本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

コーヒーを冷ます時間が有意義かどうか、を考えるのは有意義ではないかな…

 

どうもこんにちは。

 

人生を有意義に過ごす方法。

 

そんなものはないか。あったら教えて欲しい。

何をもって有意義というものか。有意義だからどうだというものか。

 

ただ、週に1度か2度ばかり、美味しいコーヒーを淹れてくれて、ボケーっとしてても、うたた寝しても放っておいてくれるような喫茶店を行きつけに一軒知っていることは、有意義への近道かもしれない。

無限の時間をあくせくと1秒、1分、1時間とわざわざ細かく区切って自分から追い立てられるよりも、ただ、時間が過ぎるのをぼーっと感じられる余裕がある方が有意義に近いのではないか。無機質に回る時計の針でなく、徐々に湯気の勢いを失い冷めていくコーヒーにこそ、時間の経過を求めたい。

ぼーっと感じる時間の中でふつりふつりと思うことを深めてみるのが、案外無駄なようで、必要な思索になるのではないだろうか。時間を有効に使うことなど無意義だね。なんせ生きることにも、それについて何か思うことにも終わりはない。先の見えないものを整理して効率化を図るなんて愚直でしかない。

小田急線の片瀬江ノ島線の鵠沼海岸駅にある古い喫茶店に来るといつもこんなことを思う。

 

さっきまで熱々だったコーヒーはちょっと居眠りしてる間に、すっかり冷めてしまった。

なんだか、今思うことはコーヒーを冷ましてしまったことへの言い訳みたいだ。

 

誰にも責めらることはないだろうに、言い訳がましいこと言うあたり、時間に急き立てられないことに後ろめたさでもあるのだろうか。

そうでしょう。やらなきゃいけないことが溜まってることが何よりの証拠だね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

どぉぉーーんっと2連休、早稲田大学文化構想学部日本史

 

どうもこんばんは。

 

「どぉぉーーん!」と人差し指を突きつけ、人の弱さを見せつける。大きな口に規則正しく並ぶ白い歯を見せつけるようにニンマリ笑う大男のセールスマン、喪黒福造。

欲や見栄に惑溺した人の望みを叶えてやる代わりに、いくらか諫言し、それを聞かずに溺れる奴には容赦はない。

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中には、そんなにしなくてもいいんじゃないのっていうような酷な罰を受ける人もいる。それを超えていや、それは喪黒が楽しんで貶めてるだけだろっていうのもいる。

たった10分間のアニメでも全くバカにできない。人間性の深いところを垣間見る。私が生まれる前のアニメだが、感興される。

 

束の間の2連休の初日の昨日は昼過ぎまでベットでグダリとしながら、これを観る。こんなだらしない生活は「どぉぉーーん!」ものだ。

夕方から車を走らせて134号線をドライブしてみる。やっぱりサザンが似合う。海に臨んだカフェでコーヒーを一杯。ハワイテイストのコナコーヒーなのか酸味が強い。

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帰りに買い物して、レタスしゃぶしゃぶを作る。これが上手い。出汁にちょこっと「いしり」を入れるのがポイント。

2日目の今日は習作を書いてみたり、仕事のレポートをやったり、コーヒ飲んだり。仕事がないとなると残滓のような生活。

 

そんなでも今年からドイツ語を勉強してみる。これがなかなか続いている。

学生時代、ちょっとだけやったがほとんど覚えていなかったので、ほとんど振り出しのようなもの。

毎日コツコツと短い独文を和訳し、単語と文構造を確認して、音読する。

簡単だけど、語学には多読が一番だと思っているので、下手に文法と単語と構文とと分けて勉強するのはよくない。一語一語丁寧に読み込むだけで十分で、へんにシステマチックな勉強など意味がない。まして、聞き流すなどは語の習得にはほとんど意味をなさない幽霊みたいな都市伝説も同然。

ま、これは私の持論。

 

勉強ついでの話をすると、昨晩、早稲田大学の文化構想学部の日本史の入試問題を解いてみる。テーマ史が特徴の学部だけあって、家系図、仏教、中世の対ヨーロッパ史、法制度史のテーマが並ぶ。基本的な問題が多く、良問揃い。ちょっとおざなりになりそうな分野が並ぶので、突き詰めて勉強すればするほど得点に繋がるのではないか。江戸中期の学問史、保元の乱、鎌倉寺院は結局曖昧に終わらせてしまう分野ではないだろうか。公民分野にも思える出題もあったが、常識の範囲内で得点したい。

ま、こんな講評はどうでもいいか。

 

高校時代、よく友人と日本史の教科書から出題して遊んでいた。度が過ぎると、内容がかなり濃くなる。

千利休が建てた茶室は?

