本、映画、演劇、美術、テレビドラマにラジオといろんな文化に触れたい好奇心。 コカコーラ片手にぱーぱーお喋りしています。しばらくおつきあいのほど願ってまいります。

AM1:00-3:00

茅ヶ崎のゆとりがコカコーラ片手にラジオのような独り語り

勝手に思って、勝手に言い訳

 

どうもこんにちは。

 

人生において目的と手段ってなんだろうかと思う。

生きるための仕事、遊ぶための生活、遊ぶための努力。

一生懸命になればなるほど、ある時、ふと逆さまになっていやしないかと、気付く。

途端にバカバカしくなる。

 

自分を満足させることが目的で何かを創りはじめても、気がつくと人からの評価を求めて、そのために書きたいものから離れていくことがしばしばある。そうなると、創ることが楽しくなくなる。

だから、人の目を気にせず創りたい。

 

と、いうことはSNSが爆発的な瞬速で広まった今日、よく言われている。

ただ、これは創作の奥の奥の根っこが持つ闇を見て見ぬフリしているように思う。そして、そのことは闇から抜けて太陽の陽を燦々と浴びる歓びを失ってしまうことでもある。

 

どうして、自分を差し置いて、他人を喜ばすことが創作の本質的な歓びになるのだろうか。

私は、自分の中だけにある世界を表に生み出すことはとんでもなく難しいことだと思っている。それは、他人からの評価を得る作品を書くことよりもはるかに遠いところにある。

 

創作においての闇とは何か。それは自分自身と向き合うことだ。

原稿用紙を目の前にした時も、鉛筆を削っている時も、私はこれからどんな自分と出会い、どんな物語を築くのか知らない。

書きながら、思索しながら、誰にも見せてこなかった自分と、つまり、私自身にも見せてこなかった自分を闇の中で探すのだ。そして、そんないるのかどうかも怪しい自分と出会う時、それを形にできた時、一寸先も見えなかった暗闇が煌々と光る陽の光に照らされるのだ。その光を浴びた時、この作品と向き合ってよかった、と思うのだろう。

 

しかし、やっぱりそれは他人の評価を超えた自分との中に生まれる光ではないかと、先のこととの矛盾を感じる。

 

他人から評価を得る作品を創る。作品を享受する人と向きあうこと。

自分の外の他人と向き合うことは知っているつもりになっている自分と向き合い直すことより簡単なことなのであろうと思う。

他人と向き合えずに、自分と向き合う闇から抜け出すことは出来ない。

自分を真に喜ばす創作のためには、他人の評価を得ることが出来る作品が創れなくてはいけないのではと思うのだ。そして、他人の評価のために創作の表層的な楽しみから離れてしまうことに耐えられなければ、暗闇の中で彷徨う恐怖にも似た苦しみと対峙できない。

 

大仰な物言いで、さも自分が傑作を書いたかのような大口だが、私だっておそらく闇の中に入れてすらいない。

闇に向かうためにどうしようか。

なので、今年は文学賞に積極的に習作を応募してみます、ということが言いたいのだ。

 

決して、人様から褒められたいのではない。

そうすることで会得できる自分と向き合う闇への入り口に入るためだ。

私の創作が世に迎合したと言われたくない言い訳を先手を打って口説きたかっただけ。

 

だれも、そんなこと言わないのに。

 

では、こりゃまた失礼いたしました。