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茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

読後ノート「逃亡者」 中村文則

 

どうもこんにちは。

 

2023年、最初に読了したのは中村文則さんの「逃亡者 (幻冬舎文庫 な 39-2)」だ。

昨年末から通勤の電車で読み進め、579ページというそこそこの厚さの文庫も、その長さを感じさせない没入感で読み終えた。電車が江ノ島に着いてしまっても本を閉じることが出来ず、職場まで歩きながら読んだほどだった。

 

読み終えた最初の所感は、現実の今現在を、的確に、克明に切り抜く中村さんの鋭さにただただ、感嘆するしかない、ということに尽きる。

ここに書かれていることはどこを抜き出しても、間違いなく今現在の、現実のこの国の有り様なのだ。

 

「分断」によってこの国が置かれている危機に、私は静かに過敏になっている。

特に、安倍元首相の事件以来、分断の溝はジリジリと深まっている。

 

この状況に私は何をしたらいいのか、何をすることが正解なのか、とんと見当もつかず、ただ、分かっていることは、相反するイデオロギーをたった140字のTwitterなんかで叩くことが無意味である、ということだけだ。

相反するイデオロギーにとかく言えるほど、私はこの分断の両岸を熟考出来ていないだろうし、言葉はこんなに軽いのに、時として鋭利になってしまうくらいのことは分別している。

 

この物語は片岸から語られている。

私がいる岸から反対岸との間にある分断の溝をジーッ覗いている物語だ。

その溝は真っ暗で、はなのうちはなにも見えないが、目が慣れるとだんだんと見えてくる。

そして、それが思っていたよりも深い溝であることを知る。

80年昔の太平洋戦争、明治新政府によるクリスチャン弾圧、江戸幕府によるクリスチャン弾圧。分断の歴史は深く、亀裂の根源はたくさんある。

こんなにも昔から私たちは溝を挟んで、両岸とも自分の正しさを信じて、対岸を憎むようにして、分断してきたのだ。政治的イデオロギー、宗教、いろんな溝が生まれて、多くの分断を生んでいる。

 

主人公のジャーナリスト、山峰は太平洋戦争でいわく付きのトランペットを巡り、自分のルーツとなる物語と、愛した女性のルーツとなる物語を辿っていく。その二つの物語は今、世界を分断する亀裂にまで遡る。そして、そのトランペットを追いかける謎の組織や宗教団体と自分の思想を守るため、二人の物語を守るために、逃亡者となる。

 

わたしは感覚として、山峰が立つ岸が正しいと思っている。つまり、ファシズムを思わせる保守的イデオロギーに対する違和感やそれに扇動されて140字で語った気になっているネトウヨと呼ばれる人たちへの反感は山峰と共有しているものだと思う。

しかし、かといって、わたしは自分に立つ岸が必ず正しいのかどうかは断言しきれない。

 

なぜならば、宗教に関しても政治的なイデオロギーに対しても、わたしは不勉強すぎるからだ。

自分の国に対して、自分の信仰に対して、自分が理想とする世界に対して、こんなに世界中の人が大切にしているものだと、学校で教わっただろうか。世界中の人が大切している、ナショナルアイデンティティ、宗教、イデオロギーに関して、ほとんど教わっていないのに、社会に出た途端に、自分の考えを持って投票しろ、意見を発信しろ、政治に参加しろと言われても、そんなことは無理がある。

 

でも、この国は今、どれだけの人がその無理をなせるかで、国のあり方を大きく変えようとしている分岐点にいる。

どう考えてもおかしな話だと思う。どうして、誰もおかしいと言わないのか。本当はおかしくないのか。わたしは怖さすら感じてくる。

 

山峰の住む小説の世界は溝が、今のこの国よりももう少し深くなっている。もう少し、進んだ未来の話だ。

しかし、確実にこの国の延長線にある未来を辿っているのだと思う。

 

わたしはリアルに待ち受けている未来に対して、つまり、この小説に対して、不安しかない。でも、どうすることもできないので、やっぱりわたしは自分なりに勉強して、考えることしかできない。

逃亡者 (幻冬舎文庫 な 39-2)

 

では、こりゃまた失礼いたしました。