夏の終わりはどこ
どうもこんばんは。
どうしても今晩中に書いておきたくて、本日2本目。
今日が8月31日で夏が終わるんだ。
暑いから夏なのか、8月だから夏なのか。
それでも、9月になったら夏じゃなくなる。
今まで、夏だって言われてきた暑さは「残暑」なんて呼ばれて情けなくなる。
なんだよ、ざんしょって(笑)
藤子不二雄の漫画に語尾に「〜ざんしょ」って付けるキャラクターがいそうだね。
夏の終わりがもつ、この叙情的な雰囲気はズルイやね。
失恋したわけでもないのに、切ないよね。
こういう気分を歌詞にするのがすごく上手いのが桑田さん。
例えば、
やがて二人だまって
つれなくなって
心変わって
愛は何故?
海啼く闇の真ん中で
月はおぼろ
はるか遠く
秋が目醒めた
これはきっと桑田さんのソロワークスの中で一番のヒット曲『波乗りジョニー』からですね。
他には、
誰かが落とした
麦藁帽子が
波にさらわれて
夏が終わる
『あなただけを ~Summer Heartbreak~』
ビート・ポップに酔わされた
わりとシックな秋の頃
Surfbreakの波が生まれて消えた
だからもう……
『可愛いミーナ』
中でも私が一番好きなのが、
波音は情事のゴスペル
あの夏よいずこへ
酔いざめのヌードで今
誰かに抱かれてる
『Bye Bye My Love』
これは桑田さんが書いた歌詞の中でも一番好きなの。
特に今年の夏はRIJF2017に始まり、「がらくた」リリース。
メディアにも引っ張りだこだった桑田さん。
最高の夏を最高の形で演出してくれたよ。
桑田さん表紙の雑誌たち。
買ったはいいがページをめくれない。
読みきっちゃったらこの夏が終わる気がしてね。
明日、9月になって本当に夏が終わったら、私の夏も終わりにさせるよ。
とか言いながら、夕飯に秋刀魚の炊き込みご飯を炊いてるなんてのはどういうわけだかね…
では、こりゃまた失礼いたしました。
チケット転売問題、五輪嫌い
どうもこんにちは。
Twitterで見つけたチケット転売問題について。
チケット転売問題は吹奏楽少年だった私にとって、中学生の頃から重大だった。
まだ全国大会が東京にある普門館という吹奏楽の聖地で行われていた頃、全国大会を聴きに行きたかった私は、正規のルートで取ることを試みてみるものの、とんでもない倍率に敵うはずもなく落選。
親に聞いたオークションサイトをのぞいてみると、3500円のチケットが30000円から40000円と10倍以上で取引されていた。
当然、中学生の私に手が届くはずもなく諦める。
この時は、高額転売を目的とした汚い人がいるなんて露にも思わなかった。
それから、桑田さんのライブや好きな役者さん、作家さんの芝居など、取れなかったチケットをオークションサイトで見てみると何倍にも跳ね上がっている。
この頃からチケット転売問題は結構な憤りを感じていた。
どうしても行きたい人間の足元を見るように、行く気がはなからない人間が当選して、これでもかと言わんばかりの金額を示してくる。やり方が汚すぎる。
少し前に、アーティスト側が転売の反対を示す表明をした時、Twitter上では賛否両論あったのには驚いた。
そう、否定的な意見があることにびっくりした。
「勝手だろ」とか「アーティストにいう権利があるのか?」「アーティストには関係ないだろ」などなど。
ふざけるなって言いたいよね。
チケット売れ行き、それに関するデータ、例えば年齢や性別とか、の正確さはアーティストが活動する上で大切だし、高額転売チケットが売れなかったら無駄になった分だけ入場者数に変化が現れる。
そうなると、アーティストが需要に応えようとする活動に支障が出て来ます。
買った人間の勝手なわけでも、アーティストには関係ないわけでもないでしょ。
どうにかしろよ。
別の話。
私はオリンピックが嫌い。
なんだ、あの全体主義的な空気感が嫌い。気色悪い。
アスリートが大会に向けて、懸命に努力する姿には心を打たれるし、感動もします。
でも、それを「みんなで応援しよう」みたいなのには寒気がする。
東京でのオリンピックも破談になればいいのにってずっと思ってる。
さて、閑話休題。
オリンピックに向けて、先ほどのチケット高額転売を問題をどうにかしようというのだ。
法制化しようというのだ。
こうして、オリンピックを中心に回っていることに吐き気がする。
今まで、アーティストやファンの声には耳を傾けずに、野放しにしていた問題を、自分たちの都合が悪いように風向きが変わると、こういう具合に権力を使い始める。
全く勝手なもんだ。
本当に勝手だ。
今日はちょっとストレートな表現がありまして、すいません。
