主人公。その橋渡しをするウメキチは何のメタファーか?

 

まあ、公表する予定のない私的なメモとはいえ、言いたい放題だ。今また、文藝春秋の3月号に掲載の選評を読み返して、私に無理があると思っていところや、違和感があったところが評価されていたりもするから、わたしには見る目がないのかもしれない。

しかし、どちらも面白くて夢中でページをめくっていた。展開が気になるのではない。登場人物たちがとても魅力で読み進める度、ページをめくるたびに彼らとの距離が縮まるような感じがするからだ。

 

上田岳弘さんに関しては、昔たまたま手に取った「私の恋人」という作品がとても面白かったのを思い出した。この夏に渡辺えりさんの手によって芝居になるらしい。あの時と作風が大きく違うものだから、驚いた。言われてみると、作者と登場人物の距離感に名残を感じる。

町屋作品はお初にお目にかかる。いい熱量で書かれた文章で好きだった。ボクシングのことは全然通じない私が、これだけ調べ上げられた文章に置いていかれなかった。面白い。

 

読書の最大の楽しみは読みかえせることだ。今はこんな乏しい感想でも、しばらくしてから読み返せば違うものが見えてくるかもしれない。その時に面白いものを見つけたら、またご報告差し上げます。

 

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

 
第160回芥川賞受賞 1R1分34秒

第160回芥川賞受賞 1R1分34秒

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。