本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

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茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

観劇ノート「世界は笑う」

 

どうもこんにちは。

 

シアターコクーンにて、ケラリーノ・サンドロヴィッチさん作演出の「世界は笑う」を観劇。

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記憶が正しければ、「LIFE LIFE LIFE~人生の3つのヴァージョン~」以来の久しぶりのケラさんのコクーンにワクワクしながら、観てきた。

 

私とケラ作品との一方的な付き合いは、2016年の本多劇場で観た「ヒトラー、最後の20000年〜ほとんど、何もない〜」が始まりだった。

今思えば、ケラ作品の入り口が「ヒトラー〜」だったのはなかなかトリッキーだったと思う。

なんせ意味のわからないことがずっと延々と繰り広げられて、鳴海璃子さんが宙吊りにされたり、賀来賢人さんが黒塗りになっていたり、古田新太さんがほぼ全裸になっていたり、何が起こっているのかわからなかった衝撃しか覚えていない。

 

なんせそれまで見たことがある舞台と言えば、大学の課題で観た別役さんの「あの子はだあれ、誰でしょうね」だったり、加藤健一さんと風間杜夫さんの「バカのカベ〜フランス風〜」というコメディだったりしたので、こんなにもストーリーもなく、意味がないものが続く舞台は初めてだった。

 

しかし、この無意味な、何も分からないものが、どうしようもなく可笑しくて、笑えてきて、なのに何について自分が笑っているのかもわからない時間。今まで経験したことのない観劇経験に相当な衝撃を受けた。

あの時の衝撃が忘れられなくて、「ヒトラー」以降のケラ作品は全て観てきた。

そして、観れば観るほど、ケラ作品の世界観には振り幅があって、作品によって魅せられる時間が全く違うものになる。

 

TSUNAMI」を作った人間と「マンピーのG★スポット」を作った人間が同じ桑田佳祐だということが信じらないくらいに、ケラ作品も同じ人間が書いているのか信じられない時がある。

だからこそ、毎回、ぴあの先行抽選があると当選しているかドキドキするし、当選が決まれば仕事の予定なんかよりも先にスケジュールに入れてしまう。

 

今回の「世界は笑う」は戦後間もない昭和の新宿、そこに集う喜劇人たちを書いた群像劇であった。

冒頭、千葉雄大さん演じる是也は、深夜、どこからともなく吠える犬に向かって叫ぶ。

「俺はなんだって笑いに変えてやる。戦争だって、天皇陛下だって」

 

テレビの台頭に押される新宿の劇場を舞台に、戦争による傷心、薬物や結核による苦痛、いろんなものを抱えた人間が、喜劇に覚悟を決めたという共通点だけで支え合い、ぶつかって生きていた。

時代はいつだって邪魔するし、世間や時間の流れはいつだって足を引っ張る。

でも、舞台の上で人を笑わすことでしか生きていけないと腹を括った人間は、どんなに邪魔されても、足を引っ張られても舞台に立ち続ける。

 

これはケラさんにしか書けない舞台だと思った。

なぜなら、この世界を書くケラさんは三角座の喜劇人と同じくらい笑いに対して、覚悟を決めた人だからだ。

ご自身があれだけの覚悟を持っているから、同じように覚悟を持った人間の有象無象が書けるのだ。三角座の覚悟はケラさんの覚悟、そのものなのだと思う。

 

こんな風にあたかも知ったようなことを言っていても、私はケラさんにお会いしたことはないし、無論、お話したこともない。

せいぜい、Twitterのつぶやきがたまに垣間見れるプライベートぐらいなものだ。それだって、公に向けたプライベートでしかない。

 

その程度の人間が、「ケラさんの笑いに対する覚悟」なんて大きなことを語るのはちゃんちゃらおかしい。おかしいな違いないし、ケラさんのファンとして、知ったかぶりもほどほどにしてほしい。

でも、ケラさんの舞台からは毎回、作品に対する覚悟が必ず伺えるのだ。だから、一作も見逃したくない、絶対に生の舞台で観たい、何がなんでもチケットが欲しい、と必ず駆り立てられるのだ。

 

私はケラさんの書く昭和が好きでたまらない。

私が生きたことのない時代は、私にとっては架空の時代なのだ。未知で、だからこそその分魅力的な時代。

寄席では川柳川柳師匠が高座時間を過ぎても気持ちよさそうに「東京の屋根の下」を歌っていそうだ。

テレビでは先代の金馬師匠が腹話術で馬鹿馬鹿しいことをやっている。

きっと一番、笑いが必要で、笑いに包まれていた時代だったのだと思う。

 

全員が戦争の傷跡に向き合って、生きることで精一杯の中で、本当は虚しさと無力感だ満ち満ちているはずなのに、でも、人は生きないといけないから。笑いを糧に人が生きていた健気な時代だったのだと思う。

それが、登場人物からひしひしと伝わってきて、全員が好きになった。

結局、初子と彦造も撫子も是也もどちらも幸せにならなかった。

でも、結局一緒にならなかったのに、たまらなく美しい。

 

4時間が嘘のようにあっという間に過ぎて、客電が点いて、後ろの扉が開く。縋りつきたいくらい愛おしい世界から引き離された。

 

もうすでに次回作は決まっていて、チケットもありがたいことに先行抽選で決まっている。

楽しみで仕方ないし、なんなら、もう来たる終演が切ない。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。