本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

私はまだ汚いヘリコプターを探すのか…

 

どうもこんにちは。

 

「とりあえず後でやろう」という私の悪い癖のせいで、危うく配信期間に間に合わないところだった「明日のたりないふたり」のライブ配信をギリギリのところで見終えた。と思ったら、配信が延長になったのでもう一回でも二回でも観れることにため息をついて、「とりあえず後で見返そう」といことで、久しぶりに筆を取る気になった。なんか忘れちゃいけないと思って、なんでもいいから残しておかなくちゃと、手帳に殴り書いて、ここで整理しておかなくちゃと急き立てられた。

 

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人見知りで、妬み嫉妬が深くて、必要以上に他人と見比べて卑下して、人が楽しそうにしているものに共感できない二人。自分たちのそんな「たりない」ものを求めて、12年前にセンターマイクの前に立ったのは南海キャンディーズの山ちゃんとオードリーの若様だった。

水曜と土曜の深夜にたりないものを並べて、私たちリスナーを慰めてくれていた二人は、たりないものを並べたてたエッセイでその発行部数を伸ばし、そのたりなさを武器に下から関節技を決めていたのに、気づけば女優と結婚してグリーンカレーを堪能したり、見えない嫁が見えてゼクシィなんか買っていた。テレビで見ないことは無くなって、MCとしてはもう追随を許さぬ最前線にいて、武道館に立てば2万人が集まるような、もうすっかり芸能人になっていた。

たりないものを追っかけていた二人にたりないものはもう無い。誰だってそう思っていた。

 

でも、二人が求めていた「たりなさ」は満たされていなかった。

 

一年前のみなとみらいで開催された「さよならたりないふたり」で若様は必死に汚いヘリコプターに乗って「たりてる」側に昇ろうとするも、それは山ちゃんに爆破される。 

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この時まで二人は「たりている」側に行くことが目標だった。山ちゃんは「自虐の竹槍」を捨て、次の自分に変わろうとしていた。結婚もして、今までのような妬み嫉みは届かなくなってきた。次の若手世代がどんどん迫ってくる。そんな中で戦うには、当たり前のように「アップデート」が必要だ、と思い込んでいた。

 

でも、中学生の頃から手にしていた武器はそうそう手放せるものではない。

若様はそのことに12年経って、やっと気づいたのだ。

 

大切だったのは「たりない」人間が「たりてる」側にもがき昇ることじゃない。

「たりない」ことを受け入れて、「たりない」からこそ見れる景色を、たとえそれが低い場所からでの景色だって、楽しんだっていいんだって甘んじられることだったのだ。

なりたい自分になるための努力は苦しくて、精神的にも辛いことだと思う。でも、なれないという事実を受け入れて、なれない自分でいることを認めなくてはいけないことは、努力以上に苦しくて、辛いことだと思う。

 

これは逃げることじゃない。

 

これ以上登れないところまで、もがき昇ったからこそ、目の前の景色は変わったのだ。

12年前とは景色の変わった北沢タウンホールの客席を見て二人が吐き出した「あーたりなくてよかった」という最後の一言は、12年の間、「たりる」ためにもがき昇った苦しみからのやっとの解放だったのだと思う。

 

今、私が現状を変えるための努力をやめて、目の前の景色を受け入れることは、ただの「逃げ」になってしまう。

まだ、もがき昇る努力の最中なのだ。やめてはいけない。

 

努力することをやめた二人の背中を見て、私は自分の努力をやめてはいけない、と心に強く思った。

 

汚いヘリコプターを探し続けなくては。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。