それだけ、熱を持った内容だと思って読み流してください。
では、こりゃまた失礼いたしました。
言葉、小宇宙の拡張
どうもこんにちは。
気が付けばもう8月が終わるんですねぇ。
越してきてから昨日がちょうど3ヶ月目。
案外一人で暮らすのに不自由もなければ、不便もない。
家事だって炊事だってやる人がいなければ、やるんですね、不思議なもんで。
しかもやって行くうちにだんだん自分のこだわりとかが見つかって凝ってきちゃったりしてね。こうなると、次に同棲する相手が出来た時になかなか大変じゃないかって心配はいらないか。
最近、もっと言葉に長けたい、もっと深い世界が見てみたい、あわよくば創り出してみたい、という好奇心が強い。
個人が創り出せる小宇宙はどこまで広がるのか、って考えるとちょっと怖いような面白そうな。
いろんなことを知りたい。考えたい。語り合いたい。
でも、どんなに頑張っても人間の思考は言語以上の次元では行えないわけで、私が今見る小宇宙を広げるということはより一層の言語力、より一層鋭敏な語感が必要なわけですね。
音楽だって哲学だって詩だって映画だって美術だって、どんな芸術もその小宇宙の拡張の果てにあるわけだ。
そういうわけで、どうしたら言葉に鋭い感覚を持てるか考えたら、書いて行くのが一番早いわけですね。
じゃあ、書こう。
そういうわけで、2週間に一昨ぐらいのペースでペラ10枚以上の習作を書いていこうと思います。
ただ、思いつきを書いてもしょうがないので、こんなものを用意しました。
フィルムアート社、『感情類語辞典』、2015年、アンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッシ著
これは人間の感情に関して外的、内的シグナルを事細かに解説してあるものです。
簡単に言えば、「悲しい時って人間はこんなふうに思って、こんなふうに表に現れるよね」ってことが細かく考察されているわけです。
それから、これ。
フィルムアート社、『場面設定類語辞典』、2017年、アンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッシ著
これは先ほどの場面版です。
「この場所はこんなところだよね」っていうのを雰囲気だけでなく、具体的な五感を提示してくれるので読んでてははーんって納得しまう。
で、この2冊をどうするかというと、適当にランダムでそれぞれの感情と場面を設定して、この本をもとに書いていってみようということです。
ちょっと企画として面白いんじゃないかと思います。
なんせ、もとにする2冊の本が面白いんだもの。
小説か戯曲か朗読劇かもしれないし、とにかく書いていってみよう。
別にプロになりたいとか、賞が欲しいとかっていうのじゃないからね、つまんなくてもいいのよ。
大切なことは頭の中にある小宇宙がしっかり形になって表現されているかってこと。
書けたら、ここで発表しようと思います。
とにかく、書いて、発表して笑われて、恥をかいて、また書いてって繰り返しなさいというのが、私の大好きな劇作家別役実さんの教えらしいので。
よし、美味しいコーヒー淹れて、早速最初の一遍に取りかかろう。
では、こりゃまた失礼いたしました。
海老名、すごいな、変わったな
どうもこんにちは。
昨晩は海老名の映画館で「タイタンシネマライブ」を鑑賞。
そのあと、海老名住みの高校の同級生と少し飲んで、ラーメン食べて、散歩して、漫喫で漫画読んで、仮眠とって、始発で出勤。今、退勤。
てなわけです。
めちゃくちゃ眠いんです。
まぁ、これをお読みの方で私の体調を案じてくださる慈悲深い方がいるわけもなく、いや、もし仮にいたとしたら、今夜オオサンショウウオと会話する夢をお送りします。
まぁ、タイタンライブに関しては長くなるので、別の機会にしましょう。
ライブ後に友人と合流したわけですが、一軒目に予約してたお店が思いの外バー色がつよくて、お腹を空かせて行った私からすると、拍子抜け。
どっちかっていうと、二軒目に行く感じ。
にしてもそのバーちょっとひどかった。
一杯目にアプリコットのリキュールで炭酸の甘めのロングカクテルお願いしたら、アプリコットとグレープフルーツを合わせて、炭酸で割ったっていうちょっと聞き慣れない飲み物。
しかも、炭酸がペットボトルのウイルキンソンって…
いやね、ウイルキンソンが悪いとか、ペットボトルが美味しくないとかじゃないけどさ、格好がつかないじゃない。目の前でスーパーで96円で売ってる炭酸って。
金額の問題じゃないけどさ、瓶とかを目の前で開けてくれたら、雰囲気が出るじゃないのよ。
バーってそういうところでしょ?
