悪口、毒舌は難しい
どうもこんばんは。
毎日が「平成最後の」日々。
こんな時だけ、みんな平成が好きになる。令和だって、始まる直前の今だからネタになるが、始まってしまえば、次は終わるその時まできっと誰からも振り向かれないだろう。終わりと始まりのために年号はあるのだろうか。
最近、「餃子バー」が目につく。ここでいうバーってなんだろうか。barの定義は酒場ってことだけらしい。ということは餃子を食べながら飲む飲食店は全体的に「餃子バー」と言って良いのだろう。
しいかし、そんなものはわざわざ洒落っ気を出して「バー」なんて飾らなくても、街の中華飯店はみんな「餃子バー」ってことになる。
餃子バーに行くなんてどんな神経な奴なんだって思ってみると、どうも青山辺りのお洒落な(と世間ではそういうことになってる)女性が巣食う場所らしい。
ある日、お気に入りのラーメン屋を久しぶりに求めて、友人と街を歩いていると、そのテナントがラーメン屋から噂の餃子バーに変わっていた。久しぶりに食べに行くお店なもんだから、結構楽しみにしていた。それが、なんぞ意味の分からない「餃子バー」なるものに変わっている。この時のショックは大きい。これは当然、訳のわからない餃子バーが八つ当たりに合うことになる。
なんだ餃子バーって。どうせ、餃子にパクチー乗せてワイン飲んで、インスタで映えれば満足な頭が空っぽの女が集まってるんだろ。
とっさに私は口走った。一緒にいた友人にはなんだか受けたようだ。笑い声が聞こえる。自分でもなかなかエッジの効いた毒を吐いたと思う。受けたのは純粋に嬉しい。
ただ、この時、その友人の笑い方に私が感じた面白さと違う面白さを友人が感じているような気がした。
この共有しているようで根っこでは違うところに由来している、共有しきれなかった笑いについて私はここ数日考えている。
なぜ、友人は笑ったのか。
まず思ったのは、そんなことを言ってインスタ映え女子をバカにしている私を馬鹿にした笑いではないか、と。つまり、「お前が言うなよ」(私はインスタはやっていないのでそんなことを言われる筋合いはないのだが)と言う揶揄の笑いだ。
それから、思ったことを直接口にしてしまう、私の幼稚さだ。つまり、「みんな思ってもそんなこと言わないんだよ。それを言っちゃうお前は子供だな」と言う揶揄の笑いだ。
後者は否定できない。
しかし、これを揶揄されてしまっては、毒舌という笑いそのものが成立しないことになる。
しかし、テレビでマツコデラックスの毒舌を笑っている私は「お前がいうなよ」なんて思わないし、「子供だな」とも思っていない。
私の毒舌とマツコの毒舌と何が違うのか。そろそろ朝を迎えそうなので、今日は問題提起だけして筆を置く。
気が向いたら、考えよう。
何か面白いことを見つけたら、ぜひ教えてください。
では、こりゃまた失礼いたしました。