雑記 〜本屋、反知性主義、執筆〜
どうもこんばんは。
暇な時間を見つけては、本屋に赴く。で、最初はそこに並ぶ数多の本たちとこれからそれらと出会う期待でワクワクするのだが、すぐに失望してしまう。
なぜなら、ここにある本の全てを私は読むことができないからだ。必ずこの中のどれかを選択して、有限の素晴らしい出会いと残念な出会いしか繰り返すことができないのだ。これだけ本棚いっぱいに一人の人間が思考し、言葉にした結晶が並んでいるのに、そのうちの微々たるものしか享受できないのだ。そう思うと、私がここで数冊読んだところで何になろうか、などとつまらないことを思ってしまう。
たいてい本屋に行く時は何か鬱屈としないものを抱えている時だ。解決策も講じずに、何かにすがるように行くつくところが本屋である。そこで、気休めに、慰めに何冊か買ってみる。その中で読むものもあれば、数ページでやめて、積んだかれてしまうものもある。
平積みされた本は映画やドラマになった原作や、耳障りのいい自己啓発本が並ぶ。どうにも商業臭がして嫌気がする。それでもたまに耳障りのいい自己啓発本のタイトルに惹かれたりもする。本当に読むだけで私が変わるのだろうか。半信半疑で手にして、目次に目を通す。そこに並んだ当たり前の言葉たち。私の中には新しいことは一つもない。自己啓発本で何かを学んだことがないのを思い出す。自己啓発本をすぐに棚に戻す。
それで、やっぱり小説なんかを買う。
本当に読みたいものを買うわけではないのだが、気休めにポケットに新しい文庫本を入れたいのだ。
とにかく何かを変えたいと思って一冊だけでも本を買うのだ。家の本棚に一冊増えるという変化、それだけにすがっていたのかもしれない。
少し前にこの国は船頭を変えた。そして、アメリカも船頭を新しくしようかどうしようかという瀬戸際で揉めているようだ。
この国は政治が形ばかりでしかないということの現れなのか、総理大臣が形式的にすんなりと決まる。一国の総理を決めるその時に我々にその選択権は与えられていないのだ。党内の派閥の大小が総理大臣を決めるなんて、だいぶバカにされているな、と思ってしまう。
しかし、政治に関して、不学の私の怒りに説得力はない。ならば、政治について勉強をしなくてはいけないのではないか、最近そんな危機感を持っている。そして、この危機感にまだ反知性主義に堕落していないことを確認し、安心する。
ここのところずっと、少し長めの小説を執筆してる。
こんな言い方は、とてもカッコつけていて、世の中で本当の小説を執筆されている方々にあまりにも失礼なので正しく換言しておこう。
ここのところずっと、少し長めの私的駄文を垂れ流している。
私が書くものなんかこっちの方が、よっぽど合っている。
今、やっと原稿用紙36枚分書いたことになっている。この後、どうやって話を続けて行こうか。書きたいエピソードはあって、書きたいものとも関連づけれている。でも、そんな技術的なことを考える必要があるのかな、なんて疑問を持ったりもする。書きたいものを書くことが一番難しいなんてことを今更に身にしみて感じたりしている。
書きたいテーマについて深く考えれらていないのか。
とりあえず手帳にあったものを少し広げて書きました。
もう11月ですし、頑張ってもう少し書く頻度を増やしたいと思います。
考えることをサボっていたな、と反省しています。
では、こりゃまた失礼いたしました。