本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

ゼリーの発音

 

 

どうもこんにちは。

 

Twitterのトレンドの流れっていうのは数時間おきにコロコロ、コロコロと流れていって面白いトピックだなってちょっと考えているうちにもうすぐ次のトレンドに押し出されてて、絶えずしてって行く川の流れは鴨川なんて比じゃなくてナイアガラみたいなもん。あ、あれは滝か。

 

関係ないけど、スマホゲームの話題が多くて、あれのことかな?って覗いてみたら、全然違うキャラクターの画像がズラーと下まで続いていて、全くやらない私にしてみりゃ、ナンジャコリャ?ってこともしばしば…

 

そんな激流を行く川から掴んでみたのが

 

「ゼリーの発音問題」

 

ざっと説明すると、定着してきた吉田羊さんと鈴木梨央ちゃんが母娘を演じるポカリスエットのCM「ポカリ、飲まなきゃ」シリーズの新作がことの発端。吉田羊さん、キレイですね、鈴木梨央ちゃん、愛らしいですね。

今回の作品は『なつやすみのジェリー』と題され、母が娘に「ゼリー」の発音を教え込むという内容。

 

スペルにすると「jelly」だそうで。でましたね、日本人がとらわれる英語発音のるつぼの大御所、「l」「r」問題。

今回はこれがきっかけなんですね。

 

 

ポカリスエット ゼリーCM|「なつやすみのジェリー」篇 15秒

 

英語の発音をなおすシーンっていうのは 桓武天皇が都を平安京に持ってきた頃からある実にオーソドックスな演出ですね。

 

で、この母が教えてる発音が間違っているぞ!影響力の大きい公共メディアが間違っていいのか!けしからんぞ!

 

ってTweetが火種となり、賛否両論を方々で好きなこと言ってるわけですよ。

で、これから私も好きなことを言わさせていただこうというわけですが、先に結論だけ言いますね。

 

何言ってんだ、こいつ。

 

口が悪いので丁寧に言い直しますね。

 

何を仰っておられるのでしょうか、この方は。

 

まず、私が言いたいことは

公共のメディアが間違ったことを言ってはいけない

という主張に対する反駁です。

 

CMがメディアかどうかも疑わしいのですが、そこまで追求すると面倒な定義の話になりますので、いいでしょう、ここではCMはメディアにしておいてあげましょう。

 

メディアが間違ったことを言ってはいけない

では、例えば、auのCMで桃太郎、浦島太郎、金太郎、3人がつるんでますが、あれは間違ってますよね?

おとぎ話の中で三太郎はつるまないぞ!ってなぜ言わないの?

桃太郎とかぐや姫の間には子供がいますよ。これはどうですか?

 

ちなみに、余談ですが、桃から生まれた父親と竹から生まれた母親から生まれる子はどこから生まれるのか気になってます…

 

まぁ、いいや。

 

これはだって演出じゃないか。

そもそも、おとぎ話は作り話だよ。

 

っていうなら、吉田羊さんと鈴木梨央ちゃんは作り話の中の親子ですよね。

 

三太郎は明らかな作り話だって分かるけど、ゼリーの発音は間違った方を信じてしまう人もいる。

っていう反論も出るでしょう。

 

しかし、あのCMはNHKが製作した語学番組じゃないんです。

あのCMが商品の売れ行きに関する影響力は大きけれど、まさか、あれをみて、本当に発音を変える人のなんているでしょうか?

 

つまり、あのCMが持つ日本人に対する英語発音の影響力は間違った三太郎の関係の認知に対する影響力とさほど変わらないんじゃないでしょうか?

 

だいたいそんなことを言うなら、CMよりも格段に影響力の強い学校教育はさぞ素晴らしい発音をご鞭撻なさってることでしょうね。

あら、ちょっと嫌味な言い方。

 

まず、これがメディアが間違ったことを言ってはいけない、に対する反駁です。

 

次に私が言いたいのは、

CMの演出意図が全く考えられていない

 ということです。

 

先ほどの「メディアは間違ったことを言ってはいけない」にも通ずるところがありますが、英語の発音の間違いを指摘する前にこのCMの演出意図を考えたのか?、ってことです。

 

母娘が仲良くポカリゼリーを飲んでふざけ合っています。

そのおふざけとして母は娘にもっともらしく、発音を教えて遊んでいます。

これは遊びですよね、明らかに。

 

母が娘と机を挟んで向かい合い、ノート開いて鉛筆片手にって言うシーンなら真面目さも伝わってきますが、壁に寄りかかって、互いにもたれてって真面目さが微塵もない。

 

正しい発音を教えるよりも、間違っているかもしれないけど吉田羊さんの想像する英語らしい発音をしてもらった方が、より自然な演技に見えるのでは?という演出意図があったかもしれない?

