本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

手帳、生命保険

 

どうもこんにちは。

 

年の瀬になると来年の話も出てきて困る。しょうがないから、来年の手帳も持ち歩く。ただでさえ、荷物が多いのに、A5版の手帳を2冊なんてカバンの底が悲鳴をあげている。書くことがいつでもあるわけではないのだが、思いついたことや観た読んだ聞いた諸々を書き留めるには1日1ページ欲しかったりする。そうなると、大判の大きな手帳を用いることになる。大きなページを365枚綴じても、真っ白なページもあれば、書きかけの習作の草稿、メモがバラバラに糸屑みたいに走っているページもある。

暇な時に、パラパラとページをめくって、忘れかけていた糸屑を拾って紐解いてみると、新しいことを思いついたり、真逆を思いついたりする。それを別日に書いたことが分かるように違う色で書き足して、2色の糸屑を絡めてみる。そのうち、ある程度まとまったものを活字にして、ここに記したりしているわけです。

それでも糸屑の断片から深めて、ある程度の文章にすることにはまだまだ未熟で、思っていたものにならないこともしばしばある。考えると言うことと、言葉にすると言うことがいかに難しいかである。

でも、その壁をよじ登らないと、言葉と向き合う意味がない。ただ、その壁を登るための命綱が手帳にこびりつく糸屑というのが心細い。それを補給するために、調べ物をして、知識の補足をして、糸屑をいくらか太くする。ただ、発想やアイディアだけで力ずくで文字数だけ重ねるというのは、パンの発酵と一緒で、外見が大きく膨らむほど、中身はどんどんすっからかんになる。

そんなことを最近思うと、なかなか一つ書くのに時間がかかる。

思考は進まない。中身はすかすか。

 

先週、知り合いを介して生命保険の営業さんの話を聞いてきた。

生きていくにもお金がかかる。いっそ死んでしまえばと思おうと、それはそれでお金がかかるもの。なんせ死んだ時にまとまったお金をもらうために、月に数千払わねばならない。私に葬式は要らない。と言っても、残された者はそうはいくまい。

人が死ぬっていうのはね、その人が亡くなって全て終わってしまうわけじゃないんだって。その人の知り合いが、その人となにかしら関係のあった人がみんな亡くなって、それで初めて終わりなんだって。

ケラリーノ・サンドロヴィッチ「グッドバイ」

私がおさらばするまでに、私を知る人が誰もいないなんてことはまずあるまい。今生きるのも大変なのに、死んだ時のために、今から身銭を切るなんて、なんだか納得できないような気もする。

 

いっそ死んでしまえば、当人の私はまだいい。心残りは閻魔様の前でおべっかが言えるかどうかくらいなものだ。

問題は、生きてしまった時だ。少し語弊のある言い方。

障害や病気が残ったまま生きるとなれば、人ごとではあるまい。生きていくにはお金がかかる。治療もお金がかかる。そうなれば、国からの年金ではなんの足しにもならないし、まずもってこんな政府では頼ろうという気すら起きない。国なんか存在しないも同然だ。

そうなれば、やはり入っておくべきか保険。生命維持というのはなんとも複雑で、厄介だ。しがらみだらけだ。しがらみに抱かれている。せつない片想い あなたは気づかない。それはキョンキョンの「木枯らしに抱かれて」だ。

 

なんてくだらないことを言いつつ、返戻率が日本よりも格段によいアメリカの保険にも入ろうと思っている。思っていることとやっていることは裏腹だ。何だかんだ生きようとしているな、私。

 

桜を見るのだって、一向にかまやしないが、私の生き死にには関係ない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。