本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

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茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

月刊「根本宗子」『愛犬ポリーの死、その家族の話』@下北沢 本多劇場

 

どうもこんばんは。

 

ちょっと前のことですが、12月31日に下北沢は本多劇場にて、オールナイトニッポンのパーソナリティとしても活躍中の根本宗子さんが作演出を手がける「愛犬ポリーの死、その家族の話」を観劇して来ました。

名前は知っていたもののなんかこれまで観に行く機会のなかった劇作家さんだったのですが、一度は観ておきたいという気持ちは、芝居好きというよりはリスナーとしての好奇心に駆られてなんとか千穐楽日に駆け込みました。

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前評判ではどうにも根本宗子という作家の作品はジェットコースターらしい。

ジェットコースターな芝居とはどんなものだろうか。

 

結果から言うと、たしかに根本宗子はジェットコースター芝居の書き手だった。

何がジェットコースターってまず、セリフ量の多さ。

絶えず、ずっと誰かがずっと喋っている。一から九くらいまでの情報は全てセリフで伝わってくる。行間を読ませる情報はほんのちょびっと。あれは役者さんは大変だ。

そして、突然始まるミュージカル。

おそらくここに意味はない。ただ、根本さんのやってみたいによるものだと思う。芝居の内容自体にミュージカル仕立てを取り入れたことによる効果はない、と言い切ってしまってもいいかもしれない。

 

4姉妹の上3人はなんだか難ありな男と一緒になる。おそらく、根本さんの過去の交際経験が面影をのぞかせているんだろうか。この3組の夫婦のプロットは結構面白いし、男の私から見ても女性の側に共感してしまうダメ男さのデフォルメ。そういう人物の描写は見事でした。特に長女の旦那の男尊女卑思想にはいちいち腹を立ててしまった。

 

しかし、どうにも私が腑に落ちなかったのは主人公の四女。

周りに感情を押し殺すことを期待されて、話し相手は愛犬だけ。そんな愛犬の死と入れ替わりで現れたのが憧れの作家の男。この子と作家の関係や問題あり3組夫婦との関わり方。私にはどうしても飲み込めなかった。そこが話の軸であるから、どんなに面白いやり取りしていても前に進めない。

その間もジェットコースターは上りと下りを繰り返し、一回転にして、でも、私の頭はついていかない。

 

四女の妻子持ちの作家に対する恋愛感情の出所はどこだったのだろうか。いや、普段なら芝居を見ているうちに登場人物の恋愛感情の出所なんて気にしない。そこに引っ掛かってしまったのは、芝居の中にその説得力がなかったからだろう。おそらく、その説得力は話の筋が非常に内向的で、客観性に欠けてしまっていることだと思う。

実体験の要素が多いということは、書いている本人が体験している分だけ、どうしても書かれずに省かれるところが出てくる。書いている当人の頭の中では自然と補われても、観ている側の頭ではすっかり抜けたままだ。そこの客観性に欠けているところに私はまんまとはまり、置いてけぼりを食らってしまった。

きっとずっと根本さんの芝居を追いかけて観て来た人は過去作から補いながら観れたのではないだろうか?

 

それにしても、大人計画のベテラン、村杉蝉之介さん犬も着ぐるみを着せて四つん這いにしてしまうなんて、すごいね。

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それでも、根本さんの書きたいことに対する筆圧の強さが役者陣を通して、ひしひしと伝わってくる芝居だった。書くことに対する情熱がとんでもなく熱い人なんだろう。なんとなくもう何本か観て観たい作家さんでした。

 

 

さて、昨年の観劇は以下の6作品。

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ナイロン100℃「百年の秘密」

坂元裕二「またここか」

ナイロン100℃「睾丸」

KERA・MAP「修道女たち」

ハロルドピンター「誰もいない国」

月刊「根本宗子」「愛犬ポリーの死、その家族の話」

 

大好きなケラ作品を全作観れたことは嬉しかった。

どれも面白い作品で、劇場を出る私はため息しかつけないほど、頭の中がかき乱され、芝居のことでいっぱいになれました。これは芝居を観る上ですごく幸せなことです。本当にいい経験をさせて頂きました。

 

今年もきになる作品が今からちらほら。

今から楽しみです。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

感想と批評についての試論、作家の閾下の発見にまで深化する考察

 

どうもこんばんは。

 

晦日に下北沢で観た根本宗子さんの芝居『愛犬ポリーの死、その家族の話』について記事を書いてるうちに、ふと思ったことがあってまとまりそうなので先にこちらをまとめてみることにします。

