本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。茅ヶ崎の海辺からコカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

文化自給自足生活

どうもこんにちは。

 

文化的自給自足をしたいと思う。

自分で享受する文化的なものを自分で賄いたいのだ。


家で野菜を育てれば、何か身になる資格勉強をしていれば、人はその時間を有意義だと言う。

なんかしらの結果が得られるからだ。その結果を生まない時間は、世間では無駄なのだ。

それこそ、流行作家になったり、名声のあるピアニストにならなければ、文化的な時間は無駄なのだ。そう、無駄。

私がこれを書く時間も、それを読むみなさんも、共に無駄な時間を過ごしているのだ。そう言うことになる。


結果を生まないことが無駄だという考え方は、私のそれとは相反する。

行為そのものを楽しむことに、どうして意義が認められないのか。なかなかもどかしい。


この自粛生活でどれだけのその無駄が失われたか。どれだけ踏み付けにされて再生が難しくなったことか。


本当に我々はあれだけ多くの犠牲を払って自粛する必要があったのか。

一度、そこに立ち返って、この対応を反省する必要があるのではないかと思う。あまりにも失われてしまったものが多すぎる。決して、命の重さを軽んじているわけではない。確かに新型コロナで失われた尊い命に対しては、最大限の喪に服すべきだ。

しかし、それをいい看板に、我々は正確な情報のもと、正確な対応をしていたのか。

マスクのために大枚をドブに捨てる、給付金の対応が遅い、休業補償の給付がホンの微々たるパーセンテージだとか、確かに政府は何もしていない。何もできていない。一つもだ。それもそれで愚かしいと思う。


でも、そんなことよりも必要以上の自粛脅迫で、我々は失わずに済むものまで奪われたのではないか、と思う。何もしない自分たちを棚に上げて、我々は身を切ることのみを強要された。その結果、死守しなくてはいけないものを、易々と国は奪っていった。


それをどういう手を使っても取り戻すべきではないか。取り戻さなくてはいけないのではないか。そんなことを最近考えている。


コロナと生きていくための新しい生活という、さも我々に寄り添ったかのような浅はかな提案。我々が求めているのは、そんな茶番にもならない馬鹿げた冗談ではない。再生が不可能になりつつあるつい数ヶ月前の文化的な生活だ。国に殺され、戻ってこない生活だ。私はそれをなんとかして、生き返らせたい。


なぜなら、それは無駄ではないからだ。

長い時間をかけて、人間生活の営みの中で不必要なものが育まれるわけがない。ギリシャ悲劇が生まれて、すぐに今の多様な表現で、深みのある演劇になったわけがない。何千年とかけて、歴史に残らない駄作が大量に生まれて、その中から、太平洋のど真ん中に落ちた100円玉を見つけるようなわずかな確率で名作が生まれ、そのわずかな確率を重ねて重ねて、長い年月をかけて築かれたものなのだ。

それを何者できない愚かしい一部の人間によって、たった一瞬にして、また太平洋に100円玉を投げ返すがごとく、失われていいはずがない。文化を守るという仕事は、個人の仕事ではない。今まで何千年という長い間に、関わってきた全人類を背負い、未来永劫の全ての人類に引き継ぐ仕事なのだ。マスクも配れない浅ましい人間ができる仕事ではない。

今、失えば、この灯火を吹き消してしまえば、また、火が灯るまでに途方もない時間を有する。


自粛脅迫にはその責任と覚悟があったのか。

あるわけがない。そんなことに考えが及ぶ人間ではないのだから。目先のことしか見えない取るに足りない人間なのだから。


守るためには、文化のピラミッドを崩さないためには、裾野を削らないことだ。

自粛によって経済も末路を辿り始め、裾野で営まれていた文化は困窮に瀕している。これをなんとか少なわければ、ピラミッドの頂はバベルの塔も同然だ。

そのために、私は自分の文化を自分でまかない、進んでその裾野となりたい。


そんなことを考える。

戯言に過ぎないな。


では、こりゃまた失礼いたしました。