 

よくこんな微笑ましいシーンの発音を指摘したな、とすら思えてきます。

 

それに、これはわざと間違ったことを教えている、と言う解釈もなしではないでしょう。

 

例えば、この演出家はかねてより、日本人が英語の発音をコンプレックスに思い過ぎてることに対して異議を唱えたかった。

そこで、今回、あえてわざと間違った発音を教えるシーンにすることで「lでもrでも、世界では通じるんだよ」ってことを意味したかった。

 

って言う私の解釈をありえないと完全否定する根拠は今の所揃ってませんよね。

 

調子に乗ってもっとひっちゃかな解釈をご披露しましょう。

 

どうしてこれが英語だと言えるんですか?

 

先程も言ったようにこのCMは作り話ですよね。

この作り話の中では、母はこの作品の中に存在する英語ではないけど極めて英語に近い架空の言語を扱っており、その言語では正しい発音なのかもしれません。

もしくは、この作り話の中では、英語を話す非英語圏の人が優勢となり、訛った英語がベーシックになっている、と言う設定かもしれません。

 

今の所この解釈を否定しうる根拠もないので、無理は大アリですが、これも考えられますよね。

 

こんな無理がなくても、なぜ間違っているのかを少しは考えてみたのでしょうか、彼は。

演出意図を考えることなく、いきなり作品にケチをつける行為は製作者に対して、これ以上ない冒涜ですよ。

私には自分が英語の発音が出来るんだって知識をひけらかしたかっただけにしか思えない。

 

もっと制作側の意図や思案を考えようと寄添わなければ、作り手側はどんどん受け手に伝わる分かりやすいものに傾倒していって面白いものや奥深いものが創りだされなくなる。

今回のことは些細ですが、私はすごく頭にきました。

語弊を恐れずに大仰に言えば、創作に対するレイプですよ、こんなの。

 

英語の発音の間違いを指摘したことに対してではなく、作り手側の意図を考えずに間違いを指摘したことに対してですからね、一応ここで改めて言っておきますね。

 

映画にしても小説にしても芝居、ドラマ、お笑い、音楽、絵画なんでもそうですが、作品が低レベルなのと自分が理解できていないことは別です。

 

っていうことを、簡単に自分の意見を発信出来るようになった自分への戒めにね、記しておきましょうね。

長々とこんな文章を読んでくださるお暇な方がどこにいるのか…

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

夏の柔肌に…

 

夏は夜

月の頃はさらなり

 

教科書で一度は覚えさせられた日本の名文『枕草子』の一節。

書いたのは清少納言さん。

 

私はこれを読んで、本当に肌の感じ方は人それぞれだな、なんて思ったね。

だって私は夏は明け方だもの。

 

寝苦しい夏の夜は真っ暗でジメッとした目に見えない膜に巻きつかれてうなされるほどに苦しい。

でも、太陽が昇り切る前のほんの数時間、明け方だけは肌に当たる風がサラリと心地よく、透明度の高い水色の空の広がりに清々しくなる。

一年を通して四季がはっきりしている日本の中でも夏の明け方が一番私の肌に合う。

 

しかもこの夏は海辺に近くに越してきていつでも海に行けるという贅沢さ。

海を眺めるのも明け方の海が一番心地いい。

深夜の海は空と海との境界線がたゆたっていてずっと先の闇に紛れてぼんやりとしている。

それが日が昇るのと同時に少しずつ姿を現し、その線を沿うように点のように小さな漁船がゆったり行く。

幻想的でない生活感のある風景が安心する。

 

一番好きな夏の明け方に、一番好きな明け方の海に行く。

 

それでこの先の生き方を考えたいな。

そのためにあてもない引越しをしたんだからね。

 

なんか面白いことがしたいという漠然としたものだけがある子供で、でも、それを求めるだけで生きていくのは難しいなんてことは分かるくらいには大人な中途半端さ。

周りのみんなはどうやって折り合いをつけているんだろう。

 

こういう夜は私は太宰を読むのよ。

彼の作品は意外とシニカルな笑いがあってユーモラスなんだよね。

私は『トカトントン』という作品がオススメです。

 

ところで、このタイトルの「柔肌」なんて一体どこに出てきたんだ(笑)

 

では、これまた失礼いたしました。

 

 

 

 

久々のスピードスターからの番組終了危機まで追いやるど下ネタ〜アルコ&ピースのD.C.GARAGEと爆笑問題カーボーイ〜

 

どうもこんばんは。いや、おはように近いのか?

