本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

的外れな数字嫌いは、私の浅はかさ

 

どうもこんにちは。

 

ちょっと前にTwitterで話題になった記事です。

コロナ後の世界 - 内田樹の研究室

 

内田さんの著者は、私も何冊か拝読させていただいています。

中でも「街場の文体論 (文春文庫)」は「文章を書く」ということが本質的にもつコミニュケーション能力がこれからの社会で生きていくために欠かせない能力であることを前提として、いかにそれを高めるかについて、通暁した氏の脳内書庫から出てくるたくさんの具体的な書籍とともにわかりやすく、読みやすい文体(講義録なので口語ってこともあるけど)で記されています。もっとも、こんな簡単な説明自体がこの本の本質と的外れな気もしますが。

 

そんな内田さんが、日本政府によるコロナ対応がいかにして失敗への道を辿ったのか、その本質を鮮やかに解きほどき、この後為政者によって展開されることが予想される本質をねじ曲げた改憲強硬論まで駆け抜ける。そして、内田さんの明快な説明による民主主義が持つ本来の可能性、そのために必要な我々のこれからのあるべき姿をカミュの「ペスト」を例に口説く。

最近の報道や入ってくる情報から湧いてくるモヤモヤした違和感、言い知れない苛立ち、不安をクリアに言葉にしてくれている。その上で、この感情を落ち着かせるために必要なことを冷静に、適切な温度で教えてくれている。

温度が適切であるということが、いかにも内田さんらしくて、大袈裟に騒ぎ立てたりしない。それは今回の報道の在り方に対するアンチテーゼとしてはこれ以上ないくらいだ。自粛に対する報道は大袈裟すぎないか?コロナで犠牲になった女優さんの遺骨がやっと自宅に帰られることをあんなにフラッシュを焚いて報じる必要があったのか?

我々は報道される内容ではなく、その報じられる温度で、入ってくる情報の有用性を判断している節がある。

 

閑話休題

これを読んで私はまさに雷に打たれたようにショックを受けた。私はずっと民主主義に対して不信感を抱いていた。

数字嫌い - AM1:00-3:00

ずいぶんと前に書いた記事です。

 

この不信感を自覚したのは、2016年に都知事選の報道を見たときのこと。

当初は、小池現都知事対立候補だったジャーナリストの鳥越俊一郎さんが優位に選挙戦を進めていたように記憶しています。たしかに、報道番組での氏の発言や、街頭演説でも説得力のある主張を繰り広げていた。しかし、鳥越さんのスキャンダルが週刊誌に取り沙汰されると、氏の支持率は下落し、開票すると、当選したのは小池さんだった。

私はどうにも府に落ちなかった。都知事選とは東京都で政を執り行う人物を選ぶ行為だったのではないか。都政を仕切る能力とスキャンダルにはどんな関係があるのか。スキャンダル報道後に鳥越さんへの支持を降りた人は、そもそも鳥越さんの何を支持していたのだろう。スキャンダルのないクリーンさなのか。では、クリーンであることと政治を執り仕切る能力とはどんな関係があるのか。それは都知事選の本質を外しているのではないかと思う。

 

そのときに、民主主義とはいつのまにか本質を見誤ってしまうのではないか。

本質を見出すことが出来る人も、出来ない人も平等に一票を有している。これは本当の意味で平等と言っていいのだろうか。

 

そういうわけで、乱暴な言い方をすれば、「バカも平等に一票持つ」という民主主義は偽善的な香りがすることもあって、信用ならない。いや、ならなかった。リンク先の内田さんの文章を読むまでは。

 

私はかなり浅はかだった。なぜ「バカも一票を平等に持つ」というところから、では「そのバカをバカでなくする方法はないか」という発想にならなかったのか。なんで一つの思いつきで思索をやめてしまったのか。そもそも「バカにも一票」という欠点にも翻りかねない政治体制が採用された背景を考えなかったのか。浅はかすぎる、私。

 

内田さんの説明による明快で分かりやすい民主主義の最大の利点。そして、運用するために必要な「大人」たちだということ。これを読んではっきりとしたことは私が抱いていた不信感は民主主義というシステムそのものに対しての不信感ではなかった。現状でこの「大人」たちを育成するシステムが作られていない、というところに私は不信感を抱いていたのです。

だって、思い返してみてほしい。学校で民主主義について、それに基づく議会制民主主義について、システムは習ったが、いかに運用していくかについては習った覚えがない。どうやって投票する政党を決めるのか、普段から政治に対してどのような姿勢で向き合うのか、それにはもちろんメディアとの距離感もあるだろう。そういった実用的なことを一切習った記憶がない。

それなのに、十八歳になると投票券が送られてきて、政治に参加する。この流れのどこで「大人(成熟した市民)」になれるだろうか。民主主義を運用していく上で、一番大切なところがごっそり抜けているような気がする。この空白に対して、私は違和感、不信感を覚えていたのだ。

 

私ももっと勉強しなきゃいけないな。これだけ家にいるんだから、勉強しよう。

勉強したことが何かになるんではない。勉強して、考えて、自分の中で答えに出すこと自体が大切なのだ。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。