 

話は「感想」と「批評」についてです。

 

感想は改めて何かを言う必要もないと思います。本を読んだ後にどう感じたか。そう、誰もが一度は書いた読書感想文です。つまり「楽しかった」「つまらなかった」でいいわけです。もう少し成長すると「こうだから楽しかった」「ああだから楽しかった」となりますが、骨組みは基本的にこれです。作品の本質的な良し悪しに触れる必要はありません。あくまで思ったことを言えばいいのです。

これに対して、批評は良し悪しを語るところをスタート地点としています。

読んだ作品が面白いのかつまらないのか、ではなく、本ならば文学的に、芝居ならば演劇的に優れているかどうかを語るものです。これには当然、作品だけでなく周辺の知識、例えば作家本人について、モチーフについてなどを必要とする深い考察が必要になります。つまり、論理的にこうでああでいいだの悪いだの言う必要があります。

 

で、私が思ったことは「批評って本当にいるのかな?」ということです。

作った当人が感想以上に良し悪しを語られる批評を求めいるのだろうか。良し悪しを語り、制作側を一喜一憂させることに意味があるのだろうか。

批評の本質ってなんだろう。ということを考えてみたわけです。

 

私はもとより批評家希望ではないので、人様の作品を偉そうに言うことは申し訳なくて出来ないのですが、それでも、「ここがあーだったのは素晴らしいな」「これは私だったらこうするな」という感想の域を出たものを心に持ちます。それが好みかどうか。制作側の意図によってそうなったのか。理屈で考えるところから批評は始まるわけです。

つまり、多くの感想は批評のタネになっているわけです。

そして作品から考察していきます。その過程で制作側が狙ったことを汲み取ると、制作側は作品の裏側が伝わっていることに満足するわけです。

私も何かを書いたりするときにチラッとだけオマージュやパロディを入れたりなんかすることがあります。そうすると、中には「これってもしかしてあれですか?」と気付いてくれる方がいます。その気付きが仕組んだ側としては嬉しいわけです。

その気付きがもっと深化すると批評家は制作側の当人にも見えていない閾下の発見をするわけです。

これこそが批評において最も大切なのではないかと。製作者も意識していなかったことを発見することはその製作者の今後の作品に影響を及ぼします。ひいてはその世界、作家なら文学界、劇作家なら演劇界、音楽家なら音楽界の発展に寄与します。だからこそ、批評の必要性があるのではないかと。

 

ただ、難しいのは作家の閾下の発見とオタク的な深読みのちがいです。この違いは大きくはミクロとマクロの違いです。

この違いは今日は置いておきましょう。

 

結局、批評はあってもいいものじゃないか。と結論づけたわけです。

すると、またちょっと思うことがありました。

 

SNS時代、素人がいくらでも批評家を気取って文章を放つことができる時代です。

それに関して、批判的なプロの人もいます。

当然です。その世界に創るプロがいて、それを考察し批評するプロがいます。そのどちらにも属さない素人がいます。その素人がプロの批評家を気取ってものを言えば、どちらのプロも面白くないのは当然です。

その是非はどうでしょう。

 

素人が批評をしてはいけないとは思いません。プロの批評家だって初めは素人だったはずですから。

では、素人とプロの批評の線引きはどこにあるでしょう。

その線引きは批評の本質に求めていいではないではないかと思います。

つまり、「作家の閾下の発見」です。

 

自身も気づいてないことに言及されるから、たとえ批判的なことでも作家もその批評を受け入れられるわけです。作家自身も分かりきってる批判的な発見を素人に言及されても、そんなものを受け入れらる訳がないのは分かりきったことです。そりゃ、反感も買うわけです。

作家の閾下に言及しているかどうかによって、説得力が大きく違ってくるわけです。

作家当人もわかっていることを言ったところで、その作家のその後の作品やその世界の発展に寄与することありません。

SNS上における批評において反感を買うかどうかの違いはここによると思います。

逆に言えば、雑誌に寄稿するまでになった素人ブロガーさんはそこまで言及出来ているということではないでしょうか?