今週は2ヶ月に一回、ラジオのお祭りスペシャルウィーク

 

深夜とはいえ、これを生で聞かないわけにはいかないね。

私は

  1. 24:00~TBSラジオアルコ&ピースD.C.GARAGE」
  2. 25:00~TBSラジオ爆笑問題カーボーイ

が火曜日のお気に入り。

どちらも最高の番組で今夜も深夜にも関わらず声出して笑っちゃうほど。

ご近所さん、ごめんなさい。今週だけは許して!!

 

 

アルコ&ピースD.C.GARAGE

アルピーはもともとニッポン放送でANNを二部→一部→二部と昇格、降格を経て3年も担当した伝説的二人組

生放送の強みを存分に活かして、めっちゃリスナー参加型ラジオで最終回には出待ちが300人を超えた大人気番組。惜しまれながらも(実際に私も終わった次の木曜深夜は「あ、もう聞けないのか」と切なかった)2015年3月に終了。

2016年10月にTBSラジオで復活。ただ、1時間の尺で録音とANN時代ほどめっちゃリスナー参加型ではなくなるものの、録音にリスナーを巻き込んだ番組でTBSでも大人気の地位を保持。

そんなアルピーのANN時代の名物といえばスペシャルウィークに必ずといいほどやっていたスピードスター

普段のアドレスとは違う専用アドレスをわざわざ作ってテーマメールを募集。完全に内容ではなく、一番早く送信してきたリスナーが採用されるという前代未聞のリスナーの巻き込み方。

ここで問題になるのが、radikoの時差。ラジオ勢とradiko勢で熾烈な争いが繰り広げられるのもリスナーの楽しみの一つ。

過去のどんなラジオのコーナーにもない、アルピーが番組の展開の全てをリスナーからのテーマメールに委ねる完全なる信頼とそれに答えるサイコパスを極めるリスナーとが作る最高傑作がこのスピードスター。

 

今夜、TBSラジオの生放送でスピードスターが復活

もうファンとしては感涙の極み。

ただ、TBSでは専用アドレスを作るまでは出来なかったようで、CMにいく直前で「件名はカタカナでイノシシで」と件名の変更。

それまでの件名「ブレイク」で送信してしまっていた私は、急いでコピペして「イノシシ」で再送信。

 

ちなみにこの時のテーマは「ジャンケンで3回連続で後出しされた面白くない空気(アイス)を打破(ブレイク)する方法」を募集するもの。

そして、採用されたのが、

スイカ食う!

というもの。

なんじゃそりゃってサイコ感。もう腹を抱えて笑っちゃうよ。

 

 

 

そしてその後25:00からは

爆笑問題カーボーイ

もうね、言わず知れた実力派大御所漫才師、爆笑問題が20年続ける番組

フリートークの安定感は当然のこと、テレビの裏側やテレビじゃ語らない太田さんの深い話、最近幸せ続きの田中さんの私生活など楽しい話に合わせて、往年の常連リスナーから送られるネタはハズレなしのお墨付き。どこを取っても間違いなしのロングランラジオ。

 

普段は録音の番組がスペシャルウィークの今日は生放送

ゲストにシンガーソングライターのIKURAちゃん相席スタートの山崎ケイさんを迎えて「IKURAちゃんの格言」を送る。

いや待ち、大切なレイティング回にIKURAちゃんってサザエさんかよ。誰だよ。

って私世代なんかは思っちゃうんですが、太田さん世代は懐かしいみたいですね。

80年代終わりにTBSで人気だった番組「土曜深夜族 とんがり編」ってのに出てたらしいの。探してみたけど、当時の映像は見つからず。残念ね。

 