      妙喜庵待庵

ーじゃあ、何畳?

      2畳!

こんな会話をしていた。今思えば、ちょっと気持ち悪い(笑)

こんなものが教科書の片隅にちょっこと載っている。こんなことをして遊んでいた名残りで、いまでも奴とは早稲田の日本史を解いて講評して遊んでいる。上智慶應は変に細か過ぎる奇問が多いが、早稲田は選択肢をいくつか絞ったあとで、教科書レベルの知識をいくつか組み合わせて答えを導きだすいい問題が揃っているので楽しい。

 

また、仕事のレポートに戻って、幾らか目処がたったら芥川賞作品を読もう。文藝春秋はもう買ってある。はー、休日が終わる。 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

ミュージカルの勝手な持論 〜メリーポピンズリターズ〜

 

どうもこんばんは。

 

先日、レイトショーで「メリーポピンズ リターンズ」を観る。

ミュージカルは脳みそをぽかーんと空っぽにしていれば、自然とウキウキして、ワクワクして、心踊らしてくれる。変に硬くなって芸術性の高い映画を観るよりもいい時もある。

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映画でも観ようとたまたま時間が合ったのが、この映画だっただけで最初はさほど気乗りしなかった。寝ちゃったらしょうがないくらいに思っていたのだが、「巴里のアメリカ人」を思わせるような薄暗く湿った空をジャックが自転車で走り抜けていくオープニングで気分は一転、深く座った座席から腰をズラして、前かがみになる。自然と左足のかかとが上下し、テンポを刻む。

ミュージカルの一番いい見方だと私は思っている。別に私が思うだけで押し付けたりはしません。

そんなに期待をせず席について、オープニングで心を奪われ世界に入り込む。

 

音楽がよかった。帰りに思わずダウンロードするくらい。

何がよかったって、ちゃんとメリーポピンズが帰ってきてるのだ。新曲の書き下ろしなのに帰ってきてるのだ。つまり、前作1965年の音楽様式が採用されている。あの当時なかったロックやフィージョン、テクノと言った現代的な音楽は使われず、オーソドックスな当時の作風が守られている。そこに、メリーポピンズのお帰りを思わせる。

そして、アニメーションとのコラボ。メリーポピンズと子供達が割れた壺の中へ入り込む。アニメーション化された壺の中の世界観。まさにこれこそディズニー映画。最近のディズニー映画はアニメーションがやけにリアルで、歌わず、踊らず。そんなものは他の会社にやらせておけばいい。

というは私の中だけの独り言。

 

ミュージカルのストーリーなんて30字で語れるもので十分だ。

これも私の持論。

歌と踊りに心奪われている人間に小難しいストーリーはいらない。

だいたいそんなものは歌で統合出来ないではないか。そんなストーリーにレチタティーヴォ的な歌が入る隙がないではないか。

ケンカしていたカップルが歌を歌い、仲直りをする。歌がケンカ中と仲直り後のストーリーをつなぎ、統合している「統合ナンバー」と感情の昂りを表現する「レチタティーヴォ的ナンバー」とに分かれる。

この作品で言えば、日取りが悪いと壺を直してくれないトプシーのところで、歌を歌うことで逆さになったら直せると発想させる時のナンバー「ひっくりカメ」は統合ナンバーだと言える。

ひっくりカメ

ひっくりカメ

バンクス父が借金に取り立てられ、亡き妻の喪失を深く思う時に歌うナンバー「君はどこへ」は喪失感の昂りを歌うレチタティーヴォ的ナンバーだ。

君はどこへ

君はどこへ

 

前者があるとミュージカルらしくなる。後者だけだとどちらかというとオペラっぽくなる。

 

なんてこと知ろうが知るまいがどうでもいい。

そんなこと考えずに、サントラ聞くだけでも楽しい。

メリー・ポピンズ リターンズ (オリジナル・サウンドトラック / デラックス盤)

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ちなみに私が一番好きなミュージカルは「ウエストサイドストーリー」

バーンスタインの音楽が最高だ。こんなに楽しくなって、こんなに悲しくさせる音楽はない。

ミュージカル史的に言ってもここからミュージカルは大きく変わる。最高であるレニーの音楽がミュージカルの内包的崩壊につながると言われているのだが、これもどうでもいい話。

