本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

渋谷のクラスターフェスから派生して

 

どうもこんばんは。

 

朝起きて、コーヒーを淹れながら、今日は何をしようか予定を組む。もちろん、週の5日は仕事なので、仕事帰りに習作を書くか、勉強するか、何かインプットするか、どれもこれもやりたいのは山々だが、全部ができるわけではないので、どれかに絞る。それを手帳のウィークリーページに書いて、簡易的なto doリストにしておく。洗濯とか掃除機がけとか、そんな些細な家事まで書き込んでおく。

 

普段、やりたいことがto doリストに加えられない抑圧から、休みにはあれもこれもと書き出してしまう。

この暑さ。日の出ている時間に動けるわけがない。夕涼みがてら、海まで散歩して、帰って、コーヒー飲んで、その後からでどれだけの時間が残っているだろうか。リストに上げてもチェックの付かない空欄が多いと、なんだか1日を無駄にしたようで、嫌になってしまう。

そんな気持ちで布団に入り、目を開けば、また仕事の日々が始まる。なんと鬱蒼たる日々だろうか。

 

ちょっと前のこと。渋谷でコロナ対策に対抗する騒動が持ち上がったのは、皆さんご存知でしょう。

https://matome.naver.jp/odai/2159694517633412101

 

これに対して、方々にいろんな意見が発せられました。

大半が抗議の意を示すものでしたが、中には賛同するものもありました。ただ、私は抗議をする声の中に、少し過激ではないかというものを見つけました。

概要は、こんな人に迷惑しかかけない馬鹿はどうにか排除してしまおう、というものでした。また、このコロナは普段は現れないそういった馬鹿をふるいにかけるのに丁度いい、という旨のことを言うのです。

確かに、マスクもせず、蜜になって集まられては困るし、手っ取り早いのはそういった足並みを揃えられない人たちを収監して、社会から排除してしまうことです。

ただ、これが根本の問題解決になっているのか、甚だ疑問ですし、この考えは危うささえ感じてしまいます。

 

私が感じる危うさの原因は二つあります。

一つには、この考えは身体的な障がいを抱えている方や高齢者や幼児など、にも適用されかねないと言うことです。

思慮が足りずに他人に迷惑をかけてしまうことと、身体的に不自由が生じているが故に周りに迷惑をかけてしまうことに大差はありません。我々は福祉という観点から、不自由な人や高齢者を手助けすることを「迷惑とかけられている」と考えず、それが当たり前の社会を築こうとしているわけです。
思慮が足りない人間の排除は、このことを根本から否定していることになりかねません。

 

もう一つには、自分が排除される側に回る日が来るという前提が省略されているということです。

仮に、社会に対して迷惑をかける人間を排除したとしましょう。それで、社会は収まりがつくのでしょうか?迷惑をかける人間はいなくなりましたが、次に社会に利益を還元できない人間が排除の対象になりかねないと思うのです。となると、次はその還元利益の低い人間、とこの排除の連鎖は終わりません。その連鎖の中に必ず私がいます。遅かれ早かれ全員が排除されることになるのです。

 

まあ、私がこんなことを考えたからといって、何がどうなることもないのですがね。

こんなことを考えながら、社会が生産性だけを求めていくと、それに見合わない対象は排除されることになるのは当然だな、と悲しくなります。じゃあ、生産性なんか求めなければいい。これが私の行き着いた結論です。

私には自分を満足させること以上のことが過分に求められすぎている世の中の気がしてなりません。自分を満足させること蔑ろにして、社会に生産性を献上しなければならない社会に見えてならないのです。

 

自分を満足させることが第一義になる社会。どうやって作ったらいいでしょうか。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。