 

ここまで書いて納得した私はとても批評なんてする気になんかなれません。

ですから、感想と批評の間の「ノート」という言葉を使って、観たもの読んだもの行ったところについて、好き放題言うことにします。お暇な方はどうぞ、今後もお付き合いください。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

年頭言〜2019年〜

 

明けましておめでとうございます。

まあ、まだ三が日中ですから、新年の挨拶はオッケーですね。といっても、正確には日付回ってるんで、4日ですが。

 

昨年中はこんな駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

ごっちゃごちゃの自分の頭の中を言語化することで整理し、自分に言い聞かせることが目的であったり、書きたいことがなくても何かを書き出すための持久力のようなものをつけるトレーニングだったり、話を膨らませるネタを日々の生活の中から見つけ出す好奇心のアンテナを張り続けることが目的だったりしたわけです。

今年もそういった意味合いを踏まえつつ、書いていきたいと思います。もっといろんな世界を見聞きし、動いて、創っていきたいと思います。

 

そう、特に動くこと。

 

最近の私は全然動かないで、なんだかつまらない。

面白くない。

 

今年は思い立ったら動きます。

思いったら吉日。というよりも、思い立つこと、そのものが吉なんだと。

買い物出る前になんかダラダラする30分。目覚まし止めてから布団を出るまでの30分。こんなぐっずりな時間を減らして、すぐ動き出せばもっと時間が有効に、かつ活動量が増やせます。

 

そして、もっと思考します。考えます。

かねてより、ものを知っているという知識量よりも、思考して新しい見地を作ることの方が最も人間らしい活動だと思っています。

その活動をもっと積極的にしていきたい。

そのために勉強をしよう。まずは、語学。

海外の言葉を知ることは日本語の理解領域を拡大していく行為です。日本語の中の知っているようで知らない領域に海外の言語は照らし出します。その時、私は自分の中の新しい日本語の領域に踏み込みます。

自分の中の言語の領域が拡大するということは、思考の領域が広がることを指しています。言語を介して脳内で思考するわけですから、言語の拡大と思考の拡大は比例しています。

 

そして、その拡大した思考をもって、歴史、つまり古典を勉強したい。

高校の世界史の復習と宗教の勉強、そして世界の古典と呼ばれているものを読む。

 

もちろん、去年からの音楽の勉強はひき続きやっていきたい。

 

やっぱり今年も時間が少ない。

無駄な時間を過ごしている暇はない。

 

ずっと、中学生くらいの時から、なんかを創ったり演ったりクリエティブな仕事がしたいと思っていました。でも、やろうとするも半端なことがずっと続いて、今日の今日までやりきれずにここまできました。

25歳になる今年。今年、何かやりきれなければ、もう生涯やりきれない。そういうつもりです。

 

そんな2019年です。今年もよろしくお願いします。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

2018年締め

 

どうもこんにちは。

 

いつからか大晦日もなんでもない日になってしまった。それは私が家元を離れて、一人で生活するから年末らしいことをしなくなったこともあるだろう。でも、それ以上に街全体がなんだか年末を掠れさせてる雰囲気があるようにも感じる。

クリスマスが終わった26日に一番年の瀬の感じる。クリスマスが終わった途端に「クリスマスが終わると今年もあっという間だね」 なんて一年の終わりにしみじみする。

とはいっても、あと1週間近くあるわけで、そこから日に日に口では「あと○日」なんてことを言いながら、肝心の年末感は薄れていく。そして、いよいよ年末の真打ち登場、大晦日。大した感慨もなく、薄れきってしまったいつもと別段変わることのない大晦日を過ごす。周りのチェーン店もいつと何食わぬ顔で24時間営業しているわけで、いつもとなんら変わらない。

 

かくいう私は、掠れきったような大晦日の下北沢の街へ今年最後の観劇へ。月刊「根本宗子」の「愛犬ポリーの死、その家族の話」を。

劇作家としてというよりはラジオパーソナリティとしての方が馴染み深い根本さん。初めて彼女の作品を観るので、ワクワク。先だっての「睾丸」ではケラ作品に女優として好演。なかなか楽しみ。(15時51分現在)

 

ここからは、観劇後の私です。

 

これから、八王子に向かって、駅近でコンビニをオーナーをする友人の元へ。年越しをコンビニとはなんとも不思議なもんで。バイトをするとかでなく、ただ、いっしょに蕎麦をたぐる。いいね、たぐるなんざ、江戸っ子だ。

 

さて、今観てきた月刊「根本宗子」の『愛犬ポリーの死、その家族の話』については、また後日。

 

こうして、2018年も終わってく。

今年の反省ね。そうね、今年も私は変わらなかった。いい意味もあるようで、ほとんどが悪い意味。来年こそは、と思えど、こうして生きてきた24年間。25度目の正直があろうものかしら。それでも、懲りずに来年の抱負なんかを掲げてしまう。