互いにカッコつけた雰囲気がいいわけじゃない。
っていうので、ちょっとテンションが下がる。
まぁ、お店の名前は出しませんけど…
あーあとカクテルをシェイクするときの氷がぶつかる音とか、並んでるウィスキーの乏しさとか、まぁ、色々あるわよ。思い出しちゃった。
ここの話はおしまい!!
で、お腹を空かせた私たちは早々にバーを出て、海老名でお気に入りのラーメン屋「清勝丸」さんへ。
ここのつけ麺は魚介ダシが効いてて太い麺の小麦の香りとコシが効いた美味しい一杯。
海老名が本店で相模大野とかにもあったはず。
宗田鰹に片口鰯とかをダシにした一杯は風味豊かで最高。
https://ramendb.supleks.jp/s/19408.html
全然関係ないけど、小さい頃、生まれて初めて船釣りをした私が初めて釣り上げたのが宗田鰹。
おじさんが「そこそこ大きいから晩飯に刺身で食うべ」ってんで、夜、捌いてくれて記念すべき一口目を食べた私は感想を求められて、「ソーダなのに全然シュワシュワしないね」って答えて大いに笑われたのを思い出す。
そうだ!って…
あーくだらない。
そのあと、漫喫で寝たり、漫画を読んだりってのを繰り返して、早朝4時に隣のブースから聞こえてくるNHKの「みんなのうた」のオープニングに笑いをこらえたりとかね。
そういうわけで、今日は激しい睡魔と戦う勤務でした。
なんかよくわかんないコースは入るしね。
どうでもいいですよね。
そのうち、桑田さんの新アルバム「がらくた」の感想を更新します。
今、聞き込んで資料を探してるのでもうちょっとお待ちを。
では、こりゃまた失礼いたしました。
学校一のマドンナを前に
どうもこんにちは。
昨晩はバイト先の江ノ島の料理屋の料理長、副料理長、人事部の人と藤沢で飲みに連れて行ってもらう。
こうやって肩書きだけを並べるとすごいお偉い方が並んでおりますが、人間関係は結構ラフというか、その辺の立場的なものには仕事を離れると気にしない人たちなので、結構楽しい。
早い話が、社員に誘われたのだ。
バイトとして入ってから2ヶ月。
社員の話が来ただけでもびっくりなのに、それが2ヶ月って早すぎやしないか。
あれ?私ってめっちゃ仕事が出来る人間だったのか!
んな、わきゃないね…
まぁ、自分なりに頑張っているつもりなので、社員に誘われるというのはこの頑張りを認めてもらえた形になるので、素直に嬉しい。
ただ、社員になるかどうかは別の話になるんだな。
職場環境としては申し分ないと思う。
社員だって週2で休みがあって、制服とかそういう細かい環境が整ってて、上の人間も割と人当たりのいい人達ばかり。
社長も資本力のある人なので当分は潰れないだろうし、お店も観光地にあるだけあって、平日でもそこそこ忙しい。
飲食の中ではとてもホワイトなんだと思う。
あーここらで一旦落ち着いてみるのもいいのかなぁ、とか思いつつ、やりたいことはなんだろうなって日々考えてる私にしてみれば、料理人になるってことはそんな私に嘘をつくような形になってしまう。
目の前になかなかこない機会を頂戴しているのに、いまいち気持ちが乗ってこない。やりたいことが他にあるような気がするんだ。
学校一のマドンナに告白されるものの、実は小さい頃から一緒にいる地味な幼なじみに気がある主人公的な感じ。
ちょっと違うか…
兎にも角にも、思い切って踏み出せない。
なんだか変なもどかしさ。
社員になればもっと安定もするだろうし、肩書きみたいものだってついてくる。
けど、そんなことには実は全く頓着してなくて、やりたいことをやりたいと思う。
死なずに生きることをやめるような生き方をしたくないのだ。
言ってることが青いなぁ…
では、こりゃまた失礼いたしました。
相模線
どうもこんにちは。
今日はお休みだったので、昨晩はJR相模原駅にあるよくお邪魔するジャズオーセンティックバーってやつでお酒をいただいて、終電で八王子へ。
八王子には高校時代の友人の部屋があって、今や私の別宅と化しているのでいつでも泊まれる。
茅ヶ崎まで電車がないときは大抵八王子まで行く。
んで、午前中は寝たり、グダグダして、お昼を食べに行って、午後は甲子園の決勝を友人とテレビ観戦。
少年野球経験者の私と中高万年補欠野球部員の彼とあーだこーだ言いながらの観戦。
4回のセンターフライのエラーから流れが決まっちゃったね。
で、八王子から茅ヶ崎は相模線というザ・ローカル線が走っているのでありがたいことに一本で帰れる。
これをお読みの方がどこにお住まいか分かりませんが、私が育った相模原ってのはそこそこ都会的に開けているんですが、この相模線っていうのは茅ヶ崎から寒川や海老名、座間なんかを経由して八王子には向かうんでなかなかの田舎路線なんです。