とにかく彼は下ネタがひどいのなんの。とてもここじゃ書けないようなことを公共の電波を使って言っちゃうんだもん。

それを格言にしてるらしい。ギリギリここでもいけるだろう一例を挙げると

  • 自然をなめると命を落とすが自然になめると命が宿る
  • いいところとチ◯コは伸ばしたほうがいい

などなど。

この辺はまだ可愛い方でリスナーが送るものはもっとえげつないものまであって大人の悪ふざけ感満載

リミッターが外れた太田さんはまさに糸が切れた凧のように暴れまわって調子に乗ってIKURAちゃんに同調。それを止める田中さんのツッコミと本当に漫才そのもの。

CM前に一瞬冷静になった太田さんが一言。

「これ、今週で終わっちゃうんじゃないか」

 

50歳を過ぎたいい大人があんなに悪ふざけが出来るってかっこいいんだよね。

あんなにはしゃいでる大人いないもんね。23歳になる私だってあんなにはしゃげないのに、どこにあんな怒涛の体力の源泉があるんだろうね。素晴らしい。

 

私もあんな風に初心を忘れないというか、童心を手放したくないとか、まぁ、バカでいたね。

成長を微塵も感じさせないバカなまま生きいたな。

 

やっぱりラジオは最高だ!

 

聞く習慣がないって方は騙されたと思って一回でいいから、上の二つの番組聞いてみてほしいのよ。

1時間ないし3時間だけ耳を貸してみてほしいの。きっと後悔させないよ。

 

最近はradikoってアプリのタイムフリー機能で1週間以内なら聞けますんでよかったらぜひ!

 

ああ、いい夜だ!

最高に笑った夜だ!

 

では、こりゃまた(いつにないテンションの高さで)失礼いたしました。

最後から二番目の恋 〜なんてたってキョンキョン〜

 

どうもこんにちは。

やっぱり毎日書くってのは難かしゅうございますね。

 

テレビを置かない我が家では静寂に耐えかねて基本的にラジオをかけてるんですが、時たまDVDを見たり、アプリの見逃し配信でバラエティを見たりとかしてます。

 

ここのところ、ちょいと昔のテレビドラマ最後から二番目の恋を観てるんです。

これは本当に面白いね。

だって、四十五独身女の恋に仕事に事情を23歳の若造がなんとなく共感しちゃう、共感させちゃうんだもんね。

 

こちとら悲しいほどに大人だからね」

 

こういうセリフが切ないだけじゃなくってかっこよく聞こえるのはやっぱり小泉今日子だからでしょうか。

 

脚本は現在放送中の朝ドラ『ひよっこ』や映画『世界から猫が消えたなら』と話題作のクレジットにはほとんどその名を見つける脚本家の岡田惠和さん。

なんとないシーンのなんとない一言がちょっぴり切なかったり、深かったり、そんなセリフが魅力的な私も大好きな脚本家さんの一人。

主演は前述のキョンキョンこと小泉今日子さんと中井貴一さんのダブル主演。もう掛け合いのテンポ感が最高。見所は穏やかな朝の挨拶からちょっとづつ転がっていつの間にか口喧嘩に。なんて掛け合いがめちゃくちゃ面白い。

このお二人の周りを固めているのは坂口憲二さん、内田有紀さん、飯島直子さん、浅野和之さんなどなど安定感のある実力派ばっかり。

脚本家に役者にここまで揃えば、名作の条件がばっちり揃って面白くないわきゃあないね。

また、舞台は鎌倉と私にはちょっと身近で、観てると「あ、ここはあそこだ」と一度鎌倉に行ったことある人ならちょっとわくわくしちゃうロケーションも魅力的。

 

物語は鎌倉市役所の観光推進課に勤務する永倉和平(中井貴一)は娘のえりなを男手一つで育てながら、双子の兄妹真平(坂口憲二)と万理子(内田有紀)の面倒をみながら、嫁に行った妹典子(飯島直子)が夫婦喧嘩のたびに帰ってきてはわーわー騒ぎ立てるのを諌めながら、穏やかな生活を送っている。そこにテレビ局のドラマ班勤務の吉野千明(小泉今日子)が結婚を半ば諦め、終の住処に昭和の懐かしさの香りを求めて鎌倉の古民家に決め、引っ越してくるところから始まる。

 

仕事に生きるもまだちょっと恋が諦めきれないキャリアウーマンの千明と真面目に実直に家族の面倒をみるもその真面目さゆえに家族に少し煙たがられるお役人の和平を中心とした大人の恋模様を書いた群像劇。

 