その内容はほとんど今年と同じ。みっともない。いや、誰が見とうもないのだろうか?誰に見せるものでもない。

…ってことはないが、ここはそういうものを吐露していくために始めたのだ。構うものか。来年の抱負が今年と同じだろうと、明日の私が新年の抱負を掲げる気になっていたらば、掲げる。

 

今年、一年お読みくださった方々、よくもまあお付き合いくださいました。お礼申し上げます。

来年も続けていきたいとは思っておりますので、呆れてっらしゃらなければ、お付き合いくださいまし。

 

では、いい新年をお迎えください。こりゃまた、失礼いたしました。

習作戯曲「ピザが届くまで」

 

どうもこんばんは。

 

先日、ここにも書きましたが、コンペ用に短編戯曲を一本書いたので、ここの方々にも読んでいただけたらと思います。是非、あーだこーだ仰ってください。どんな意見でもどうぞ。わたしが耳を傾けるかどうかは別ですが…。

 

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では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

 

 

 

藤沢奇譚

 

どうもこんばんは。

 

もう何ヶ月も自転車通勤だったせいで、久しぶりに藤沢駅でJRから小田急に乗り換えると、階段に大きく「乗り換え口、出口ではありません」の文字。

ちょっとだけ使わないだけで、ちょっとだけ知らない光景に変わっていて、ほーっと息をつく。その間にそんな変化に気にも留めないような人たちに抜かされる。なんだかわたしだけ置いてかれる感覚。こんなことで周りに置いて行かれるんだから、時代に置いてかれるなんていとも容易いことだろうと思う。

 

湘南台から藤沢へ向かう朝8時。職場のバイトくんたち3人と深夜まで飲んで、そのうちの一人の家にみんなで転がり込む。大学生が20畳の広い部屋。飲み直しながら、録画してあった鎌倉が舞台の映画を観ているうちに、一人、また一人と寝落ちする。結局どうやって主人公が黄泉の国から奥さんを連れ戻したのかは誰も知らない。

部屋に来る途中に寄ったコンビニでわたしが買った缶チューハイはどれも半分以上を残している。わざわざ500にしたのに。

 

なんだか藤沢駅だけでもいろんなことを思って、気付かされる。

すっごく些細なことだけど、意外とわたしの中では大きく膨れ上がってしまっている。

この感覚どうやって文章に起こしたら面白いものだろうか…。

 

そろそろ今年の反省をしつつ、来年のことを考えてみよう。

鬼に笑われるらしいが、自分の愚行を誰かが笑ってくれるだけまだましだ。誰も笑ってくれないことほど身を切る切なさにほどされることもない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。

 

 

「滞」今年の一字

 

どうもこんばんは。

 

なんかいろんなことが停滞してしまってるな、と思う今日この頃。

出勤時間が14時なのをいいことに起きる時間が遅くなってやりたいことが全然なされていない。なんだか無駄に時間が浪費されるだけ。これも本当に良くないなと。

 

まず、朝起きる。

なんと当たり前のくだらない目標だろうか。文字に書き起こすのも馬鹿馬鹿しい。

 

今年もあと半月。別に平成最後がどうとかいうことじゃないが、中身のある生活をしよう。

 

ふとした気に、私は何をしているのだろうかと、生活というか存在自体関して投げやりな気分になる。かといって死にたいわけではないんだけど。でも、音楽がやりたいとか、私が何をしたいのか、行方が分からなくなる。生きている今が何も残らないことに対する怖さのようなものがある。

未来に何があるにだろうか。何かがあるであろう未来に、今がどう関わっているのだろうか。何もないような気がしてある種の恐怖心に押し殺されそうになる。

 

まあ、今が未来と断絶していることは絶対にないし、なんらかの影響があるんだろうけど、それでも今の過ごし方が未来を作るとは思えないし、こんな今に続く未来なんてたかが知れてるだろうし。

 

私はどうも自分を律することができないんだな。

そのくせ理想や希望はアホほど高い。分不相応も甚だしい。

 

でも、やりたいことを諦めたくない。

では、どうする。

 

朝起きるなんて底辺から律していくしかない。底辺からしかできないんだから。できる気になってんじゃないよ。

 

今日は随分と自分自身に喧嘩腰。理想側の私の堪忍袋が切れないといいんだけど…。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。