本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

映画「お名前はアドルフ?」

 

どうもこんばんは。

 

休みの日に映画を観に。なんか面白うそうなものを求めて、茅ヶ崎から本厚木へ。

相模線の車内で「ユリイカ 2020年10月臨時増刊号 総特集◎別役実の世界 ―1937-2020―」を読んでいると、相模線厚木駅を降り過ごして、仕方なく海老名で小田急線に乗り換える。

特に早稲田の演劇博物館の岡室さん、岩松了さん、ケラさんの対談が面白かった。別役実という人間が、劇作家が何を書いてきたのか、作品を観て、何となく感じて認識していたものが、みるみる言葉になってくる。認識が概念になって、すっと頭に入ってくる。また読み返したい。

 

そんな無駄な乗り換えがあったものだから、時間ギリギリに会場へ。

 

今回、観たのは2018年のドイツ映画「お名前はアドルフ?」

映画『お名前はアドルフ?』オフィシャルサイト

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ワンシュチュエーションで、繰り広げられる会話劇。

大学教授のシュテファンと国語教師のエリザベト夫妻宅にて催されるディナー。招待されたのは、エリザベトと幼少期を共に過ごしたクラリネット奏者のレネ、エリザベトの弟で実業家のトーマスとその妻で女優のアンナの三人。アンナのお腹の中には赤ん坊が。

楽しい夜のディナーショーはシュテファンの「子供の名前は?」という一言で徐々に徐々に加速しながら、真っ逆さまに堕ちいく。トーマスは子供の名前をこともあろうにナチスの総統ヒトラーと同じ「アドルフ」だと答えるのだ。

名前をめぐる論争はいつのまにか理屈を飛び越えて、滲みでてくる偏見、嫉妬、劣等感。誰にも言ってなかった過去の秘密までエグる始末。そのスピード感と見え隠れする人間味に90分間があっという間に過ぎていった。

 

間違いなく、会話劇の最高峰じゃなかろうか。

とんでもない傑作じゃなかろうかと思う。

 

世の中に会話劇なんか星の数ほどあって、傑作名作も山ほどある。

会話劇の面白さって何だろう。考えてみた。

 

人間には普段は表に出さない自分がある。それは「出さない」というよりは「出せない」と言ったほうがいいのかもしない。自分の目に映る色眼鏡を通した世界を誰が堂々と口にできるだろう。誰にも言えない妬みをSNSに晒すだけの勇気が誰を持ち合わせてのだろうか。

そんなものは口にせず、隠しておいた方がいい。他人の前では色眼鏡を外した景色が見えていることにした方がいいに決まっている。嫉妬なんかしていない自分が本当の自分だと、その方がずっと生きやすい。人は自分が本当に見ているもの、考えていることはずっと隠している。

しかし、白熱した議論に前にはそいつを隠し通すことは出来ない。

気づけば隠しておきたい本当の自分を武器として手に握って、相手に向けている。知られたくない自分で相手を攻撃し始めている。

徐々に明らかになる隠しきれない自分が滲み出た時、会話劇は一気にピークを迎える。引くに引けない自分の主張を押し通すため、相手に負けないように、さらなる隠しておきたい自分をさらけ出す。その泥沼に人間味を感じる。

着ていたセーターの毛糸をほどけば、みるみるうちに真っ裸になる。相手を刺すために自分の肉を削いで剥き出しの骨を突き刺してしまう。

 

今作はまさにそこが一番の醍醐味だった。

大学教授のシュテファンは無学のトーマスを見下している。そんなトーマスはシュテファンが両手で大事に抱える高価なワインを片手で投げるように手渡す。肌が艶やかで小綺麗で芸術家として四十歳を過ぎても独身で生きるレネの穏やかな人格にみんなは勝手な偏見を持ってしまう。

みんなそれぞれに隠して見せない偏見に、嫉妬に、劣等感がヒートアップする会話から滲んでくる。隠しきれなくなってくる。晒された自分に気づいた時にはもう遅い。互いに築いてきた信頼関係は大きな音を立てて崩れていく。晒した方が不幸なら、晒せれた方も不幸。知りたくなかった自分の妻とレネの真実を知った時に、トーマスは正気じゃいられなくなる。

みんながみんな晒してしまった自分に、晒されてしまった家族の秘密に自分の感情がコントロールできなくなった時、いよいよ我慢できなくなったエリザベトが声を上げる。

 

このエリザベトの長台詞がお見事。素晴らしい。

このシーンの終わりに思わず小さな拍手をしてしまった。

 

ヒトラー」をキーワードに伺える、ドイツ人と第二次世界大戦という過去の向き合い方は過去に「帰ってきたヒトラー」でも垣間見れた。戦場を舞台にするでもなく、戦火を逃げ惑う市民を主人公にするでもなく、それでも伺える戦争という記憶。

日本には見られない類いの戦後のための戦争映画ではないだろうか。

直接的な戦争は撮らずとも、戦後に生きる我々の中の記憶に沿って、その記憶から映される戦争。日本人とドイツ人の記憶の保存の仕方が決定的に違うことが明らかだ。

どちらがいいかということは議論を始めれば、キリがなくなるが、ドイツのような戦争との向き合い方があることは知っておく必要があるのではないだろうか。見たくない記憶をわざわざ遠ざけるような悲惨さだけの表紙をつけて飾っておくだけが、正しい記憶との向き合い方ではないだろう。

会話劇としての面白さだけでない。歴史認識を入り口に古い知性主義や権威主義、多様性の名の下に展開される身勝手な偏見。そこには多様性を認めるどろか排他的なものばかり。そこに戦争という負の歴史を投影されているのに感嘆してしまう。

 

人間が隠していたい自分とはどんな自分だろうか。

私にもそんな自分がいる。もちろん、私にはそんな自分は存在しない。

と、ここではそういうのだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。