この脚本のすごいところは、場面が割と多いのにきっちり整理されているので話の展開、大人の恋模様の共感にうまく繋がっているところ。

千明と友人たちの女子会、千明の職場、永倉家、典子一家、和平の職場と各シーンでいろんな人が出てくるので誰でも共感する立場やセリフがあるのが、23歳の私もハマった一因なのかね。

 

23歳の私でいうと、千明の45歳まであと22年。もちろん、男女の違いはあるにしてもあんなにカッコよく生きられるのかしら、とか思っちゃうの。

45歳になって見返したら、今は見えてこないところが見えてきたりするのかしら。

将来、見返すことが今からちょっと楽しみな名作ドラマ。

 

気付きましたか?

今日は太字と引用機能を初めて使ってみました。

これくらいは問題なくできますね。目次とかどうなのかな…

近々やってみましょう。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

数字嫌い

 

 

どうもこんにちは。

 

このブログのことは誰にも言ってないので、見てる人もほとんどいなくて、ただただ私の掃き溜めにすぎないね。

それでもリアクションを示してくださる方がいらっしゃるのはありがたい限りです。

そんなくだらないことにネット通信のいくらかを、ごく僅かだとは言え、使っていいのだろうか?月末に通信制限に苦しむ人にお譲りした方がいいんじゃないのか?

ったって、通信制限に苦しむ人も私同様くだらないことに使ってる人がほとんどで、分子みたいな無駄で満ち溢れてるわけですね。

でも、その分子が結合していろんなものを構成してるのも確かですよ。

なくてもいい無駄なものがなくてはならない無駄なものになる。

無駄だという本質は変わらんのですね。閾下の範疇かどうかは別としてね。

 

なんと尖ったことを言ってんだ、私は。

人様に口答えできるような身分でもないのにな、生意気だ。

 

今日は何について書こうかな…

頭の中にふと思うことがあって、それを頭の中で手繰って行くんだけれども、頭の中だけじゃいつの何か靄の中に消えてしまうから、こうして言語化しておこうというのがこれの主意な訳ですね。

きっかけはノートにとってあって小説の題材に使おうか、コントの題材に使おうかとあれこれと。

 

急にふと思ったのが、私は民主主義が嫌いだということ。

こんなことを言うと捕まるかしら…

治安維持法とかね。

でも、あれは国体の変革を企てることを禁じている法律だから大丈夫か。

 

民主主義の何が嫌いかって全てが本質から数字になってしまうこと。

だから、資本主義も嫌いなんですね。

 

ベルクソンが資本主義は

質的な/本性の差異→量的な/程度の差異

という変換を成立させた

と、いう主旨のことを言っていて、それを読んでずっとあった違和感の正体を見事に言い当てた変換方程式に感動したね。

 

天才すらも「知能指数」いわゆる「IQ」にその本質を奪取されてしまう。

太宰治はIQが高かっただろうか。レナードバーンスタインは?

アウトサイダー的な天才が認められなくなって行くのね。

 

何よりも私はそれが気に入らない。

数字で管理することはとても簡単で誰でも扱えるけれど、我々は自分の中で本質的価値を失う。

どうも他の人にはないようだけど、私にはその危機感があるのよ。

 

どうすればいいかとかは考えない。

政治学者でも数学者でもないからね。

ただ、そうなんだよねと思うだけ。そして、こそっとここに掃き溜めるだけ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

楽しむ職業marryさん

 

どうもこんばんは。

 

昨晩は下戸が生意気にもしこたま飲んで朝から頭痛…

ああ、これが世に言う二日酔いかぁ…

齢23にして人生初の二日酔いに大人になった感慨深さ。

ちなみに私が人生において大人に感慨深さを経験したのは、たらの芽の天麩羅を塩で食べて美味しいと感じたときと合わせて2回目。だって、たらの芽の天麩羅ってだけで大人な食べ物なのにそれ塩で食べるって結構な大人じゃない?