 

色々書いたが、これからこの作品を観ようという人は、今読んだ一切を忘れてしまうことを勧める。

なんせミュージカルの一番いい見方は、期待せずに脳みそにぽかーんとさせてしまうことだ。

押し付けないと言っておきながら、少々押し付けがましいか…。

日頃のうさは忘れてしまうことだ。ポカーンとした脳みそを愉快な音楽が揺らせば、そこからは製作陣とキャストがどうにかしてくれる。自然に任せて体を揺らすだけだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

文喫行ってみた

 

どうもこんばんは。

 

入場料1500円。正確には税込1620円。

私はこれだけ払ってどこに行ったと思われるだろうか。

映画館はこれくらいだ。何かの展覧会。そういえば、フェルメール展がそろそろ終わる頃だ。

 

正解は本屋。

本を買ったのではない。入店するのに1500円払ったのだ。1500円払って入店し、本を買うのだ。当然本を買うのにお金を払う。

 

六本木の駅を出て、大通りを警察署の方に歩くと、ガラス張りの入り口の頭上には大きく「文喫」の文字。それこそが「文化を喫茶する」本屋の名前だ。

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書籍もCDもダウンロードが横行して、もう売れないのではと危惧されてる昨今、物資的に手にとって活字を追いたい私にしてみれば、新しいスタイルの本屋ができるということ自体がどんなスタイルであれ嬉しい。

書籍離れを食い止めるために広く相手にするのではなく、1500円払っても覗いてみたいという狭い本好きを相手にするスタイル。とてもそそられる。

 

モダンで無機質なロビーで入場料を払い、階段を登ると、目の前に3万冊という本たち。カテゴリーごとに本棚に並ぶ本や平積みで積まれる本。出版社や刊行シリーズ、作家ごとに並ぶわけではないので、大きさ、色、形はまちまちだ。何故だか上中下巻の中巻だけがあったりもする。

大切なのはここで欲しい本を買い求めることではない。知らない作家、作品に出会うことである。

いつもの駅ビルの本屋に並ぶ本もあれば、初めて聞くドイツの作家の作品もある。

 

気になるタイトル、帯、手当たり次第に手に取り、隣の喫茶室に持っていく。

カウンターで無料のアイスコーヒーを受け取り、ソファに腰掛けて、一冊づつ吟味する。いつもの本屋で見かけたあの本。ここであったも何かの運命、買ってしまおう。初めて目にするドイツの作家。短編を数ページ読んでみると面白い。これも買おう。

ソファの隣にもう一つテーブルを引っ張ってきて、買う本、買わない本を選別する。こんなところで出会えると思ってなかった気になっていた詩集も買ってしまおう。

そんなこんなでほんとんど購入。

 

まだ時間はある。コーヒーのおかわりをもらってもう一周。

今年は何でもいいから、難解な本の精読をしたい、と哲学書の棚を覗く。ニーチェパスカル、カント、デカルトプラトンヴィトゲンシュタイン。倫理の授業で見かけた名前に、見かけたタイトル。知らない名前に、知らないタイトル。

それで、少しだけかじったことのある本を手に取る。最初の1行目から頭が混乱する。読み応えがありそうだ。上下巻を手に取る。

 

そんなことをして、何時間でも居られる空間。

結局この日は8冊、計14000円分のお買い上げ。こんなに買うはずじゃなかったのに。

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帰りの電車でアイスコーヒーをもう一杯お代わりしておけば、コーヒー一杯500円で普通の喫茶店に行ったのと同じくらいで、入場料の元が取れたのでは?なんて野暮なことを思う。

とにかく帰宅ラッシュの小田急線でこの量の本は重たい。

 

周りも本好きだと思えば、何故か居心地がいいし、手にとったものの買わずに棚に戻された本も丁寧に扱われている。

書籍離れで大きな本屋も無くなっていく。なんせここ文喫も青山ブックセンターの跡地にある。なくなるとは思わなかった本屋の一例だ。全国に万人に受ける本屋なくてもいい。それじゃ出版業界の裾野広がらないかもしれないが、それ以上に電車を乗り継いで、1時間のところにディープで本にまみれて、何よりも本が好きだということを感じられる空間があって欲しい。

 

本好きな方はもちろん絶対に行ったほうがいい。

でも、それ以上に普段読まない人にはステキな本との出会いが待っている。平らで無機質な画面をなぞって買う本でなく、質感を感じながら手に取る本との出会いは嬉しい。充足感に満ち溢れる。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

