ちゃんとした絶望しよう
どうもこんにちは。
さて、何について書こうかな。
キーボードを前にして、いつも思う。
ついさっきまでは、どうでもいいことやくだらないことを考えて、これ掘り下げてブログにしようとか思ってるんだけど、頭の中には見事に残らず、気まぐれで書いたメモが時々、手帳の隅に残るだけ。
人間が考えることなんてそんなもんだってことでしょう。
何を書くか、考えるところだけで、時間は過ぎていく。
アルバイトの男の子で、プロのサッカー選手として、ブラジルで契約したものの振るわずに、日本に帰ってきた子がいる。その子は本当はサッカーをしたいんだけど、限界が見えてしまった。仕方なしというか、そうせざる得ないからか、別の道を生きるために不本意な専門学校に通おうとしている。彼はきっと、彼の人生で一番理不尽で残酷な時間を生きてるんだろうなと話を聞いていた。
プロのサッカーってのはちょっと話が大きいが、大人になれば誰でも程度の差こそあれ、絶望に一度は襲われる。自分ではどうにもならない理不尽に見舞われて、思ってもみなかった今を否応なしに生きることになる。
しかし、起きている現実が、今が、全て正解ならば、泥水をすするような毎日を送るしかない。いつしかこの味に慣れて、なんでもない日が来るまで。
彼はきっと初めてすするこの味に悔しさと惨めさとを我慢して飲み込んでいるに違いない。
私はいつ、この味に慣れたのだろうか。
今も心のどこかで苦々しい思いと生きているような気もする。彼のプロサッカー選手というような具体的な理想でなく、まだ私にも見えていない生き方が出来ていないことへの辛苦な気もする。
この歳になって「まだ見えていない」というのが情けない。しかし、情けないと私を笑ったあなたに聞きたい。理想の自分が明瞭に見えていて、それに行き着けなかった絶望を経験出来ただろうか?
いや、ちゃんと行き着いたから絶望なんか経験していないというなら、それはそれで結構。ただ、多くの人はいつのまにか、何が破れたのかも分からぬままに、まともな絶望も経験せずに、ただ何となしの「こうじゃないんだよな」って人生を生きてやいまいか。
いつのまにか混じっていた泥水が濃くなっても、気付かぬふりして生きてやいまいか。
私はちゃんと向き合いたい。どうして泥水が濃く、汚くなっていくのか。
そして、出来れば泥水をすすらずに済む道を探りたい。しかし、人生はもうほとんどが決まったようなもので、抗い難いこともある。必要ならば必要な絶望をしたい。
なんだか分りもしないうちに、諦めの泥水をすする大人ばっかり見てきたせいだ。
では、こりゃまた失礼いたしました。