一番驚くのは押しボタン式ってやつ。
駅に着いて扉の前に立ってても開かないの。
自分でボタンを押して開けるんですね。
これを初めて知ったときは、なんと田舎なことよ、と驚いたもんですよ。
この相模線に乗ると、ちょっと甘酸っぱい感じになる。
高校時代にお付き合いした人が上溝に住んでいて、高校の最寄りの駅であったこともあって、この辺でよく放課後の時間を過ごしたなと。
大学時代には、上溝からさらに降った入谷って田んぼの真ん中に住んでた子とお付き合いをしていた。
なんというか、青春時代を一緒にいてくれた人たちはみんな相模線沿いなんだな。
田舎ローカル線の相模線は当然各駅停車。
いちいちご丁寧に上溝にも入谷にも停まってくれる。
たった数分の停車時間に車窓から覗く景色は、当時とほんとんど変わらない殺風景ぶり。
こんなに方々で都市開発だって言って、毎日のように目まぐるしく景色が変わっているのに、相模線沿いの景色は今も当時のまま。
車内の空席具合だって今も変わらず。
変わったのは隣にあの子がいないこと。
なんていうのはよくあるうたい文句。
上溝から見える横山公園、入谷の田んぼ。
くだらない冗談を言いながら、コーラ片手に歩いたね。
そういうわけで、今さっきまで友人と騒いでいた賑やかさと打って変わる、私一人家路についた静かさとのギャップも相まって、ちょっとした懐かしさがこみ上げる、ローカル田舎路線、相模線。
もうすぐ茅ヶ崎に着きます。
帰ったら、今日は親子丼を作ると決めてるんですね。
では、こりゃまた失礼いたしました。
八月二十一日、東海道線遅延
どうもこんにちは。
今日は何について書こうかな…
仕事帰りのこと。つまり、夕方に向かって太陽が重い腰を上げた昼下がりの3時過ぎ。
東海道線の乗り合わせた車内で50代に差しかかろうというくらいの男性が三人分の席を使って横になっていた。意識があるかどうかも怪しく、嘔吐の跡がある。
車内に医者や看護師を呼ぶアナウンスが響くと私の乗る三号車に2人の看護師を自称する30代半ばの女性が2人やって来て、強い口調で駅員に指示を出していた。まるで飛行機でCAが「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」ってコントみたいだ。
看護師と駅員で男性を運んでいる一部始終を見ながら、私はとても勝手なことを考えていた。
あの看護師が私が好きになった人じゃなくてよかった
別に今、お付き合いしている人はいないし、過去にお付き合いした人の中にも看護師や医療志望の人がいたわけではない。言ってみれば、私には全く無縁の人たちなのだ。
なのに、どうしてそんなことを考えたのか全くわからない。
気付いたら、頭の中でそんなことを思っていた。
もちろん、看護師の方々がやっていたことはすごく立派なことで、あの行為によって男性は死を免れたかもしれない。
それに、これだけ暑いんだ。私が熱中症やなんかでもってああなっていたかもしれない。
目の前の人に起こることは私に起きても不思議なことではないことなのだから。
そういうことを考えてもやっぱり私が好きになった人には看護師にならないでほしい。
どうしてこうも頑なにこんなわがままを思うのだろうか。
私は死ぬのどうかも分からない男性を前に目を背けることしか出来なかった。
赤の他人だから関係ないなんて非情なことを思ったわけでも、逆に生死を行き来する男性に過剰な同情をしたわけでもない。
ただ、ちょっとした薄気味の悪さというか、背筋がゾッとする感じを覚えた。
私は人の死の予感を前に正常でいられるほど強い人間ではないのだ。
何も人間の強さというものが死を前にした時に試されるものではないのだろうが、それでも、死を目にしたときの精神というのは強さと結びつく気がする。
そして、私の根源の知れぬわがままはこの強さにあるのかも知れない。
すると、私が好きでいる人には弱くあって欲しいのだろうか。
それこそとんだわがままな気もするが、そういうことだと思える。
そんなことを考えてたら、電車は15分ほど遅れて茅ヶ崎駅に着く。
別に帰宅するしか予定がないから、来た電車に乗っただけの私には遅延なんか関係ない。
電車から降りたところで、私のとんだわがままに関する思考も、次いつ再開されるか分からないまま止まる。
あれから一時間が経とうかという一七時過ぎ、遅れていた電車のダイヤは平常通りを取り戻している。
そんなことはすぐにわかるのに、私の目の前で死にそうになっていた男性のその後は分からない。
では、こりゃまた失礼いたしました。