「ナナメの夕暮れ」「南瓜とマヨネーズ」

 

どうもこんばんは。

 

今週はやっと本を読み終わったり、DVDを観たり。

まずはその感想から。

 

ナナメの夕暮れ若林正恭

オドーリーの若林さん。そう、ツッコミの方。夕暮れが「ナナメ」というのがなんとも彼らしい。

M-1の覇者復活で決勝に駆け上がってきた時から、オードリーは一瞬でテレビスターになった気がした。人見知りを武器にしながらも、ゲストを斬りつつ場を回す司会者、若林さんと野生民族とのロケに始まり、東大受験、 フィンスイミング、ボディビル、一体どこに向かうのか分からない春日さん。それに今年で10年目にラジオのフリートークから垣間見れる仲の良さは聞いてるこっちも旧知の仲間に入ったようで嬉しい。リトルトゥースでよかった。

 

若林さんの性格のややこしさはなかなかのものだ。どうして、そうまでしてひねくれて考えるのだろうか。不思議だ。そのひねくれに共感できたり、分からなかったり。

しかし、そんなひねくれがひねくれていることを自覚して、一生懸命に社会の型にはまろうとひねくれ矯正をする。変わりつつあったんだね。ひねくれを矯正することが大人になるということだろうか?テレビに出て、あの世界に揉まれることは会社でサラーリーもらって働くのとはちょっと違う。その世界でああいうひねくれが認められないのだろうか?

 

太宰の言葉にこんなのがある。

大人とは裏切られた青年の姿である

ひねくれを自覚し、矯正していくことはまさにひねくれていては世間ではやっていけないということをまざまざと見せしめた裏切りだ。テレビに出るようになり、いろんな人に会っていくうちにひねくれた青年は裏切られ、大人になる。キューバやモンゴルで。

しかし、ことによると、テレビに出始めて裏切られたということは、そのきっかけになったM-1のあの漫才はひねくれることに真剣だった青年が魅せた漫才だったいうことではないか。その漫才は今も変わらない。

ひねくれを矯正しようと司会業に励んでいる若林さんだが、あのオードリーの漫才だけはひねくれた頃の裏切られる前の青年の姿かもしれない。あの漫才が見れるなら、ひねくれていることも悪くない。裏切られずに青年であることに遜色ないんじゃないだろうか。

 

それから最近観た映画が「南瓜とマヨネーズ

売れないバンドマンどそれを金銭的に支える彼女。

雰囲気で感じ合う終わりの空気。二人の間に漂う空気が変わっていく。それを見ないふりしている二人。

バンドマンは音楽を作ることを辞めてしまい、どうしてもバンドマンを支えたい彼女はお金を作るために水商売を始める。

そのうちにバンドマンは売れ始めた昔のメンバーから復帰の誘いがあるが、今のレコード会社に染まっているような彼らの音楽が好きになれない。一方の彼女は昔、心底好きだった男に再会する。

一度変わってしまった空気感は、元には戻らない。いくら懐かしくとも、いくら後悔しようとも戻らない。意を決して二人は新しい一歩を踏み出してみる。

 

どうして、こういう映画を観るのだろうか。

人の別れは切ないし、それを踏ん張って前を向く二人は希望になる。過去の自分の経験と重なりそうなところを探して、ちょっと形を変えて重ねてみる。まるで、映画の中の登場人物になったようで、より感傷に浸れる。

観終わると映画の中の彼ら彼女と同じ希望が胸に芽生えている。不思議なもんだ。

間接的な経験のはずだったのが、いつのまにか自分の実際の経験の追憶となる。

 

気が向いたら、ご一読にご鑑賞を。

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 
南瓜とマヨネーズ

南瓜とマヨネーズ

 

 

ちなみに引用した太宰は「津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

 

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

映画「ボヘミアン・ラプソディ」と東京都美術館「ムンク展」 〜叫んだり、震えたり〜

 

どうもこんにちは。

 

ちょっと前に映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。

まあ、これだけ方々で面白いと言われてるんだから面白いだろうとは思っていましたが、ありゃね、面白いじゃないよ。震えるよ。

私は音楽が好きで、音楽が持つ力は、っていい方するとかなり抽象的だけど、やっぱり他にはない凄みがあるし、ライブの臨場感といえば、得も言われぬものがある。そういう人間から見れば、ラストのライブシーンは心の底から震える。心も震えるし、足も震える。半分以上の時間、ずっと身体揺れてしまった。隣と余裕のあるちょっと値の張る席にしておいてよかった。