 

まぁ、私の大人談はいいやね。

 

で、なんでそんなにしこたま飲んだかと言うと、駅から家までの通りにあって、越してきたときから気になっていたジャズバーの扉を開いたのが始まり。

 

小雨の中自転車を漕ぎながら、店の前を通るとサックスの音が。何かやってるな、とそそられ自転車をお店の前に停めて店の中へ。

どこのバーでも、いや、バーだけじゃないね、一見のお店の扉を開ける時の緊張感たるや。まして、ドアにベルのようなものをぶらせげて、カランカランなんて鳴らそうもんなら、私にはなんたる不似合いな場所に来てしまったんだ、って一瞬の後悔。

 

が、この店にはそれが全然ない。

だってみんなステージのセッションに夢中で私が鳴らした懺悔の念のこもったベルなんか耳に届いてないんだもん。

 

キョロキョロしてると、ちょっと年配の女性に席に案内され、ノートを渡される。そこには、名前と楽器がズラーっと書いてあって、私にもそれを書けとな。

「今日は楽器ないのでここで聞かせていただきます」と断ると

「なんか出来るでしょ?なにやるの?」と食いついてくるので

「トランペットとパーカッションを」と答えると、

「あるわよ」と奥からボンゴを取り出してきて渡されちゃう。

 

しょうがないので、適当にリズムを刻んでると、隣のおじさんにセッションに誘われ、てんやわんや。

ドキドキだし、数年ぶりのラテン楽器でスラップ(甲高い音を響かせる奏法)は鳴らないし、でも、自分がすごく楽しんでるのはよく分かったな。

ああ、音楽やるワクワクはこれだって。

 

最後の締めに往年のジャズの名曲、『Take a Atrain』をやることに。

そこで、4小節のアドリブソロを回されてテンションはめちゃくちゃハイに。

 

一見にこんなに親切に輪に入れてもらって楽しくて楽しくてついつい飲んでしまって、この始末…

ま、こんな二日酔いなら毎日だっていいかね…

 

そこの店主marryさんがかっこいいのなんの。

最初に私にノートを渡した女性がそのmarryさん。

彼女からは音楽を心底楽しんでるのがジンジン伝わってきて、それが共鳴して、marryさんに負けず劣らず音楽を楽しんでる人が自然と集って来る。そんなお店。

marryさんはバーの店主と言うよりは、音楽を楽しむことが職業みたいな人で憧れちゃった。

久しぶりにトランペット引っ張り出して来て練習しようかなっと。

 

人生をぼーっとしに茅ヶ崎に来て12日目にしていいお店を見つけて、少しこの先のことも思案しちゃってね…

 

そういえば、私がなぜ茅ヶ崎に越して来たのかまだですね。

おそらく私の人生の中で最もクズ期に突入した話をもう少ししたらしましょうかね。

 

興味ないかな…

 

では、またこりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

荒削りな思索1

どうもこんばんは。

 

どうやら、編集の機能をうまく使うと見出しやら目次から飛んだりとか出来るらしいね。
もう少ししたらそういうのにも兆戦してみよう。

 

もともと私は日記としての記録性でなく、エッセイ的なものを書きたいと思って始めているので、あんまりその日一日の出来事は書かないかな…

 

コンピューターの発達で社会は情報化社会になったとみんな言うけど、この情報化社会とはなんぞや。
ただ、物知りであれって社会なのか?
文脈によってはそう言う使い方する人もいて何言ってんだ、と思ってしまう。

 

情報のやり取りがよりスピーディーになるから敏感におなりって事だと私は解釈してるのね。だって、ものを知ってると言うことはインターネットの誕生と同時に人間の価値の一部から排除されてるからね。
そりゃそうよ、人間の脳ではコンピューターにはクオリティだってクオンティティだって敵いっこないんだからね。

 

では、コンピューター誕生後、人間に求められるものは何か…

 

私は、知的創作だと考えるんですよ。

 

最近、コンピューターは小説を書いて創作は始めたらしい。
けど、私が言いたいのは知的創作ってやつ。おそらく私の造語。

 

ただ、型を流し込んで作品にする創作ではなく、作品が思考思索の結果の所産であると言うこと。それが私が言いたい知的創作。
私は商業的娯楽と純な芸術との境はここにあると考える芸術至上主義者であるんで極端かもしれないけどね。

 

コンピューターの書いた小説は大量の過去の作品を分析し分類し真似ることで完成したものであって、その創作過程に思索が一切ない。もちろん、人間の記憶力を凌駕する膨大な量の資料をインプットしているんだから、それはそれで面白かったりもするんだけどね。でも、思索に苦しんで生まれる作品には敵わない。
それをあえてし、作品にするのが人間の芸術家なんです。

 

情報化社会になって改めて芸術について考えました。

 

ちょっと荒いのでもっと丁寧に思索しようね。
なんてったって私は人間だからね。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。