でも、音楽が身近にない人でもスクリーンでの臨場感、馴染みあるクイーンの楽曲で、楽しめることは間違いない。音楽だけでなく、フレディの作品や自身のセクシャリティに関するに対する葛藤、それによって少しづつ歪んでいく人間関係もしっかりドラマがあった。

フレディの元恋人で、ゲイだと告白した後も終生に友人として付き合ったメアリー役のルーシー・ボイントンさんがよかった。フレディがうぬぼれから迷走し、身もふたもない人間関係に囲まれ、内実的な孤独を抱えるふレディを救う雨のシーンの表情は最高だった。クイーンの復活のライブを袖で見守るメアリーがフレディの新恋人、ジム・ハッタンにもたれ掛かるシーンの笑顔。フレディのセクシャリティが受け入れられた象徴だった。

いい映画だった。音楽好きはもちろん、そうでない人にもおすすめ。

 

話は変わってまた先日。東京都美術館で開催中だった「ムンク展」に足を運んできました。

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「叫び」がなによりも有名な画家ですが、実はこれは「生命のフリーズ」という連作の中の一部なんだかとか。他に「接吻」「吸血鬼」「マドンナ」などが並ぶ。

目に見えるものだけでない。心から湧くものがキャンバスには浮かび上がってくる。聞こえたのか、感じたのか、浮かんだのか。物理的な表現を凌駕した色彩感と力強さ。動けなくなる。

 

特に震えた作品は、「メランコリー」という作品。

うねる波打ち際を背景に、手を頬に当て肘つく男性の横顔。どこか見たことあると思ったら、太宰の写真だ。

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キャンバスと写真いっぱいに伝わってくる表現者としての憂鬱と不安。

どこか重なる。

ぜひ、生で見てほしい。が会期が終わってしまっているので、憂いてもらうしかない。

 

なんだか全力で表現した人や作品に触れて、ああ、感化される。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

面白いこと、自分の中で、共鳴して

 

どうもこんにちは。

 

2019年が始まり、もう半月。これがあと11回しかないと思うと、人生は本当に短いもんだなんてへんにしみじみしてしまう。

そんな時間があるなら、動いたほうがよくないか?と、いう合理主義的な自分とそのしみじみに浸りたい感傷的な自分とがいて、今これをカタカタしているサザンビーチに臨むカフェの窓から見える海を見ながらぼーっと、どっちでもない自分でいる。

 

たった16日で面白いことがたくさん起きている。

リツートしただけで100万をばらまくって気色の悪いことを考える人がいたり、やっと出てきた日本人横綱が早々の引退、世間では色んなことが話題になっている。

世の中から自身にアングルを変えれば、今、隣でオーナーと世間話をしてる主婦さんも面白いし、ラジオをから流れてくる選曲だって面白い。

さっきまでゲストがやくみつるさんで、そのあとのラジオショッピングが「ヤクの毛のセーター」、畳み掛けるように流れる音楽はチャゲ&飛鳥。見事までの「やく」の三段落ち。清原が歌をリリースしてたら…。田代まさしだったら…。

そんなことがいちいちおもしろい。

 

ハッと思うことをいちいち手帳に書き記す。

普段使う手帳は去年から使い始めたほぼ日手帳

一番広いページのものを選んで、なんでも書き込む。くだらないことから、本や映画にドラマの感想までなんでも書く。

頭の中の「!」も「?」も詰まっている。たった16日間でも色んなことに頭が反応している。ちょっとめくるページが面白い。16日間でこれなんだから、去年のものなんか覚えていないものもあるから、自分の既視の体験に自分で驚いてワクワクなんざしている。

世の中のなんだかんだよりも自分の脳みそが案外一番面白かったりするもんだ。

 

まあ、これをよその人が楽しんでくれるのかはわからない。でも、ちょっとの人には共鳴されるのではと思うし、それを拡大させるのは自分の響かせ方だと思うし、こんな風に面白いものは世の中にごまんとある。それを死ぬまでに少しでも多く知りたい、感じたい、笑いたい。もっといえば、私が創りたい。

その形にする行為をこれからもちょっとづつ続けていきたいと思う。

 

ファイティングポーズを取らないで、勝ち得る恋愛などない|幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。|幡野広志|cakes(ケイクス)

 

恋愛も表現も生活も何もかもがこういうことなんだろうと思う。

最近、いい文章を見つけたなと思う。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。